満鉄株
南満州鉄道会社は、ポーツマス条約で獲得した東清鉄道南満州支線等の鉄道と付属地の経営を目的として、政府の過半数出資により設立された国策会社である。
満鉄株は熱狂的な人気を博し、第1回株式募集では10万株に対して1,077倍もの応募を集め、大倉喜八郎のように1人で全額を申込む者もあった。
満鉄上場は株式ブームに火をつけ、第一次大戦では満鉄を含む軍需関連株が高騰し多くの「株成金」が出現した。
初代満鉄総裁には台湾総督府民政長官として植民地経営を成功させた後藤新平が就任した。
満鉄創設には野心的な官僚や事業家が参加し、事業は、鉄道・鉱山・都市開発・製鉄所・農地開拓・商社・アヘンなどに広がった。
その中でも、初期の満鉄事業を支えたのは炭鉱事業であった。
遼寧の撫順に当時としては世界最大規模の炭田を所有していた。
清国では場所が歴代の皇帝の墓陵に近いこともあり風水的に難ありと開発が禁止されていたが、
日清戦争後ロシアにより開発が始められ、日露戦争の結果、満鉄の所有となった。
その後調査で無尽蔵といわれる埋蔵量が確認され、撫順炭田の将来性が嘱望されると満鉄鉄道は撫順炭田のための鉄道であるとまでいわれた。
満鉄の設立委員には、三井、三菱、住友、といった財閥、渋沢栄一、高橋是清、藤田伝三郎、安田善次郎、といった財界人、そして貝塚太助、麻生太吉、安川敬一郎、という筑豊御三家、炭鉱事業者が名を連ねた。
「10万の生霊と20億の戦費」といわれる多大な犠牲を払って獲得した南満洲の地に新たに誕生する満鉄の響きは、当時の日本人の期待を集めるのに十分であった。
9月10日に開始された第1次株式募集よりには1万1356人の応募が殺到し1,077倍を超える空前の人気を博した。
そのなかには、若き日の堤康次郎もいた。
当時、故郷の滋賀県愛知郡八木荘村で行っていた農業用化学肥料販売に行き詰まっていた堤は、株式投機に将来を賭け、新規公開の満鉄株で利益を上げたのである(由井常彦編『堤康次郎』)。
ポーツマス条約終結前日である1905年9月5日、後藤新平は台湾総督であった児玉源太郎を奉天の満州軍総司令部に訪ねる。
この時、後藤は満州の視察を行い、その考えは「満州経営策梗概」としてまとめられた。
その冒頭で後藤は「戦後満州経営唯一の要訣は、陽に鉄道経営の仮面を装い、影に百般の施設を実行するにあり」と述べ、三大臣命令書と同じように、付属地の開発や工業の奨励などにより満州を実質的に統治するという構想を練っていた。
満鉄総裁就任が決定すると、後藤はその経営にあたって「文装的武備」という言葉を掲げた。
その意味を後藤は「文事的施設を以て他の侵略に備え、一旦緩急あれば武断的行動を助くるの便を併せて講じ置く事」「王道の旗を以て覇術を行ふ」ことと述べている。
後藤は「文装的武備」という言葉を以て、満州経営という国家意思と企業としての満鉄を結びつけ、満鉄を介して満州を統治するという大戦略を遂行しようとしていた。
再度日露間の衝突があると考えていた後藤は、鉄道網の拡大によって武断的行動、即ち実際の戦闘の後援をしようとしていた。
他方、「文事的施設を以て他の侵略に備え」るという点に関しては、ホテル事業がよくその意味を体現している。
ポーツマス条約終結直後、米国の鉄道王・ハリマンによる買収問題で紛糾した満鉄は、満鉄経営を円滑に行うために、外国からの干渉を防がなければならなかった。
そのため、対外に満鉄経営が好調であり日本人独力で経営が可能であることを積極的に示す必要があった。
後藤は満鉄に赴任すると各地にホテルを建造し、欧米人を誘致した。
後藤はホテル業を介して、欧米に満鉄をアピールするとともに、満州が日本人による排他的精神によって開発されているのではなく、全世界の福祉増進につながるように満鉄が同地を開発していることを訴えた 。
1907年4月1日から営業を開始した満鉄本社には5つの部署が設けられた。
総務部、運輸部、鉱業部、地方部、調査部。
開業当初の調査部では清国の法制度や慣習の調査を行い、付属地の開発を行う中で清国と法制度上の衝突が起こらないように備えた 。
満鉄本社の調査部は1908年12月には調査課となり規模を縮小されたが、1908年11月には東京支店に東亜経済調査局が設置されており、満鉄全体としての調査能力が低下したわけではなかった。
同局は本邦初の組織的な経済調査機関として設立され、満鉄の業務の範囲に止まらず、グローバルなインフォメーション収集機関として、広く世界経済の調査・研究を行った。
さらに満鉄は中央試験所・地質試験所などの研究機関も擁した。
中央試験所は後藤の提唱により1907年10月に設立され、
翌年7月に業務を開始した。
当初は関東都督府に所属していた中央試験所は1910年に満鉄に移管され、その後、同所は撫順の石炭や蒙古の天然ソーダなどの満州の資源に関する調査を行った。
地質調査所は満鉄工業部地質課を起源とし、1908年に鉱業課となった後、1910年に本社直属の地質研究所に改組され、1919年に地質調査所となった。
満鉄の創立当初、トップであった後藤は50歳、副総裁の中村是公は40歳と若く、三井物産から営業担当の理事に抜擢された最年少の犬塚信太郎は32歳であった。
『後藤新平伝』では、このように若年の人材を抜擢した理由を、後藤の「名高の骨高はだめだ」という口癖と併せて「声名を天下に買って、既にその全盛期を過ぎたる人物は、実際の役に立たぬ人間多しとの意味である 」と述べている。
個人名義で満鉄株を取得している株主を見ていくと、取得株数が多い順に大倉喜八郎(91株)、古河虎之助(46株)、岩崎久弥(18株)、渋沢栄一(4株)といったそうそうたる名前が挙げられる、満鉄がいかに嘱望されていたかがわかる。
そんな中、門戸解放を大義名分に、欧米が何度も満鉄を共同管理にしようと満州に入ってきた。
満州での満鉄の独占的な地位は反感を呼び、英国・清による宝庫門鉄道計画や米国・清による錦愛鉄道計画といった満鉄に対するライバル線、即ち平行に走る鉄道計画になってあらわれた。
そんな中、国際強調を是とする伊藤博文は、国際協調を崩すのは日本にとってもよくないと考えていた。
満鉄中心主義を標榜する政界財界から伊藤は危うい人物であると思われていった。