第二十七話 縁も、ゆかりも
まだ、手に汗をかいている。圭祐自身が研究結果を発表をしたわけでもないのに、興奮が収まらない。
みなみの動物病院の中でさえ未熟なのに、さらに広い世界を知ってしまった。
井の中でさえ、あっぷあっぷしている蛙が海に投げられたら、死んでしまうのではないかと思う。
しかし、その反面、どこまで泳げるのか試してみたくもなった。
「どう? 楽しかった?」
院長はこの学会の同行を提案した時と同じように、いたずらっぽい表情で圭祐を見下ろしてくる。
その姿は堂々としていて、ホール内にいたベテランの医師たちが醸し出す空気に違和感なく馴染んでいた。
院長は一八○センチ以上あり、一七五センチほどある圭祐でも、隣にいると上を向いて話さなくてはならない。
精神的なものからなのか、今はもっと高く感じる。
自分は今、獣医としてどのあたりにに立っているのだろうか――。
圭祐は自分に足りない知識と経験、そして今後の課題に思いを馳せた。
「さぁて。観光、観光!」
そんな圭祐の感傷を吹き飛ばすほど、嬉しそうに大きな声を出した院長は、今にも子どものように走り出しそうだ。
「え? 本当にするんですか? 観光……」
「当たり前だよ! 長崎に来たんだよ?」
(あぁ、やっぱり好きなんだ。龍馬……)
「先生、楽しそうですね」
「そりゃあ、もう。目当てのところは、だいたい巡れたからねー」
龍馬ゆかりの土地をまわり、自分用にと院長は土産を買いこんだ。
その様子は少年のように楽しそうで、観光客向けのガチャガチャまで回していた。
瞳やスタッフへの土産は眼鏡橋あたりと、空港で一通り揃えるつもりらしい。
「やっぱり長崎は良いねぇ。空気がゆっくり動いている気がするよ。昔は、とても発展的な都市だったのにね」
「開国のことですか?」
「それもあるけど、技術が素晴らしいんだよ。この眼鏡橋は、日本で最初に建てられた石造りアーチ橋だ」
「詳しいんですね」
「十代の頃は建築家になりたかったんだよ。でも、親が開業した獣医だったから、他の道は選べなかった」
「そう、だったんですか……」
晴天であれば橋のアーチ部分が川面に映り、丸く眼鏡のように見えるため『眼鏡橋』と呼ばれるこの橋。
しかし、あいにく今日はどんよりとした空模様で、風も強くなってきた。橋の半円は、とても映りそうにない。
(嫌な天気だ。ちゃんと飛行機、飛ぶかな)
不安げに空を見上げていた圭祐とは裏腹に、院長は穏やかな声で昔話を続ける。
「でも、大学時代に動物の看護師を目指していた瞳と出会って、獣医も悪くないと思ったんだ。現金だろ?」
「あぁ。だから先生のご両親も、瞳さんのことをすごく大事にしてるんですね」
時々、院長の両親が診療所に訪れる。そして必ず、瞳を猫可愛がりしていく。
その様子を見ている人たちが、どちらの親か分からないと思うほどに。
「あぁ、特に親父がね。孫も可愛い、嫁も可愛いで、息子の立場はないよ。特に瞳は、私が病院を継ぐきっかけを作った恩人だし、両親ともに頭が上がらない感じだなぁ」
南野家の明るい家庭事情を知り、みなみの動物病院がアットホームな理由が少し分かった気がする。
「瞳さん、最強ですね」
「おぅ」
少し歩こうか、と眼鏡橋を離れ、川沿いを進んだ。
テレビの旅番組などでは、『眼鏡橋』ばかりがピックアップされるが、こうして歩いてみると同じような石造の橋が点々とある。
「この中島川の石橋群もさ。長崎市の有形文化財に指定されたんだけど、昭和の大水害に遭ったりして、『桃渓橋』『阿弥陀橋』『高麗橋』『袋橋』しか残らなかった。そのあと、『昭和の石橋』とよばれる橋や鉄筋コンクリート橋に造り替えられてる。高麗橋は移築復元されたりね」
(建築っていうか、橋マニア?)
圭祐は院長の語るうんちくを、話半分に聞いていた。
「なんていうかさ、人の人生もよく似てると思わない? 紆余曲折。姿や生き方が変わろうとも、すべて自分を作る成分だ。あぁ、変わるといえば、『中島川』は名前も変わったなぁ。かつては『大川』って呼ばれてた。開国の時、物資の運搬のために人の手によって曲げられた川でね、何度も洪水被害に遭ってるんだよ。有名なのは昭和五十七年の『長崎大水害』だけど、きっと史実に残っていない明治や大正の水害も、たくさんあったんだろうね……」
ドクンッと圭祐の心臓が大きく跳ねた。これ以上、この話を聞いてはいけない気がする。
いや、これ以上、先に進んではいけない。
進んでしまったら、きっと……。
「あ、ほら、見えてきたよ。『眼鏡橋』から『袋橋』『常盤橋』『賑橋』『万橋』と越えてきたでしょ? そこから少し歩いたら、日本最初の鉄橋『銕橋』だ。ただ残念ながら、その橋は三代目。初代の石柱が残ってる。あのあたりは、西浜町。浜市アーケードや観光通りがあるよ。そのもう少し先は中華街だね。しかも、ここには『土佐商会跡』もあるんだよ!」
段々と早口になる院長の言葉を聞きながら、圭祐は耳鳴りを抑え込もうと必死だった。
「へ、へぇ。院長の好きそうなものばかりですね」
「そうなんだ!」
足取りが重くなる圭祐を置いて、院長は四、五歩先を歩いていく。
震える手足をどうにか動かして、圭祐は院長の背を追った。
冷汗が止まらず、ひどい動悸がする。早まっていく脈が、まるで警告音のように頭の中で響く。
「着いたよ。ここで、海援隊が結成されたんだよねぇ」
橋のたもとにある碑を、院長が嬉しそうに覗き込んでいる。
手足だけではなく、全身が震え始めていることを院長に悟られないように、圭祐は必死に堪えた。
(……なんで、この場所の匂いだけ知ってるんだ)
先ほどから、川はずっと続いている。橋も短い間隔で架けられていて、おそらく、水質に違いはないだろう。
川の匂いが、これほど急に変わるはずがない。
だけど――。
(ここは嫌だ。ここに、居たくない……)
頭の中に、灰白いモヤがかかり出した。相変わらず、耳鳴りもひどい。
まるで圭佑だけが、行き交う人の波から切り離されたような感覚がする。
灰色の雲の中で稲妻が光り、ゴロゴロと地響きのような音が鳴り響いた。
ポツン、ポツンと橋の欄干が濡れる。
「あぁ、降ってきちゃったね。ゆっくり観光するために、最終の飛行機にしたのになぁ」
院長が何かを言っているような気がするが、川面に広がる波紋から、圭祐は目が離せなくなっていた。
「雨が」
「そうだね。どこかで雨宿りしようか?」
「水が」
「佐藤君?」
「助けに、行かないと──」
水の底に落ちるように、圭祐の意識は沈んでいった。
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