第十七話 恋よりも愛よりも深いもの 2
凄まじい音を立てて、ドアが開いた。
肩を跳ねさせて驚いた瑠璃が作業の手を止めて振り向くと、どこから走ってきたのか、膝に手をついて息を切らす森田がいた。
「博士? どうしたの?」
普段の飄々とした態度とは別人の森田に、何事かと瑠璃は駆け寄った。
「カナが、帰ってくる」
そう短く告げる森田の顔は息を切らして赤くなっているのに、どこか青白く見えた。
「どう……いうこと?」
「カナが事故に遭って、死んだ。さっき」
瑠璃は息が一瞬止まり、何も言葉が出てこなかった。
カナの一生を結ってほしいと、森田に頼まれた時の会話が頭の中で流れる。
カナの品のある優しい笑顔も声も、今でもはっきり覚えている。
(そういえば、最後に会った時、カナさんに抱きしめてもらったっけ――)
沈黙を先に破ったのは森田だった。
「幸せな結婚、出産、子育てができるようにって、あの時、頼んだよな」
「うん」
「そういう糸を選んでくれたよな?」
瑠璃は静かに頷いた。
「長生きできる糸は?」
「入れたよ。神様の審査も、あれで通ったでしょ?」
「あぁ、通った。いつも通り『まぁ、これはこれで良いんじゃない?』って言ってたな」
「じゃあ、なんで……」
「俺が聞きたいよ」
森田は床に座り込んで頭を抱えた。
緑、赤、黄、白、青、珊瑚色、黒、紫……。
作業場の棚には、色とりどりの糸が並べられている。
一口に紫と言っても、藤色やラベンダー色、青に近かったり、赤に近かったり。鮮やかなもの、淡いもの、灰みがかっていたりと実に様々な糸がある。
目もくらむような色の山の中から、その人に合った糸を見つけるのが、結い子の役目だ。
カナの時も瑠璃は懸命に糸を選び、一生を結い上げたつもりだ。
幸せになってもらえるように、と。
二十八年前、カナと話し合って、どんな糸を選んだのか記憶を辿る。
カナに似合う、穏やかで愛情深い恋ができるようにと桜色を。
いつまでも澄んだ心を忘れないようにと、湖の水面のような水色を。
たくさん笑って暮らしてほしいから鮮やかなレモン色を。
神仏の助けが得られるようにと、深い紫色も入れた。
(それから……。たしか、まだあったはず)
とりあえず、座り込んだままの森田に椅子をすすめて、糸の山を凝視しながら、記憶のすみずみまで探る。
そして、一つの可能性に辿り着いた瑠璃は「あ……」と呟く。
「なに?」
「えっと、あのね。あの時、もう仕上げに入る段階でカナさんが訪ねてきたの」
瑠璃がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それで?」
先を急かす森田の視線が瑠璃に刺さる。
「その時に頼まれごとをされて、私も了承したの」
「だから何を」
森田の苛ついた語気に、瑠璃の体が少し震えた。
瑠璃は、ふっと息を吐いて態勢を立て直し、ゆっくりと森田を見つめた。
「生まれ変わっても、博士の姿は見えるように。それから、博士との思い出は二人の関係を忘れないようにできる糸を入れたの」
みるみると表情が険しくなる森田の視線から目を離さないように、瑠璃は懸命に堪えた。
「なんで、そんなことした」
「カナさんの希望だったから」
「だからって、従うことないだろ? 『億万長者になる糸を入れろ』って言われたら、はいはいって入れるのか?!」
「博士の死後、追いかけずに寿命を迎えるまで耐えたカナさんには、二人の関係を覚えている権利がある。私はそう思ったから、了承したの。『清一との思い出を忘れたくない』。それが、何よりもカナさんの望みだったから」
真顔になった森田は言葉を発さず、俯いた。
怒っているのか、悲しんでいるのか。
森田が今、何を考えているのか瑠璃には分からなかった。
長い沈黙が続くなか、小さなノック音が響く。
返事をすると、『失礼いたします』と真っ白な装束をまとった女性に戸口から声をかけられた。
神聖さを表す白の衣に、洗練された所作、口元はベールで隠され、天界でもひときわ神秘的な存在のように映る。
目元しか見えないが、この女性たちは、かなりの美人なんだろうと瑠璃はいつも思う。
無駄なことは話さず、要件だけを手短に確実に伝えていく天界の秘書のような存在だ。
そんな女性が、話しにくそうに口を開いた。
「望月カナ様が……、お見えです」
作業場内がざわついた。
瑠璃と森田の様子にハラハラしながらも、踏み込んでこなかった他の結い子たちも、さすがに動揺を隠せなかったようだ。
森田も椅子を倒す勢いで立ち上がり、呆然としている。
要件は済んだとばかりに白装束の女性は長い黒髪を揺らしながら、しずしずと立ち去っていった。
