第十話 圭祐の、この世の日常 2
大学卒業と同時に獣医師国家試験にストレートで合格した圭祐は、みなみの動物病院に獣医師として勤務することになった。
南野医師は、圭祐のゼミ担当教授の元教え子だった。国家試験よりも就活のほうが苦労するだろうと思っていたが教授の口添えもあり、あっさりと採用してもらった。教授には、今でも感謝している。
みなみの動物病院のスタッフは圭祐を入れて八名。
まずは南野院長。院長の妻であり、看護師長の瞳。三十代前半の獣医師が男女一名ずつ。圭祐と同い年の男性看護師が一名。
そして、看護師の小川菜摘、二十七歳。あともう一人は二十歳の受付嬢、美咲。美咲は看板娘のような存在でもある。
南野夫妻もまだ三十九歳で、全体的に若く活気のある職場だ。
圭祐が就職する前は、二十代後半の女性看護師がもう一人いた。
しかしハードな職業のため、早めに産休、育休を取ったらしい。そのため、人手不足だったそうだ。
それが圭祐がすんなり採用された理由の一つでもあったと、後々に聞かされた。
圭祐は成績優秀で、手先もわりと器用だった。褒められることはあっても、叱られたり注意を受けるようなことは、学生時代はほとんどなかった。
獣医師資格を取得後は淡々と経験を積んで、あっという間に一人前の獣医師になるのだと漠然と考えていた。
しかし、その考えは甘かった。
勤め始めて一週間が経った頃に、きつい駄目出しをくらった。しかも、それは院長からではなく、看護師の菜摘からだった。
今でも思い出すと背筋が冷たくなる。
ようやく器具の場所や仕事のリズムを覚えだした頃に、マンションのベランダから転落した猫が運び込まれた。
すべての足を負傷し、あごや腹も強く打ち付けていて、命を救うためには一刻を争った。
これほど重傷の動物を病院で初めて見るうえに、小学生の頃に目の前で車に轢かれて死んだ猫を思い出し、足が動かなくなった。
「ちょっと! こんな所に突っ立ってたら邪魔よ! レントゲンの準備するとか、できることはいくらでもあるでしょう。あなたは何のために、ここにいるの! 救うためでしょ?!」
オペに使う器具や酸素マスクを運びながら、菜摘は圭祐を睨み付けた。
初対面の時に美人だ、と思っていた菜摘にこれでもかというくらいの恐ろしい形相を向けられ、すくみ上がった。
色々な恐ろしさでめまいを起こしそうになったが、懸命に生きようとする猫の姿が視界に入り、ぐっと踏ん張って大きく深呼吸をした。
「南野先生、僕は何をしたら良いですか」
猫の全身を慎重に触れている院長が、視線は猫から逸らさずに答えた。
「あぁ、じゃあ詳しく検査していくから、その手伝いを。新患さんだから、血液型も調べるからね。手順は看護師たちに聞いて。あとは、治療の様子をよく見てて。都会に住む動物は、こういうケースもわりとあるから」
「はい」
焦りや緊張から、いつものように採血ができない。
採血もまともにできないような新米は、こういった時に足手まといなのだと痛感した。
人間の医師たちもインターンの時は看護師、特に師長には頭が上がらないと聞くが、獣医もそうだ。場数を踏んでいる人たちには、とうてい追いつけない。
(――役立たず)
できることを精一杯手伝うが、そんな考えが頭の中を過ぎった。
そして院長の手際も鮮やかだったが、求められることの一歩先を読み、くるくると立ち回る看護師たちの姿が印象的だった。
(早く追いつきたい。一緒に命を救いたい――)
恐怖や劣等感は手術が終わる頃には、そんな思いに変わっていた。
「しばらくは入院になりますが退院する頃には、ある程度まで歩けるようになりますよ。これからは気を付けてあげてくださいね」
院長の言葉を聞いた飼い主は、泣きじゃくりながら何度も頭を下げた。
「マリーちゃん、良かったですね。入院中は完全看護でお世話いたしますので、ご安心ください。入院費用のお支払いは退院時にお願いいたします」
涙でぐしゃぐしゃの飼い主に、受付の美咲が微笑んだ。また涙ぐみながら飼い主は頭を下げる。
そして、待合室まで見送りにきた圭祐にも「ありがとうございました」と深いお辞儀をした。
ほっとした顔で帰っていく飼い主の背中を眺めながら、不甲斐なく思う気持ちにまた侵食される。
