第十五話 黄昏時の空の町
「美味しい。森田博士も瑠璃さんもグルメだなぁ」
五丁目のベーカリーのパンが美味しいと聞いたので、満花はいくつか購入して噴水の広場までやってきた。
噴水のふちに腰かけ、森田おすすめのスモークサーモンのサンドを味わった。
ペロリとたいらげてしまった満花はデザートとして、瑠璃おすすめのクイニーアマンをひとかじりする。
結い子になる前の宿舎にいた時は修行が忙しくて、こんなにゆっくりする時間はなかった。
それに宿舎の中には同じような境遇の人たちがたくさんいて、常に賑やかだったため、静寂などという時間や感覚とは無縁に等しかった。
広場にいると、子どもたちが追いかけっこをする声や、タイムセールを告げる店主の声など、水や風の音以外にも様々な情報が耳に入ってくる。
それでも満花はどこか孤独を感じた。
まるで一人で異世界に迷い込んだような、自分だけが存在しないような感覚に胸がさわつく。
「お父さんやお母さん、千里はどうしてるかなぁ……」
妹の千里の笑い声や髪の感触を、まだはっきりと覚えている。
目を覚ますと、生前のように千里が自分の布団に潜り込んで眠っているのではないかと錯覚することすらある。
(それでも時が経てば、こんな思い出もいつかは忘れちゃうのかな)
噴水の水しぶきが満花の髪や顔を湿らせる。
捨ててきたことで、さっぱりしたものもある。
それでも、失ったもののほうが大きかったことに、いまさらながらに気付かされる。
「満花ちゃん!」
ふいに大きな声で呼ばれて振り向くと、昨日出会った美琴が手を振りながら近付いてくる。
「どうしたの? お散歩?」
「はい。ちょっと町の散策を」
「そうなの。広いからねぇ、この町も。休憩なら、うちに寄ってくれれば良かったのに」
「いえ、連日は申し訳ないので」
「そう? 遠慮しないでね。予約がなくても、お茶だけ飲みに来る人もいるんだから」
「え? お仕事のお邪魔じゃないですか?」
満花は心底驚いた。
東京のヘアサロンは常に予約でいっぱいで、スタッフも忙しそうに働いていた。
昼食を摂る時間を確保することすら難しそうな様子だったのだ。
お客以外の相手をしている時間など、とてもなかっただろう。
(そういえばヘアメイクさんも、いつも大変そうだったな)
「あぁ、それはやっぱり天界だからね。分刻みで働いたりはしないのよ」
「そんなものですか?」
「そんなものよ。満花ちゃんは真面目ねぇ。その考え方、早く手放したほうがこっちでは楽よ。天界に住む人は、けっこう好き勝手するから。そのノリで相手してたらストレス溜まっちゃうわよ」
美琴は満花の額を、ぐりぐりと人差し指で押した。
「色々あったんだろうけどさ。ある意味、ここでは次の人生が始まってるのよ。どんな終わり方だったとしても、もう少し楽に暮らしてもバチは当たらないと思うけどねぇ」
「こっちに来てからも、わりとたくさんの人や神様に怒られましたけどね」
それは大変だったね、と美琴が満花の背中を撫でた。
「美琴さん、やっぱり私の最期の詳細をご存じだったんですね」
「そりゃあね、雑誌やテレビでも散々取り上げられたからね。天界にも最新の雑誌や情報が入るし。トップモデルの早すぎる死だから、話題になるのも無理ないわ。まぁ、二週間も経てば、別の話題になったけど。不倫やら熱愛やら、噂には不自由しない業界だからね」
「そうですか」
満花は持っていたパンを握りしめた。ポロポロとこぼれる欠片に気付いて、慌てて手の力を緩める。
「私はね、東京では自分の店は持っていなくて従業員の一人だったの。わりと大きな美容院でね。店長は雑誌やテレビなんかの仕事を引き受けるような有名人だった」
遠くを見つめる美琴の話に満花は聞き入る。
「店長と私、折り合いが悪くってね。どんなに努力しても、けなされてばっかり。そのくせ、全く技術がない若い子には甘かった。そういう店長が大嫌いだったの。でも負けっぱなしは、なんか悔しくってね。だから、今まで以上に練習したの。仕事が終わった時点でも、かなり遅い時間だったんだけど、毎日欠かさず居残って練習したわ」
美琴の話に噴水が相槌を打つように、風向きが変わるたびに水しぶきが揺れる。
満花は口元に張り付いた髪を払い、何も言わずに話の続きをうながした。
「美容師って手が荒れるのは仕方ないんだけど、無理しすぎたせいか、皮膚がズルズルに剥けて出血が止まらないこともあったの。思えば、あれが危険信号だったのよね。そんな日がどれくらい続いた頃だったか、ある晩に疲れ切って布団に入ったら、そのまま魂が抜けちゃった。痛くも苦しくもないんだけど、拍子抜けしちゃって。でも、落ち着いてきたら、ものすごく悔しくなった。まだ店長に勝ってないって」
満花は静かにうなずいた。
空では陽が傾きはじめ、道路や店舗の壁がオレンジ色に染まっていく。
「でも、お葬式の時にね。店長、誰より声上げてわんわん泣いちゃって。うちの両親がびっくりして、泣き止むくらいだった。親しい友達や親族以上に泣いてくれた姿を見て、なんか一気に気持ちが楽になっちゃったのよね。そのうえ、『後継者を育てているつもりだった』なんて言われたら、もう憎めないわ」
うん、っと腕を上げて伸びをした美琴が豪快に笑う。
