大倉喜八郎①
前章にて、満鉄株を一人で全部買い占めようとした人物がいると紹介した。
名は大倉喜八郎(1837~1928)、別名『死の商人』と言われた戦前の怪物政商である。
生涯において、三菱の岩崎弥太郎をライバル視していたこの男は、昭和初期における資産総額が国内第5位という大富豪で、三菱、三井、住友、安田に並ぶ財閥の頭であった。
1879年、大倉喜八郎は向島に別邸を建てた。
賓客の接待用として隅田川に面して建てられたこの建物は「蔵春閣」と呼ばれ、建築面積254.50平方メートル、延床面積398.50平方メートルの2階建てで、唐破風入母屋造りの豪奢な建物であった。
伊藤博文や渋沢栄一もよく利用する料亭、いわゆる料亭政治の場として広く知られていた。
ここに、満鉄中心主義の後藤新平が、小満鉄主義の伊藤博文を接待した。
1909年10月のハルピン外訪の提案をするためてある。
ロシア財務大臣ココツェフはすでにシベリア訪問の旅路であった。
ハルピンでの伊藤博文とココツェフの会談は急遽セットされた。
大倉喜八郎の残した企業は膨大である。
渋沢栄一とまではいかないが、
帝国ホテル、ホテルオークラ、大倉商事、大倉鉱業、大倉土木(大成建設)、
千代田火災海上(現・あいおいニッセイ同和損害保険)
日清製油(現・日清オイリオグループ)
東海パルプ
川奈ホテル
帝国繊維
サッポロビール
リーガルコーポレーション
ニッピ
日本化学工業
東京製綱
日本無線
本渓鋼鉄 - 中華民国・(のち満州国遼寧省本渓)
東京電燈
富士銀行(現みずほ銀行)
太陽生命など・・・・
1837年生まれの彼が、70歳になった1907年、なぜそんなに満鉄にのめり込んだのか・・・
政治家に援助するのが好きだったという大倉喜八郎、彼が鉱山利権に取りつかれたのは満蒙独立を夢見てたからなのか、中国の清朝末期、モンゴルの王公たちに大金を貸していたことはわかっている。
大倉喜八郎は経済力で大陸での大倉財閥の影響力を強めていた。
なかでも知られるのが「粛親王借款」である。
日本政府から粛親王への政治資金150万円の借款を肩代わりしたのが大倉財閥だった。
現在の価値で数十億円にも相当する。
粛親王とは清の皇族の称号で、第10代粛親王の愛新覚羅善耆は、大倉喜八郎の資金援助で満蒙独立運動を率いた。
喜八郎が満州経営にのめり込みすぎたせいで、大倉コンツェルンは第2次世界大戦後、その資産のほとんどを失ってしまった。
さて、満鉄管理地には前章で紹介した撫順炭鉱以外にも大きな炭鉱がいくつかあった。
本溪湖炭鉱もその一つである。
遼東半島付け根の瀋陽市、昔でいう奉天市の南東79キロの本溪市。
ここに本溪湖炭鉱はあった。
本溪胡炭田に未開発の巨大な石炭層が数多くあり、北洋軍閥の支配下にあった。
大倉財閥の力は三井、三菱、住友、安田に次いで5番目とされていたが、敗戦による中国で被った損失額は大倉財閥がケタ違いに巨額であった。
およそ5,000余万円と推計され、それは当時の大倉財閥の全資産にほぼ匹敵する規模で、そのほとんどが大倉喜八郎の存命中に投入されたものであった。
大倉財閥の中国大陸進出は、社長である大倉喜八郎のトップ決定がすべてであった。
自ら現地に乗り込んで、相手側のトップと直接会談して、ほぼその場で決定し断を下した。
三井では益田孝が断を下し、三菱では弥太郎の死後は後継の岩崎小弥太が断を下したが、
当人が現地へ出向いて即決するなど、例えば北洋軍閥の将軍などと直談判して投資計画にハンコを押すなど、大倉喜八郎だけであった。
大倉喜八郎は記録に残るだけで9回も訪中している。
大倉喜八郎が海外事業に乗り出したのは、台湾出兵の武器・食糧の輸送隊を指揮して乗り込んだ明治7年(1874年)が最初であった。
台湾と言えば児玉源太郎と後藤新平の経営地である。
彼らはイギリス東インド会社を真似て台湾植民地経営をやった実践者であり、成功者であった。
大倉喜八郎にとって台湾は、ビジネスの飛躍の地で大陸進出の足掛かりを得た大恩ある土地であり、児玉・後藤にビジネス初期における大きな恩義があったということである。
この事は後に伊藤博文が廈門事件で児玉・後藤と対立したときに大倉喜八郎がどういう感情を持ったか推測する上で重要である。
大倉喜八郎の大陸事業としては、日露戦争の最中の1905年に鴨緑江の河口で始めた製材業が最初であった。
日露戦争の攻防最激戦地だった旅順の二〇三高地に大倉喜八郎は姿を現し、乃木希典や将兵たちを激励したと言われている。
この製材業は後に合弁の鴨緑江採朴公司となる。
大倉喜八郎が中国で成功した最大の事業が「炭鉱」と「製鉄業」であった。
日露戦争中に北洋軍閥の支配下にあった本渓湖炭鉱の開発について張作霖と交渉を始め開発計画を取りまとめた。
大倉喜八郎は満鉄発足と同時にこの本渓湖炭鉱に莫大な資金を投下し開発した。
大倉喜八郎は後に関東軍によって忙殺された張作霖のビジネスパートナーであったということだ。
1906年1月に『大倉炭鉱会社』が本溪湖炭鉱第一杭を開杭し、1910年11月までに第三杭までを開杭した。
大倉炭鉱会社は、この炭鉱で業務用として利用していた電力設備に加えて、さらに電力供給設備をも自前で新設し、1909年から周辺地域へ電力供給までも行った。
