第二十六話 交わり始めた、あの世とこの世 4
手術中に輸血が必要になった時のために、院内では献血犬が飼育されている。
大きなゴールデンレトリバーが三匹。みんな、つやつやした毛並みと、黒々とした愛嬌のある目をしている。
元気が有り余っているらしく、散歩に連れて行くと大はしゃぎだ。
退院間近の犬たちもリハビリを兼ねて散歩に連れて行くのだが、レトリバーと一緒のペースではとても歩けない。
そのため、スタッフたちが交代で、空き時間に三匹を散歩に連れて行く。
今日は患者の数が少なく、長めの散歩時間が取れた。
圭祐は水やビニール袋だけではなく、ボールや犬用のおもちゃを用意した。
散歩コースには、大きな噴水がシンボルの公園がある。
きちんと清掃されており、動物がゴミを踏んで怪我をしたり、拾い食いをする危険が少ない場所だ。
そして緑も多く、人間もリラックスすることができる。
圭祐は無事に退院し、職場に復帰する許可が出たとはいえ、まだ本調子ではない。
レトリバーたちと遊びながら、少しずつ体力を回復させようと思った。
動物と遊ぶと、小難しいことを考えなくて済むため、気分転換にもなる。
「よし、行こうか!」
スニーカーに履き替えた圭祐は、待ちきれない様子の三匹にリードを付けて病院の裏口のドアを開けた。
「ちょっと待って! 私も一緒に行く!」
ドアを閉める寸前で、圭祐は手を止めた。
「菜摘、時間は良いのか?」
「私も休憩に入ったの。たまには外でランチも良いかなって。公園に行くんでしょ?」
菜摘は近所で美味しいと有名なベーカリーの袋を振って見せた。
「良いけど、食われないようにしろよ」
人間の食べ物に興味津々な三匹から奪われないようにしていると、あまりゆっくりと食事はできない。
「大丈夫よ。お利口さんだもんねぇ」
そう言った菜摘に撫でられると、一番大きなレトリバーが目を細めて甘えた声を出した。
「俺には、こんな声出さないのになぁ」
圭祐がうなだれて見せると、菜摘がクスクスと笑う。
「圭祐、ちょっとなめられてるもんね。なんていうか、友達扱い?」
「そんな気がする」
「ふふ。早く行こう? 休憩終わっちゃう」
菜摘に促されて、公園へと続く道を二人で歩き出した。
菜摘は女性にしては歩くのが速く、軽快なテンポで進む。
そして、予定よりも公園に早く着いたため、圭祐は芝生の上で三匹と息が上がるほど遊んだ。
三匹が満足したところで、噴水広場に移動してベンチに荷物を下ろすと、ペット用の器に水をなみなみと注ぐ。
ピチャピチャと音を立てて、勢いよく飲む姿を見ながら、圭祐もベンチに腰掛けた。
病院からの軽い散歩と、ボールやフリスビーなどを使った遊びで、圭祐もレトリバーたちも、ずいぶんと喉が乾いていた。
菜摘のほうを振り返ると、すでにもぐもぐとパンを頬張っていた。病院に勤める人は早食いが多い。
いつ、何が起こるか分からないからだ。
手術が予定よりも長引き、十分な食事を取れない場合もある。
しかし、それでは体力も集中力も切れてしまう。
いつでもベストな状態で患者に向き合えるような身体をつくる。
それが一人前の医師になるための第一歩なのだと、今回のことで院長から教わった。
『食べられる時に食べる』
それが病院内の暗黙のルールになるほどだ。
もちろん看護師である菜摘も、同じように過酷な状況をいくつも乗り越えている。
むしろ、圭祐よりも勤務経験の長い菜摘のほうが、トラブルの対処が上手い。
最近、そんな菜摘を尊敬する一方で、どこか遠い存在のように感じることもあった。
「なぁに? さっきから、じろじろ見て」
いつの間にか食べ終わり、ゴミを片付け始めていた菜摘が不思議そうに尋ねてきた。
「いや、美味そうに食うなと思って。パン三つ、一瞬で完食だったな」
「もう!」
