第三十話 心の回路と記憶
シャンパングラスより少し口の広い器を、神様が全員の手元に置いていく。
中にはミルクセーキが入っている。
液体ではなく個体で、バニラアイスのようだ。
「あ、ミルクセーキ……」
「瑠璃は長崎出身だものね」
「はい」
瑠璃が亡くなる少し前に、長崎で広まったミルクセーキ。
瑠璃は、女学校の友達や姉と時々食べていた。
口に含むと、ほんのりとした甘さと冷たい食感でとても幸せな気分になる。
「そうか。あの違和感は全部、瑠璃だったんだ」
圭祐がぼそりと溢した言葉に、瑠璃が「何のこと……?」と尋ねたが圭祐は答えなかった。
瑠璃はそのまま圭祐をじっと見つめた。
しかし、圭祐は複雑そうな顔をして、うつむいたまま動かない。
仕方ないというように、瑠璃は話かけ続けた。
「慶二郎さんもね、ご近所に住んでたのよ。私と同じ川で亡くなったし……」
そこまで言って、瑠璃はハッとした。
(記憶が戻ったんだから、家の場所や生前に何があったのかなんて、今の圭祐は当然知ってる。それに、まだ『ありがとう』も『ごめんなさい』も言えてない)
瑠璃は、当時の自分の行動は独り善がりであったと心底思う。
まわりが見えていない子どものするような選択だった。
今でも父や伯母を憎いと思う時はある。
それはお見合いだけではなく、幼い頃からの出来事が重なっての感情だ。
しかし、突っぱねられる結果に終わったとしても、なぜ最後まで意思を伝えて闘わなかったのか。
どうせ伝わるわけがないと最初から決めつけて、自分の未来を放棄したのではないか。
長く天界で暮らすなかで、瑠璃はそう思うようになってきていた。
そのような幼い選択をした過去を、生まれ変わって今を生きる『圭祐』に知られてしまった。
瑠璃は気恥ずかしさと、情けない気持ちでいっぱいになった。
(圭祐に、慶二郎さんの頃の記憶がないことを怒りながらも、どこかで安心してたんだ……)
そんな瑠璃の隣で、もくもくとミルクセーキを食べていた神様が最後の一口を食べきると、カランとスプーンをグラスに戻した。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「自死は『防衛本能の誤作動』のようなものだと、私は思っているよ」
その場にいる全員が、言葉の意味を飲み込めないような顔をした。
天使である秘書でさえ、同じ表情をしている。
「『絶望』が人に『死のきっかけ』を与えるというよりも、『失えば死に至るほど大切なもの』が死をちらつかせるんじゃないかな。だから、皮肉にも大切なものや生きがいができると、それを失った時に死の誘惑が訪れるんだよ」
「死に至るほど大切なもの?」
瑠璃は、もう少しで神様の言葉を掴めそうだけれど、やはり手の中からすり抜けてしまうような感覚になった。
「人によっては、パートナーや子どもにペット。親兄弟、友達などの親しい人、平和な生活。挙げるときりがないね。あぁ、芸術作品という場合もあるね。自分の表現したいものを形にできなくなった時も死の誘惑がやってくる。特に、名の通った作家はね。自分の作品に本格的に嫌悪感を抱いてしまう前に、この世を去る。そういう人たちは他の生きがいや、別の大切なものに目を向けにくいから、絵や文章、音楽を表現することを捨てることが死に繋がってしまうのだろうね」
「それが『絶望』なんじゃないの?」
「似ているけれど、少し違う。突発的に自死を選ぶ人は『絶望の、ほんの一歩手前』かな。一概には言えないけどね」
歴史上、自死しか道がなかった人たちもいる。
そのようなケースは、天界では自死として扱われない。
修行が課されることもなく、魂と心の療養のためのケアが行われる。
犯罪被害者が自死した場合も、同じくケアを受ける。
「突発的?」
「そう。自死をするにも、ある程度の力と、置かれた状況から逃げたいと強く願う心が必要だ。そして、思い切って行動してから後悔する。こっちに来てから『なぜ、あんなことを……』って言う人が多いだろう? 逃げる、避難することは決して悪いことじゃない。でも、心を守るために『逃げたい』というスイッチを押したときに、回路の不具合で冷却システムが作動しなかったり、思ったよりも早く爆発してしまったりね。それが誤作動」
遺書を書き、身の回りの物を整理してから死のうとすると、それだけで疲れてしまい、「また明日にしよう」と先に延ばす。
そのうちに根本的なことは解決していなくても、死への誘惑が薄れることもあるという。
もちろん、波があるため、またいずれ誘惑はやって来るだろう。
「時間をかけて絶望に飲み込まれた人は『廃人』と呼ばれるもの……いや、これは言葉が良くないね。『魂を抜かれたよう状態』かな。自死をするための気力や体力すらない状態。それでも、死にたいと願う気持ちは生まれる。そうなると、『セルフネグレクト』を始めてしまう」
