第二話 再会に、さよならを。
仕事場に着いてから、数時間は何事も起こらなかった。
そして、また一時間、二時間と時間は流れていく。
今日は特に何もないか、と改めて作業に集中し始めた頃に控えめなノック音が響いた。
顔を見なくても誰が訪ねてきたのか、分かってしまった。
瑠璃がドアに視線を向けずに「どうぞ」と入室を勧めると、ゆったりとした足音が近づいてくる。
「いらっしゃい。今日はどうしたの?」
作業机に向かったまま、瑠璃は背後にいる母に声をかけた。
すると、母が一瞬、息を飲んだ気配がした。
生前から、母はおっとりした人だった。その母が少し硬い声で話しだす。
「瑠璃、あのね」
瑠璃は胸騒ぎを抑えるように、作業中の手元を見つめ続けた。
「お母さん、そろそろ地上に降りることにしたの」
(あぁ、やっぱり。今朝の夢は、このためだったの――)
母に気づかれないように、小さく息を吐く。
そして、できる限りの笑顔をつくり、勢いよく振り向いた。
「そう。もう行くのね」
瑠璃は一瞬、振り向いたことを後悔した。
母の顔を見れば、引き留める言葉が溢れそうになる。
(私には、お母様を引き留める権利なんてないわ。それに、これは報告。相談ではないの。もう、決まったことなのよ――)
瑠璃は唇が震えてしまわないように、奥歯に力を入れてから言葉を発した。
「いいえ。『もう』じゃないわね。私のせいで、ずいぶんと長くお母様をこちらに留めてしまったから……。遅いくらいよね。――神様には?」
瑠璃が穏やかな声で尋ねると、母に少し安堵の表情が浮かぶ。
「さっき、ご挨拶してきたところなの。ほら、転生許可証も」
そう言って母は小さなプレートと書類を一枚、瑠璃に見せた。
瑠璃はそれを受け取り、さっと目を通す。転生を許可する旨が簡素に記載された書類。
これは今の仕事に就いてから、何度も目にしてきた。
そして、同じく見慣れたプレートには『結い子 指名 瑠璃』と記されていた。
瑠璃はパッと顔を上げて、母を見つめた。今の瑠璃は、さぞ驚いた顔をしていることだろう。
『転生許可』とは、亡くなった人が新しい肉体を得て、次の人生を歩むことを許可することである。
ひらたく言えば、生まれ変わりだ。
前世に後悔や未練のある人にとっては、やり直す機会でもある。
そのため、次にどんな人生を歩むのかは、とても重要になる。
しかし、ほとんどの人が、前世や天界での生活や出来事は忘れてしまう。
それでも、前の生というものは、多少なりとも次の生に影響するのだ。
そして、そのように生まれ変わる魂と瑠璃たちは、『一生を結う』という行為を通して、大きな関わりがある。
人の来世の大まかな道筋を決める『結い子』と呼ばれる職が、瑠璃の現在の勤めである。
また同時に、この勤めは瑠璃たちのような魂にとって枷であり、越えるべき課題でもある。
この職に就いていると、さまざまな人の生き様に触れる。そのため、否応なしに命について考えさせられるのだ。
大きく書かれた『転生許可』の文字を見て、本当に母が離れていくのだと瑠璃は実感した。
何かの節目にあの夢を見る。
大切なものが手の中から溢れ落ち、流されていくような、あの夢を。
(自分の死に際を何度も見るなんて、本当に罰みたい。結い子の全員が、体験するわけじゃないみたいだけど。そういえば、あの時が一番ひどい夢見だったな――)
重く息苦しい回想は、母の明るい声によって断ち切られた。
「ねぇ、瑠璃。私が生まれ変わる時の一生、結ってくれるでしょう?」
「……良いの? 私で」
天界に長く留まると感覚がやや鈍るが、地上で何十年、もしかしたら百年以上を生きるための土台をつくるのだ。
たとえ、いつものように神様が最終のチェックをし、『この一生で大丈夫。良い仕上がりだね』と許可が下りたとしても――
生前に母を苦しめた瑠璃には、責任が重過ぎる。
(他の人の一生だって、生半可な気持ちで結ってるわけじゃないけど。でも――)
俯いて考え込む瑠璃に、母は迷いのない声で答えた。
「瑠璃に結ってもらいたいのよ。他の誰でもない、あなたにお願いしたいわ」
改めて母の目をまっすぐに見て、瑠璃は大きく深呼吸をした。
「お母様。いろいろと苦労をかけて、辛い思いをさせてごめんなさい。腕によりをかけて結いますから、どうかどうか、次は幸せな人生を送ってください」
そして、深く頭を下げた。
母には幸せになってもらいたい。自分の分まで。
どこかそんなふうに、瑠璃はいつも考えていた。
「ありがとう。贔屓は、なしにしてね。瑠璃がこれだと思うものにしてくれたら嬉しいわ」
生前と変わらぬ母の穏やかな笑顔を見て、ほっとしたような、泣き出したいような気分になった。
そんな瑠璃の気持ちを知ってか知らずか、母も瑠璃を見ながら、口を開いては何かを言いかけ、また言葉を飲み込むように俯いた。
沈黙を切ろうと瑠璃が言葉を探していると、ふと、母の視線が瑠璃の後ろに動いた。
「それは、誰かの一生を結っているところ?」