鴨緑江の電力開発と言えば野口遵の日窒コンツェルンによる「水豊ダム」が有名であるが、日窒コンツェルンが北朝鮮蓋馬高原で大々的な電力開発と化学コンビナートの結合事業を整備したのは1920年代である。大倉コンツェルンはそれよりも10年も早くに満州でその開発モデルを成功させていたことになる。
伊藤博文が暗殺されたのは1909年10月26日のことである。
鴨緑江岸の材木製紙産業が1905年、本溪湖周辺炭鉱開発開始が1906年、周辺への電力供給が1909年、大倉コンツェルンの大陸経営と伊藤公暗殺計画の流れが同時進行的にクロスするように思えてならない。
伊藤博文暗殺後、同鉱山事業と電力事業は統合され、1910年5月に日清双方による合弁企業ととして
『本渓湖煤鉱有限公司』が設立された。
採炭並びに電力事業は同社へ引き継がれ、製鉄業を兼営するようになり、
翌1911年に『本渓湖煤鉄有限公司』(ほんけいこばいてつゆうげんこんす)へ改称した。
1915年(大正4)高炉の操業を始め、良質の鉄鉱石、原料炭、石灰石に恵まれ、精密機械や大口径砲に不可欠の低燐銑を生産、日本の軍需工業を支えた。
1921年コークス吹き低燐銑の生産に成功、1930年代には輸入低燐銑を完全に抑えた。
1935年(昭和10)満州国政府と共同出資の準特殊法人となり、銑鋼一貫体制を目ざして拡張を続け、1939年満州重工業開発会社(満業)傘下に入った。
現在の本渓鉄鋼グループは2008年の中国企業上位500社のランキングで136位(2007年は112位)という大企業に成長している。
ここで大倉喜八郎の経歴をざっと紹介しておく。
大倉 喜八郎(1837年10月23日 - 1928年4月22日)
大倉財閥は渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立したほか、台湾、朝鮮、満州で、国策を受注する政府御用達企業グループであった。
中川鰹節店で丁稚見習いとして奉公した喜八郎は丁稚時代に安田善次郎と親交を持つようになる。
1857年、20歳のとき奉公中に貯めた100両を元手に乾物店大倉屋を開業。
1866年、横浜で黒船を見たことを契機に廃業。
1867年、鉄砲店「大倉屋」を開業した。
明治元年(1868年)新政府軍の兵器糧食の用達を命じられるまでになり、
明治4年(1871年)鉄砲火薬免許商として諸藩から不要武器の払い下げを受け、
明治7年(1874年)の台湾出兵の征討都督府陸軍用達、
明治10年(1877年)の西南戦争で征討軍御用達、
明治27年(1894年)の日清戦争では陸軍御用達、となる。
まさに政商である。
1905年、日露戦争の際、鴨緑江のほとりに大倉組製材所というパルプ会社を設立した。
明治4年(1871年)3月に新橋駅建設工事の一部を請け負う。
同じ頃、高島嘉右衛門らとともに横浜水道会社を設立。
同年頃、貿易商社を横浜弁天通に開設。
欧米の文物の輸入から服装の一変を予見し、
洋服裁縫店を日本橋本町に開設した。
明治5年(1872年)3月には銀座復興建設工事の一部を請け負い、
明治8年(1875年)に東京会議所の肝煎となる。
この時、東京府知事・楠本正隆の要請で渋沢栄一も肝煎となり、
以後50年に及ぶ親交を持つ。
明治9年(1876年)には大久保利通とロンドンで会見し、
被服の製造所である内務省所管羅紗製造所(千住製絨所と改称)を設立。
明治10年(1877年)の東京商法会議所(現、東京商工会議所)、
横浜洋銀取引所(横浜株式取引所)設立。
明治14年(1881年)に鹿鳴館建設工事に着工、
藤田伝三郎らとともに発起人となった大阪紡績会社も設立した。
明治15年(1882年)3月には日本初の電力会社・東京電燈を矢島作郎、蜂須賀茂韶とともに設立。
これが後の東京電力である。
明治20年(1887年)藤田らと共同して日本土木会社、内外用達会社を設立。
同年に帝国ホテル設立。
東京瓦斯、京都織物会社、日本製茶、東京水道会社などの株主や委員などにも名を連ねる。
明治26年(1893年)に大倉土木組(現・大成建設)を設立。
日本初の私鉄、東京馬車鉄道、九州鉄道、山形鉄道、北陸鉄道、成田鉄道、
国外では、台湾鉄道、京釜鉄道、金城鉄道、京仁鉄道、
内外で数多くの鉄道企業へ参加、出資した。
明治39年(1906年)に麦酒三社合同による大日本麦酒株式会社設立。
翌40年(1907年)には日清豆粕製造(現・日清オイリオグループ)設立。
同時期、日本皮革(現・ニッピ)、日本化学工業、帝国製麻(現・帝国繊維)、東海紙料(現・東海パルプ)を設立。
明治42年(1909年)日本ホテル協会会長。
明治44年(1911年)に商事・工業・土木部門を営む株式会社大倉組を設立。
大正7年(1918年)には大倉商事株式会社と改称し、大倉組のコンツェルン化を行った。
昭和2年(1927年)に日清火災海上保険を買収し、大倉火災海上保険(現・あいおいニッセイ同和損害保険)設立。
「政商」といわれた大倉喜八郎は陸軍商社「昭和通商」の設立発起人でもある。
次に「昭和通商」について解説しよう。