(俺はお礼を言われるようなことは、何もできていない……)
圭祐はマリーの様子を見に行こうと、とぼとぼと歩きだした。
入院中の動物たちが休んでいるエリアに入ると、何か話し声が聞こえてくる。
そっと覗いてみると、マリーが眠るアクリルケースの前に菜摘がいた。
「良かったね」
そう言って、透明なアクリル越しにマリーを撫でる仕草をする菜摘は先ほどとは別人で、優しく慈愛に満ちた看護師の顔をしていた。
圭祐に気付いた菜摘は、ゆっくりと振り向いた。
「佐藤先生、初勤務からまだ一週間なのに大変でしたね」
ふわっと頬笑む菜摘の表情に驚いたのか、ほっとしたのか涙が出そうになった。
「すみません、何もできなくて。足手まといで……」
「あ! すみません。私、怒鳴りましたよね。気にしないでください。患者さんを前にしてると、どうも気が昂ぶっちゃって……。佐藤先生は、立派でしたよ。ちゃんと器具の場所も覚えてくださっているし、助かりました。きっと、良い獣医さんになれますよ」
(これ以上はマズイ――)
じわっと目頭が熱くなってきたのを必死にこらえようとしていると、後ろから声が聞こえてきた。
「そうそう。佐藤先生、気にすることないっスよ! うちの名物みたいなもんですから、小川さんの豹変っぷりは。小川さん目当てに来院する男性もアレ見たら、さすがにビビりますもん」
男性看護師の三谷の声に驚いて振り向いたとたんに、涙がポロッと零れた。
「あー! 小川さんが泣かせたぁ。あーぁ、将来有望な先生泣かせるなんて」
三谷が子どものように茶化す。
「え、え、ごめんなさい。私、そんなにきつかった? そんなつもりはなかったんだけど、本当にごめんなさい……」
オロオロとする菜摘と、ニヤニヤと楽しそうな三谷の顔が涙で歪んで見えた。それが妙におかしくて、今度は笑ってしまった。
「何がおかしいの?」
菜摘は不安そうなまま、どこか不機嫌な表情になった。
「いえ、良い職場に入ったなと思って」
圭祐は涙を袖で拭きながら、笑顔で答えた。
「俺、頑張ります。早く一人前になれるように」
圭祐の宣言に二人は目を合わせてから、両肩に強めの激励をくれた。
それから圭祐は国家試験前以上に勉強し、先輩獣医師の治療の見学や飼い主とのコミュニケーションも積極的に行った。
その隣にはいつも菜摘がいて、時には非常に厳しく、時には驚くほど優しく圭祐の成長を見守ってくれていた。
しかし、どんなに手を尽くしても亡くなってしまう動物もいる。
命との向き合い方や悲しみを乗り越える方法も、菜摘からずいぶん教わった。
そんな菜摘に対して圭祐が恋心を抱くまで、時間はかからなかった。
そして、圭祐の気持ちに菜摘も応え、交際が始まった。
デートは水族館や動物園が多く、たまに遊園地や買い物に出かけても、結局は動物についての話題がほとんどだった。
お互いの仕事について理解があり、忙しさでなかなか出かけられなくても職場では毎日のように顔を合わせている。
そんな毎日が幸せで、菜摘も同じように感じてくれているように見える。
しかし最近、「何かおかしい」と圭祐は思うことが増えた。
横で眠る菜摘の整った顔を見て、何とも言えない違和感を覚える。近頃の夢見のせいだろうか。
最近、眠るとすぐに朝になっているようなことが多い。
そして、そんな朝は必ず何か大切なものを忘れているようで、胸がざわつく。
そういえば先日、一緒に買い物に出かけた際に、菜摘には幼すぎるデザインのワンピースを勧めてしまい、首を傾げられた、
菜摘にはもっとシンプルで大人っぽいデザインが似合う。もちろん、今もそう思っている。
しかし、なぜか、あの可愛らしいデザインが目に留まったのだ。
また、水族館でイルカショーを楽しむ菜摘の横顔を見て、もっと無邪気に笑う女の子の顔が過ぎったこともあった。
(誰だっけ、同級生とかじゃないし。浮気願望とか? いやいや、そんなバカな)
菜摘の頬にかかった髪を梳くと、彼女はわずかに身じろぎし、また穏やかな寝息を立て始めた。
柔らかな朝日の中で眠る菜摘を見つめながら、小さな違和感よりも、今ある確かな幸せに目を向けようと圭祐は思った。
少しずつ、圭佑に変化が出始めています。
お読みくださり、ありがとうございました。