思いがけない母の問いかけに、瑠璃は少し散らかった机の上を見やった。
「え、えぇ。事故で亡くなった小さな女の子のものよ。さっきまで、その子の希望を聞いていたの。あとは、結い子である私の感性で結っていくの。それから、それが本当にふさわしいかどうかを、神様に判断していただくの。他の結い子も、だいたい同じような手順で新しい命と向き合っているわ」
瑠璃は室内にある、いくつかの机に視線を向けた。
他の結い子は席を外しているが、それぞれの机に色とりどりの糸巻が並んでいる。
「とても難しくて責任が重いけれど、それに負けないくらい、やりがいもたくさんあるの。お話を聞いているうちに、次はこんなふうに生きてほしいって願いも湧いてくるしね」
つい意気込んで語っていると、母が優しく微笑んでいた。
「そう。今の瑠璃は、とても活き|いきしてるわ。あの頃に、そんな顔をさせてあげられたら良かったのだけど――」
「ごめんなさい……」
瑠璃は両手を固く握りしめて、そう言うのがやっとだった。
「あら、違うのよ。責めてるんじゃないの。母親として娘の幸せを願っていたつもりだったけど、ちょっと方向が違ったのよね。反省してるわ。でも、反省だけじゃ駄目よね。だから、もう一回挑戦してみようと思ったの。また、誰かの『お母さん』になりたいから、次に生まれ変わっても女性が良いわ」
そう言って、母は瑠璃の涙を拭う。
目元にそっと触れたハンカチからは、母の匂い袋の香りがした。
(――あの頃と同じ匂いがする)
女性にしては少し背の高い母が、膝を折って瑠璃の目線に合わせた。
瑠璃はあの頃のまま成長していない。
生前もすでに成長期とは言いがたい年齢だったが、あのまま過ごしていれば母や姉のような体格になっていたのだろうか、と今でも少し思う。
姉は長い黒髪が印象的で、母とは少し違ったタイプの美人だった。
そして、母に似たのか、やはり当時にしては長身の女性だった。
しかし、それを隠すように、背を丸めて歩いたりするような性格でもない。
凛とした姿に誰もが振り返る。
そんな姉を、瑠璃はいつも少し後ろから眺めていた。
思い出に浸ると何もかもがあの頃のままで、時が止まったように感じてしまう。
それでも、時は進んでいく。
人も世も、確実に変わっていく。
(私は……、まだ変われないまま)
机にゆっくりと近づいた母は糸を丁寧に撫で、とてもきれいに笑ってこう言った。
「人生って捨てたものじゃないわよね。こんなにキラキラしてるんですもの」
鼻をすすりながら、瑠璃も頷いた。
「お母さん、先に行って頑張ってくるから。あなたも頑張りなさい」
腰のあたりをポンッと叩かれて、思わず涙が止まった。
「結い子は亡くなり方が、その……、寿命まで生きられなかった人たちだけが就く仕事でしょう?」
「うん」
瑠璃を傷付けないように、母が言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
「こちらでの、あなたの状況を知ってから、ずいぶん心配したのよ。辛いことのほうが多いんじゃないか……って。母親として、もっとたくさん話を聞いてあげなきゃいけなかったし、もっと瑠璃の顔が見たかった。毎日でも会いたかった」
そう言った母は、悲しげに笑う。
「でも、『もう、会いたくない』って、いつか言われてしまうかもと怖気づいて、あまり会いに来ることができなかった。こんなにも長い時間があったのに……。ごめんね、情けない母親で」
瑠璃は黙ったまま、大きく首を振った。
すると、母が瑠璃の両手を強めに握った。
「でも、もう大丈夫ね。この手から生み出される『一生』に感謝してる人も、きっとたくさんいるはず。神様が言ってくださったの。『瑠璃は優秀ですよ』って。とても嬉しかったわ。瑠璃はもう立派に新しい道を歩んでいるのよね」
少し体温の低い母の手。
あの頃と変わらないはずなのに、とても小さく感じられた。
「私はあなたのことを誇りに思っています。今も、昔も、これからも。そのことは忘れないでね」
(――あんな最期を選んだ私を、誇りに思う?)
瑠璃が驚いて目を見開いているうちに、ゆっくりと手を放される。
その瞬間、束ねていた瑠璃の長い髪の一房が、涙で濡れた頬を隠すようにパサリと落ちた。
くすりと笑う声が聞こえる。
「相変わらず、結ぶのが下手ねぇ。糸を結うのは上手なんだから、こっちも練習しなさい?」
母は瑠璃の髪を手早くまとめた。
キュッとリボンを引っ張る音が後ろで響く。
そして最後に瑠璃の前髪をふわりと撫でてから、その手は離れた。
「じゃあ、どんな一生を結ってくれるのか楽しみにしてるわね」
そう言った母は、ひらひらと小さく手を振って部屋を出て行ってしまった。
こんなふうに母と会えるのも、あと数回。
そして、いずれは瑠璃が知らない誰かの母親になる。
「相変わらず、きれいな結び方」
瑠璃は、母が結んだリボンにそっと触れてつぶやいた。
お読みくださり、ありがとうございました。