「まぁ、私には後継者は務まらなかったな。仕事に対するポリシーが店長とは方向が違ってたし。でも、おかげでこっちでも気持ちよく仕事ができるようになった。もし、店長の言葉を聞いてなかったら、死んでまで美容師の仕事してなかったかも。何だかんだ言っても、本来の私はズボラだから」
えへ、と笑う美琴に、神妙な顔つきで聞いていた満花も吹き出した。
「でも、そんなものかもしれませんね。人の心の転換点って」
ふぅ、と大きく息を吐いた満花は言葉を続けた。
「私はモデルの世界が嫌でたまらなかったんです。始めた頃はただただ、この仕事が楽しかった。向けられるカメラも、たくさんの人の視線の中を色んな服を着て歩けることが生きがいだったんです。でも、頑張って上を目指せば目指すほど、当たりがきつくなってきて」
満花は膝の上で、両手をきゅっと組んだ。
「私、モデルの中では身長が低いほうなんです。だから、『この世界にはふさわしくない』と他のモデルからよく言われました。オーディションに受からないのは当然の結果だと笑われて、大きなショーに出るようになれば、場違いだと罵られる。仕事が増えても、減っても、あの世界では息苦しかった。本当はこれも乗り越えられてこそプロなんだ、って分かってはいるんです。でも、あの時の私には難しかった。もし、生き返ることができても、あの世界には戻らないと思います」
握り締めすぎて白くなった手を、美琴がそっと包んでくれる。
「そっか。でも、モデルの仕事は好きだったんでしょ? 他人は抜きにして」
こくっと満花はうなずいた。
「じゃあ、好きなことは好きって認めたほうがいいよ。人って、ひとつを嫌いになった時に全部を否定しがちだけど……。それは、もったいないよね。私は死ぬ時にそれを学んだの。もし私が、やけくそじゃなくて仕事を心底楽しんでたら、突然死は起こらなかったんじゃないかって思うの。きっと『この仕事が好き』って気持ちを長い間、裏切ってたんだよね。満花ちゃんも、今からでも好きなものを探したらどうかな? モデルの仕事と同じくらい素敵なもの。ここなら見つかると思うよ」
美琴は風見鶏を、ちょいちょいっと指さした。
「昨日も言ったけど、うちのエリカもさ。今はまだ怒ったり泣いたり、大声を上げて笑ったりはできないけど、体と心が馴染んだら、もっと感情表現できるようになると思うの。本人もそれが分かってるみたいで、毎日なにか新しいものを得ようと一生懸命に暮らしてるよ」
微かに笑うエリカの瞳が、活き活きしていたことを満花は思い出す。
「だから満花ちゃんにも、こっちに来たからこそできることってあると思うよ。結い子の仕事をしながらでも、趣味は持てるし。天界に来てしまったことは、もう変えられないんだし。ね?」
満花は胸にのしかかる氷の塊のようなものが、少しずつ解けていくような気がした。
「ありがとうございます。少し……、楽になってきました」
良かった、と美琴が目を細めた。
「あの。これ、お礼に。少しですけど……」
いくつか残っていた手付かずのパンを袋ごと美琴に差し出した。
牧羊犬マークの紙袋を見た美琴は弾んだ声を出す。
「あ、五丁目のベーカリー? ありがとう! 私も好きなの。ここのクイニーアマンは絶品よね」
美琴がパンの入った袋を受け取ると後ろから突然、犬の鳴き声がした。
「目ざといわねぇ。この子も、ここのパンが大好物なのよ」
いつの間にか現れたコリーの首を、美琴が抱きしめる。
「美琴さんのペットですか?」
「えぇ、『モモ』っていうの。生前に飼ってたんだけど、この子のほうが先に天界の住人? 住犬? になっちゃったのよね。私がこっちに来て、お店を開いてしばらくした頃に訪ねてきてくれて、そのまま一緒に住んでるの。満花ちゃんは犬、大丈夫?」
「はい。昔、飼ってたので。その子もずいぶん前に亡くなって……。もしかしたら、会えるのかな?」
「生まれ変わってなければ、天界のどこかにいるかもね」
「そっか。どっちにしても、幸せにしててくれると嬉しいな」
クゥンと鳴いたモモが、満花の足元にすり寄った。
「かわいいね、モモちゃん」
頭から背中にかけて撫でると、『もっと撫でて』と言うように寝転がって満花の目をじっと見つめる。
「やっぱり良いなぁ、動物は。癒やされますね」
「災害で亡くなった子とかの里親募集もあるわよ。結い子さんも、おうちで飼えるから、新しい家族に迎えてみたら?」
「うーん、そうですね。もう少し暮らしが落ち着いてからにします」
昨日、ネイルサロンから作業場に一度戻り、住みたい自宅のイメージを急きょ神様に伝えた。
『このネイルに合う、デザインの家って造れますか?』
そんな無茶なお願いに神様は笑顔で二回うなずいて、本当にぴったりの家を用意してくれた。
瑠璃の家からも近い場所に建ててくれたことも嬉しかった。作業場までの距離もわりと近い。
「そうね、時間はたくさんあるし。いつでも譲渡会に案内するわ。また、風見鶏にも遊びに来てね」
「はい!」
美琴に大きく手を振った満花は、ゆっくりと歩き出した。
(そうだ、リビングに飾る花を買って帰ろうかな)
夕日の光をたくさん浴びて、頬が温かい。
何かの温もりを感じられたのは、いつぶりだろうか。
どんなに大きな舞台に立っても、競争競争で感覚が麻痺した生前の生活では、こんな気持ちになることはなかった。
一歩進むごとに、まるで重くて真っ黒なコートを脱いでいくかのような気分で、満花は家路についた。
お読みくださり、ありがとうございましたm(_ _)m