第二十三話 交わり始めた、あの世とこの世
携帯電話のアラームが、けたたましく寝室で鳴り響く。
ぼやけた目で時刻を確認した圭祐は、ベッドから転がり落ちるように飛び起きた。
「やばい! 遅刻だ」
コップ一杯の牛乳を数秒で飲み干し、身だしなみの確認もそこそこに玄関から飛び出した。
そして、マンションの五階から階段を駆け下りる。足の速さには、それなりに自信がある。
南野動物病院までは、自転車で十五分。
電車やバスで通勤しなくても良いという安心感が仇となり、つい気が抜けてしまうようになっていた。
「すみません! 遅くなりました」
院内に駆け込むと、他のスタッフは皆、朝のカンファレンスの準備に入っていた。
「遅い」
怒鳴ることもなく、院長の抑揚のない声に背筋が凍る。
一礼してからロッカールームへと走り、一分もかけず白衣に着替え、指定の席に着く。
そして、圭祐が着席するとすぐにカンファレンスが開始された。
やっとのことで昼休憩を迎えると、ドッと汗が出た。
朝の精神状態を引きずったまま、どうにか大きなミスをせずに午前の診察を終えることができた。
それでも、普段はしないような小さなミスを重ねてしまい、その度に院長の眉間のしわが増えていった。
「どうしたの? 寝坊? 昨日も泊まって起こせば良かったね」
心配そうな菜摘に、圭祐は否定の意味を込めて手を振った。
「いや、今夜から、もう少し早く寝るよ」
昨夜は遅くまで医療関係の書籍を読み、そろそろ寝ようかと思った時にテレビを点けたことが失敗だった。
ちょうど、サッカーの試合の生放送中だった。スコアは一対一。とても緊迫したシーンだ。
そして結局、試合終了のホイッスルが鳴るまで、テレビ画面にかじりついてしまったのだ。
ベッドに入ったのは、いつもの就寝時間よりも二時間半は遅い時間だった。
ことの次第を菜摘に説明すると、呆れた顔を向けられる。
「何それ。社会人失格よ」
「すみません」
命を預かる身で、とんでもないことだと自分でも思うため、さらに圭祐は情けなくなった。
「まぁ、一度経験しておけば次からは気を付けるでしょ。良かったじゃない。大きなミスもなかったし。私だって、危ないときもあるよ。 遅刻だ! って思ったら休日だったりねぇ。人間だから、気を張りっぱなしもできないし。リズムを覚えれば大丈夫よ。ね?」
菜摘の笑顔を見ると、本当に大丈夫なような気がしてくる。
「でも、生活習慣は見直すよ」
「それが良いわね」
うんうんと頷きながら、菜摘が麦茶を注いでくれる。
ドの付く新人の時は気を付けていられたことが、最近抜け落ちることがある。
慣れだした今だからこそ、初心に戻らなければ、と圭祐は強く決意した。
「疲れとかもあるんじゃない?」
「え?」
突然の問いかけに、間の抜けた声を出してしまった。
「ほら、夢見がどうとか言ってたでしょ? オペがあると気が昂ぶるし。疲れが抜けないなら、一度、病院で検査してもらったら? 睡眠障害とかも心配だし。もちろん人間の病院でね。獣医にも、医者の不養生ってあるからね」
「そうだな。この前にも菜摘に言われたもんな。『ちゃんと眠らないと働き続けてるの同じだから』って」
「私、そんなこと言った覚えないけど……」
「え、言ったよ」
「言ってないわよ。でも、その言葉の通りだし、ちゃんと病院には行ってよね」
そう言い残し、菜摘は先にスタッフルームから出ていった。
(おかしいな。菜摘以外に、そんなことを話す相手いないんだけど……。そういえば、菜摘の声と少し違ったような気も――)
「まぁ、いいか。仕事に集中、集中!」
考え事をしていると、またミスをしてしまいそうだ。圭祐は小さな疑問を頭の片隅へと追いやった。
そして、圭祐も昼休憩を終えて診察室に戻ると、すぐに院長に声をかけられた。
「佐藤先生。生後六ヶ月の猫のオペなんだけど、任せても大丈夫?」
「どういう状態なんですか?」
「異物を飲み込んじゃったんだよね。人間の子どものおもちゃなんだけど。レントゲンで確認済みだから」
はい、と大きなレントゲン写真を渡された。光に透かしてみると、異物がはっきりと写っていた。おそらく、ブロックだろう。
「わりと大きな物ですね」
「うん。こんな大きな物、よく飲み込めたよねー。でも、大きな物だから探しやすいはず。開腹手術になるけど、頼める?」
「はい、頑張ります」
「よし、ちゃんとした顔になったね。これなら安心して任せられそうだ。私はサポートとして隣にいるから、気負い過ぎないようにね」
「はい。気負わず、集中して取り組みます」
その言葉に対して、院長は圭祐の背中を軽く叩いて、事務室へと歩いて行った。
飼い主に麻酔のリスクや手術内容などを説明し、あっという間にオペの時間となった。
圭祐は手術着に着替えて、何度も深呼吸を繰り返している。
同じく着替え終わった菜摘に「大丈夫だから」と、声をかけられた。
手術室の上部にある大きなライトの下で、圭祐による手術開始の声がかかると、スタッフの手元は忙しなくなる。
猫の腹にメスを当て、マジックで印を付けた部分にメスを進める。
切り口から血が溢れると、手元が見えづらくなる。
急に、ふわっと頭の中が一回転したような気がした。めまいの症状だ。
(なんで……。血なんて見慣れてるのに)
手にも足にも力が入らなくなり、まるで全身の骨が無くなったようだ。
手からメスが滑り落ち、高い金属音を立てる。
その数秒後、患者の心拍や血圧の以上を知らせる警告音が鳴り響いたのと同時に、圭祐も意識を手放した。
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