太ももに拳が降ってくる。これが見た目に反して、わりと効く。
「イテッ、悪かったって。お詫びに飲み物をごちそうしましょう」
「やった!」
とたんに機嫌の良くなった菜摘を見て吹き出しながら、圭祐は自動販売機へと向かった。
「はい」
ジュースのペットボトルを目の前に差し出すと、菜摘がきょとんとした表情になった。
「……え? 何これ?」
「ミルクセーキ。好きだったろ?」
「こんな甘そうなの、飲んだことないよ」
「そうだっけ?」
「うん。誰かと勘違いしてるんじゃない?」
「そう、かな……。ごめん、ちょっと待ってて」
短い会話のあと、圭祐は再び自動販売機まで走った。
小銭を入れるとボタンが点灯する。
ミネラルウォーター、紅茶、スポーツドリンクにお茶、コーヒーに果物系……。
とりあえず、誰が買いに来ても、どれか一つくらいは目当ての物がありそうなラインナップだ。
商品を一通り見てから、無意識に冷たいストレートティーのボタンを押した。
茶葉にこだわっている、と書かれた小さめのペットボトルが転がり落ちてくる。
それを取り出しながら、圭祐は疑問に思った。
(そうだ。菜摘は甘い物が苦手で、いつも無糖のものを選ぶ。コーヒーなら、だいたいブラック。ミルクセーキなんて甘さの塊のようなもの、飲むわけないよな……)
しかし、ミルクセーキが好物だという印象が、圭祐の頭には強く残っている。
やはり、人違いなのだろうか――。
(誰が好きだったんだ? ミルクセーキ……。しかも、ミルクセーキって珍しいよな。よく自動販売機にあったな)
小走りで戻った圭祐を、心配そうに菜摘が見つめる。
「大丈夫?」
「え?」
「なんか、顔色悪いよ」
「大丈夫だよ。はい、これ。ストレートティー。甘くないやつね」
「ありがとう、喉渇いてたから嬉しい。何度も、ごめんね。これが飲めたら良かったんだけど」
菜摘が右手で紅茶を受け取りながら、左手でミルクセーキのペットボトルを軽く揺らす。
「いや、悪い。やっぱり勘違いしてたみたいでさ。菜摘は無糖派だもんな」
「そうね。誰なのかなー? ミルクセーキが好きな人って。可愛い女の子だったりして」
「まさか!」
そんなわけない、と圭祐はミルクセーキを菜摘の手からひったくると、菜摘から見えない位置に置いた。
「冗談よ。そろそろ帰ろっか? みんなも満足したみたいだし」
きちんとお座りをして待つ三匹が、「早く帰ろう」とでも言うように、ワッッと鳴いた。
帰り道は何を話したのか、まったく覚えていない。
変な汗と軽いめまいの症状が出ては消える。
(やばい、まだ回復してないのか……?)
やっとの思いで病院に戻ると、なんだか院内が騒がしかった。
診療時間ではないため、通常の受付はまだ始まっていない。
「何だ?」
圭祐は菜摘と顔を見合わせて、スタッフルームへと入っていった、
「何かありましたか?」
圭祐が声をかけると、院長夫人の瞳が振り向いた。
「あ、佐藤先生。菜摘さんも、おかえりなさい。もー、聞いてよ! この人ったら、また学会があること忘れてたのよ」
瞳が指をさす先を見ると、院長が面目なさそうに笑いながら、学会の資料らしき書類を読んでいた。
「まぁ、今回は私が発表するわけじゃないからさ。珍しい症例や、他の先生方の研究発表を聴きに行くだけだから。特に準備は必要ないから大丈夫だよ」
院長は、まるで自分に言い訳をするように一息にそう言うと、コーヒーをすすった。
「もう。いつもいつも、そうやって……」
瞳のお小言は、まだ続きそうだ。
南野院長は名医だが、こういったところはよく抜けている人だ。
何から何まで完璧というわけではなく、院長の人間らしい部分に圭祐は少し安心する。
そして、そんな院長の隣に、しっかりした気質の瞳が立つ姿はしっくりくる。
圭祐は、ふと思った。
(俺と菜摘は、人からどう見えてるんだろう?)
