第十六話 恋よりも愛よりも深いもの
「博士、どこ行くの?」
瑠璃が不思議そうな顔で尋ねてくる。
「偶の命日くらい、好きにさせてくれ」
自分の行動に苛立っていたこともあり、森田は、ぶっきらぼうに答えた。
(今さら、何しに行くんだろうな。俺は……)
濃い茶色のジャケットをさっと羽織ると、森田は静かにドアを閉めた。
結い子は一年に一度、自分の命日にだけ地上に降りることを許されている。
亡くなってから、あまり年数が経っていない者なら法事もあり、家族の様子を見に行くことが多い。
自分を思って悲しむ家族を見ることも修行の一つだ。
ずいぶん前に亡くなった者なら、当時の知り合いはすでに地上にいないため、ぷらぷらと町を気ままに散策する。
縁が深かった者、家族や友人などが転生した後の暮らしぶりを眺めたり、今の流行に驚いたり。
地上界は、たった一年で町並みも、歩く人々の服装もずいぶんと変わってしまう。
「おぉ。あのアイスクリーム屋、すごいな。カナ、知ってるのかな」
森田は、自分に負けないくらい甘党だった恋人のカナを思った。
(――なんて、大きなお世話か。アイスクリームくらい、婚約者がいくらでも買ってくれるよな)
カナが今の恋人と結婚する予定だと知ったのは、昨年の命日だった。
町のショーウィンドウは、ワンシーズン早い秋物の服であふれている。
自分はガラスに映らない存在で良かったと森田は思った。
きっと今、とても情けない顔をしているだろう。
しかし、カナが転生したら、今度こそ結婚をして子どもを授かり、温かい家庭を築くという、ありふれた幸せを掴めるようにと願ったのは、他でもない森田だった。
たとえ自分以外の誰かでも、カナを幸せにしてくれるならそれで良い、と。
そういう一生になるような糸を選んで欲しい、と森田が瑠璃に頼んだ。
そして、瑠璃が結った『一生』で神様の許可も下り、カナは幸せになるために無事に転生していった。
ざわざわと波立つ心に言い聞かせるように、森田は天を仰いだ。
空は澄んだ水色に、薄くレースのような雲がかかっている。
晴天の休日、まわりはカップルや家族連ればかり。
みんな楽しそうで、少しばかり煙たい。
ふと、車道の向こう側に視線を向けると、軽やかな足取りの男の隣で冴えない表情をしている女が目に入った。
カナだ。
(――婚約者と買い物か?)
とたんに息が詰まるように苦しくなり、鼓動はどんどん速くなる。
男は両手にたくさんの買い物袋を下げながら、カナに満面の笑みを向けて話しかけている。
カナは今日の空色のような膝丈ワンピースの裾を揺らしながら、男の半歩後ろを歩く。
そして時々、相づちを打つように頷き、薄く笑う。
(なんで、そんなにつまらなさそうなんだ? そいつ、婚約者だろう? 幸せなんだろう?)
ぐるぐると頭の中をめぐる疑問と動悸で、耳のあたりまで痛くなってきた。
男が一つの店舗の前で立ち止まった。
そして、純白のウエディングドレスを着たマネキンを指さしながら、カナの腰に腕を回した。
(なんだ。やっぱり順調なんじゃないか)
それなら心配事はもうないと、森田は俯いた。
とたんに地面に黒いシミができる。驚いた森田は自らの目元を押さえるが、涙ではなかった。
そもそも死者の涙では、地面は濡れない。
「雨だ」
通行人の誰かがそう言うと、あっという間に空が暗くなり、ザアッと音を立てて雨が降り出した。
周囲が、わっと騒がしくなる。走り出す人、慌てて折りたたみ傘を開く人。
突然の雨さえも楽しそうな若いカップルたちが通り過ぎるのを森田は、ぼうっと眺めていた。
(この体じゃ、雨にも濡れないもんな)
感傷的な気分でカナに視線を戻すと、男は買い物袋が濡れないように必死に抱え込んでおり、カナはこの雨では役に立ちそうにないハンカチを頭に乗せて、きょろきょろとあたりを見渡している。
雨宿りできる場所を探しているのだろうか。
森田は昔の癖で、さっとジャケットを脱いだところでハッとした。
(馬鹿か。触れることもできない服で、どうやって雨を防ぐんだ。それにもう、俺の役目じゃない)
もう一度、ジャケットを羽織ろうとした時にボタンが取れた。
この場では森田にしか聞こえない小さな金属音を立てながら、ボタンは車道まで転がっていった。
ため息をつきながら、森田は生前のように左右を確かめてガードレールを跨いだ。
休日の大通り。車が途切れることはない。
(まぁ、いいか。どうせ、体をすり抜けるし)
そんなことを考えながらボタンを拾い上げて、ゆっくりと体勢を戻した。
視線を上げると、幽霊でも見たような表情のカナと目が合った。
ドクン、と一際大きく心臓が鳴った。
(まさか)
肉体がない、魂だけの森田の姿は見えないはずだ。
そして、まず第一に『森田清一』という男の存在をカナが覚えているはずがない。
頭の中をそんな理論が高速でよぎる。
しかし、カナはまだ、こちらを見つめている。
そして、こちらに向かって一歩一歩、ゆっくりと近付いてきた。
視線が外れない。外せない。
「カナ! 駄目だ!」
正気に戻った森田が叫んだ時には、高いブレーキ音と鈍く大きな衝突音。そして、何人もの悲鳴が響いていた。
道路一面を染める真っ赤な血を、未だ降り止まない雨がマンホールへと押し流していく。
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