「せるふねぐれくと?」
「冴木君は、おそらく知ってるよね?」
名前を呼ばれた冴木の指先が、ピクリと跳ねた。
「『緩やかな自殺』と呼ばれるものですよね?」
「そう。食事を摂らない、睡眠を取らない。適切な治療を受けない。そして、肉体の限界が来るまで、緩やかに死を待つ。そんな生活をしていれば、当然寿命は縮まる。何かの病を呼ぶことも多い。セルフネグレクトで亡くなった場合、保険会社には病死だと通すことができるだろう。しかし、天界は見逃すことはできない」
その言葉に、全員が息を飲んだ気がした。
「あと、一番危ないのは、魂の抜け殻から少し回復した時だ。動けるようになったことで、セルフネグレクト以外の方法を探してしまう。自傷行為、希死念慮、自殺企図がある場合は、この状態の時にできる限り、一人にしてはいけない」
「ずっと後悔しています……今でも。清一さんから、目を離したこと」
日頃、朗らかなカナからは想像できないような、低く重い声が響いた。
それを聞いた森田は、手のひらに爪がくい込みそうなほど拳を握りしめている。
グラスに付いた水滴をなぞるように、指先を動かししながら神様が続ける。
「複雑で暗い話をしてしまったね。愛着や執着が悪いっていうわけじゃないよ。それらは『生』に繋がることも多い。『これがあるから生きられる』っていうものを、だいたいの人は持っている。とても素晴らしいことだ。だから、持っていないと不安になるし、必死に探す人もいる」
指に付いた水滴に、神様がフッと息を吹きかける。
すると、水滴が弾けて蝶が飛び出した。
ヒラヒラと舞う蝶は、降り立つ場所を探すようにして、南天の枝にとまった。
「私は神だから、地上で暮らした記憶はない。だから、人として生きることの苦労を深くは実感できない。そのせいか時々、あちらの世界に憧れる」
「どうして? 天界みたいに綺麗で穏やかな世界のほうが良いでしょ?」
瑠璃が疑問でいっぱいの声を上げる。
「『苦労は買ってでもせよ』。そんな言葉が瑠璃たちの国にはあるだろう? 意味は分かるよね? 人として成長するために、苦い経験もしてみなさいってことだ。私も神として失敗することもあるが、やはり実感がない。失敗を悔いるには、私たちの持つ永遠の時間は長過ぎるんだ。長い目で見れば何でもないことも、短い人の一生からすれば、きっと大問題なんだろうけどね」
それが、心の回路の不具合を起こす原因の一つでもある、と神様が付け足した。
「そして、誤作動を起こしたまま天界へやってきた魂は、治療をしなくてはいけない。結い子の仕事に就くことも、実は治療の一環だ。完治もしくは寛解は、誤作動した部分を正常に戻し、転生すること」
さて、と神様が両手を膝の上に乗せて、前のめりの姿勢になった。
「瑠璃、森田君。そろそろ最終試験を受けてみるかい?」
神様の言葉に、瑠璃と森田、そしてカナも目を見開いた。
「え?」
「転生できるかどうかの試験だよ。瑠璃も森田君も受験資格はとっくに得ていたけど、転生を拒んでいたからね。拒んでいる段階では、どんなに頑張っても不合格になる。でも、最近の君たちには変化が見え始めた。答えは今すぐじゃなくても良い。考えておいて。冴木君は、まず結い子のステージまで頑張って上がっておいで」
にっこりと笑う神様に、各々が無言でうなずいた。
「さて、瑠璃。そろそろ圭祐君を地上に戻さないといけない。あちらはあちらで、ちょっと大変なことになっているようだし」
「え?」
圭佑が驚いた声を出した。
「帰ってみれば分かるよ」
「はい……」
「今はまだ、前世の記憶に心が混乱している状態だ。色々と大変だとは思うけれど、君の上司は話の分かる男だ。何でも相談してみると良い」
「何でも、ですか?」
「そう、何でも。さぁ、そろそろ帰りなさい。肉体に戻れなくなる。あぁ、でも良い機会だ。ちょうど帰り道だから、君の昔の……天界で暮らしていた家を見て行くと良いよ。瑠璃、案内できるね?」
「……はい」
そして瑠璃は、慶二郎の記憶を持つ圭祐と二人きりで部屋を出ていった。
お読みくださり、ありがとうございました。
神様が伝えたいことの言葉選び、順序などの修正に時間がかかりました……
約10年前の自分が書いた文章を整える作業は、それこそ、まるで前世の自分が書いた内容と、現在の自分が考えることを、心の中で混ぜているような気分でした。
この回は特に、それが強い。
投稿した今も、何だかフワフワしています。
上手く表現できていない部分など、話の続きには影響しない範囲で少しずつ加筆修正しています。
※2022年5月1日 14時
加筆修正後、おおよそ形が定まりました。
次回は、瑠璃と圭祐(慶二郎)にとって、重要なシーンとなります。
お付き合いいだだけましたら幸いです。