圭祐の心の中で、妙にざわつく感情が芽生えた時、院長が楽しげに提案した。
「で、せっかくだから、学会の日は休診にしようと思う。入院してる子たちがいるから、全員がお休みとはいかないけど……。この機会に交代しながら、少しずつでも身体を休めてほしい。瞳、受付に張り紙とホームページでお知らせしておいてね。それと佐藤君、調子はどう?」
「へ? あ、はい。おかげ様で、もうだいぶ良いです」
このタイミングで、話を振られるとは思わなかった。
そんな圭祐の様子を見て、院長がニヤリと笑う。
「そう、それは良かった。病み上がりだし、無理かなぁと思ってたんだけど、良い機会だからステップアップしてみない?」
「え?」
「学会に出席してみる気、ある?」
「行ってみたいですけど……。良いんですか? 俺みたいな、ぺーぺーが出席して」
「良いよー。皆、いつかは通る道だし。ねぇ?」
そう言った院長は、三十代の獣医たちに同意を求めた。
「はい。私たちも以前、同行させていただきました」
女性獣医の細井が、午後の診察のためのファイルを広げながら微笑む。
そして、その言葉に付け足すように、背後から眠そうな男性の声がした。
「ぜひ、行ってきたほうが良い。世界が変わるよ」
振り返ると、パイプ椅子に座り、軸足にもう片方の足首を乗せて休息している男性獣医と目が合った――ような気がした。
休憩中、彼はいつもアイマスクをして腕を組み、足でバランスを取りながら器用に眠っている。
そして、アラームもかけずに、休憩時間が終わる十分前前には目を覚ます。
しかし今日は、圭祐に助言をすると、アイマスクを親指でゆっくりと持ち上げた。
みなみの動物病院では、休憩中は何をしても良いというルールがある。
急患でも来ない限りは、院長や先輩が目の前にいようとも、寝るも食べるも自由だ。
それが、スタッフの良好な関係や連携に繋がっているのだろう。
休憩中に、先輩獣医である西島の目が開いていることや、声を聞くことが初めてだったため、圭祐は少し驚いた。
「あら、西島先生も佐藤先生に期待してるのね」
良かったねぇ、と、瞳が姉のように母のように喜んでいる。
「ありがとうございます」
圭祐が、瞳と西島に礼を述べた。しかし、西島はすでにアイマスクをして、いつもの休憩スタイルに戻っていた。
そして、「礼を言われるほどのことじゃない」とでも言うように、片手をひらつかせた。
「じゃあ、決まり! 日程は来週の日、月、火。二泊三日ね。会場は長崎! 前乗りして、最終日は皆にお土産を買おう!」
そう言った院長が手をパンッと叩いて、勢いよく椅子から立ち上がった。
学会を忘れていたというわりには、何だかとても楽しそうだ。
「もう、観光重視にならないでよ!」
坂本龍馬のファンだという院長に、瞳が釘を刺した。
スタッフから、はクスクスという笑いが漏れている。
(坂本龍馬……。どうりで、はしゃぐわけだ。長崎か。そういえば、俺は初めてだな――)
そして、緊張しているのか、妙な胸騒ぎを感じながら圭祐は長崎へと向かった。
お読みくださり、ありがとうございました。
百円均一で、名の通ったメーカーの「ミルクセーキ」が販売されていたので、思わず購入してしまいました。