そして、交代するように、空色のワンピースを着た女性が現れた。
「来ちゃった」
カナがさっぱりとした笑顔で軽く手を挙げた。
それはまるで、遠距離恋愛中の恋人宅へ突然訪問するかのような雰囲気だった。
「故人はお墓や仏壇にいないって、本当なのよねー。生きてる間は、そんな感覚を忘れちゃう人がほとんどだけど」
カナが懐かしむように、作業場を見渡した。
「何してるんだ! 四十九日どころか、通夜も済んでないだろう!」
凍り付いたような表情をしていた森田が怒鳴った。
「だって、あっちに居ても、つまらないもの」
「婚約者はどうした」
「泣いてるわよ。病院から自宅に戻った私の遺体の前で。次の彼女候補に寄り添われながらね」
何でもないことのように、淡々と話すカナの言葉に一同が絶句した。
「ただの女友達じゃないのか?」
「どこまでが友達で、どこからが男女の関係なのかしらね?」
(価値観は人それぞれだろうけど、やっぱりその男の人は信用できないよ)
瑠璃は顔も名前も知らない、カナの婚約者に怒りを覚えた。
「そんな奴だって、分かってたのか?」
「そうね、わりと。両親は気付いていなかったみたいだけど」
淡い水色のワンピースの裾で遊ぶように手で揺らしながら、カナが俯きかげんで話す。
「それでも今は、お前のことを思って泣いてるんだろう?」
「えぇ、そうね。私のことも、愛してくれてはいたから。うちの財産への愛と半々か、財産が六ってところかしら」
もう瑠璃は二の句が継げなかった。
「なんでそうと分かってて、結婚を了承したんだ」
「あなたが来ないから」
カナの声はよく通る。下を向いて呟くように話しても、冷たく悲痛な声が室内に響いた。
「それなら、他に結婚したい人もいないし、両親が喜ぶ相手と婚約しただけよ。これでも両親には感謝してるの。今まで愛情もお金も時間も、たくさん私にかけてくれたの。それに前世の名前と同じ響きの『カナ』って名前をくれたから。きっと勘の良い人たちだったのね。あの男の本性には気付けなかったけど……」
顔を上げたカナが、森田の目をまっすぐ見つめた。
「だから、あなたの姿が見えた時、嬉しかった。やっと会えたって」
「それが原因で死んだとしてもか?」
「もちろんよ。それに、死んだなんて思ってない。帰ってきただけよ。だって、『私』は存在するんだもの。無意識の、『私』の本当の望みは、早く天界に戻ることだったのかもね」
「じゃあ、なんで転生を選んだ」
「あなたが追いかけて来るかと思ったから」
上手くいかなかったけどね、とカナが寂しそうに笑った。
「それでも! 何もこんなに早く帰ってくることはなかっただろ」
森田はガシガシと頭を強く掻いた。
「地上の世界のことも、たくさん体験したわ。もう十分よ。それに、私はあなたみたいに自分で死を選んでない。今回も、前回も。あなたがいなくなった後も、懸命に生きた」
瑠璃や森田たちにとって、一番聞きたくない言葉を強い口調で言われ、今度は森田が俯いてしまった。
「ねぇ。私、本当に頑張ったのよ。そろそろ、私のわがままに付き合ってくれても良いんじゃない? 私のこと、まだ好きでいてくれてるんでしょう? だから、あなたの命日に私のそばに居てくれたんでしょう?」
黙り込む森田に、カナが優しい声音で語り続けた。
「今の地上はね、たくさんのシステムが進化してるの。学生が論文を書くために、他人の文章を盗んで自分のものにすることを防止するプログラムなんかもあるのよ。世界が進んだぶん、悪い事もできるけど、それを防ぐ方法もぐっと進んだの。きっと、今ならあなたの夢も叶うから。生きて成功することに匙を投げないで」
「そんなものは、ただのイタチごっこだろ」
少しの沈黙の後、そう短く言い放った森田は、ふいっと部屋から出て行ってしまった。
「困った人ね」
そう言って眉を寄せたカナは、なぜか嬉しそうだった。
お読みくださり、ありがとうございました。
このあたりで、完結まで3分の1くらいです。
恐ろしい……(;一_一)
過去に完結している作品ですが、不自然な流れや読みにくい文章を加筆修正しているため、少し時間がかかっています。
頑張るしかない!
あ、長編苦手な方もいらっしゃるから、書いたらまずかったかも……?(^_^;)
完結までお付き合いいただけましたら幸いです。
※追記です。(2022年3月22日)
後書きで書く予定だった、わりと重要なことを忘れていました。
「カナ」は清一だけを見ていて、車に気付かず車道に出たので死因は「事故」扱いです。
そのため、結い子にはなりません。
ボールを追いかけて、事故に遭ってしまったような感じです。