錦愛鉄道計画①
米西戦争によってフィリピンを獲得したアメリカは、徐々に中国大陸への関心を強めていた。
ユニオン・パシフィック鉄道会社ハリマンの世界一周鉄道計画の一環として、日本政府に南満州鉄道の日米共同管理を提案したのは、その一例であった。
また、現実的な外交を展開したルーズベルト政権に代わって1908年に成立したタフト政権は、大企業経営者が最大の支持基盤である共和党の意向を反映した外交政策である「ドル外交」をラテンアメリカをはじめとする世界各地で推進していた。
中国においても、1909年、清南部の湖広鉄道建設の借款団に割り込む形での参加を、英仏独の3カ国に主張するなどドル外交は展開され、列強各国を当惑させていた。
こうしたドル外交は満州でも展開される。
タフト政権内において、アメリカの満州進出を推進したのは、1906年より奉天総領事となっていたストレイトと国務省極東部であった。
ストレイトは、日本の満州政策の閉鎖性を強く非難しており、満州における日本の勢力と対立するために、アメリカ資本による投資が最も効果的だと考えていた。
ストレイトと連携し日本に対抗しようとしたのが奉天巡撫の唐紹儀であった。
唐紹儀は、14歳のときにアメリカ留学児童に選ばれ、コロンビア大学に学んでいた親米知識人であった。
19世紀後半以降の清では中国史上に存在しなかったナショナリズムが勢いを増していた。
この背景には、1870年以降の清が外患に悩まされる「危機の時代」にあったことが挙げられる。
ロシアによる新疆への侵入、清仏戦争、日清戦争といった戦争での敗北、そしてそのたびに締結される条約の最恵国待遇によって、外国の利権は拡大していく。
特に、1890年後半から列強によって設けられた租借地や勢力圏は、清の知識人に強烈な危機感を与えた。
ここで少しロシアによって満州北部に施設された東清鉄道について解説しておこう。
ロシア帝国は1891年、シベリア鉄道建設を正式決定し建設に着工した。
ロシア帝国は、ドイツ帝国、フランス共和国と共に日清戦争(1894年7月 - 1895年4月)後に締結された下関条約により日本が領有することになった遼東半島の領有を三国干渉(1895年4月23日)によって阻止しており、その見返りとして清国の李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功していた(露清密約、1896年6月3日)。
その中でロシアは、建設困難なアムール川沿いの路線ではなく、短絡線としてチタから満洲北部を横断しウラジオストクに至る鉄道の敷設権を獲得し、
1896年露清銀行によって「中国東方鉄道株式会社」、清国側の名称では「大清東省鉄路」という鉄道会社が設立された。
経営の最高機関は、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに置かれた理事会で、ロシア大蔵省が理事を任命した。
このように、表向きは露清合弁であったが、ロシアの発言権が強く、清国は経営に直接関与できなかった。
清のナショナリズムは当初、排外的な「攘夷」という形をとって表出した。
しかし、義和団事件による挫折を受け、列強に対して国家利権を保持、回収しようと試みる利権回収運動へと転換することとなる。
アメリカ政府は、こうした清におけるナショナリズムの高まりを、中国市場進出の契機と捉えており、利権回収運動を展開する清の知識人はアメリカのドル外交を列強による利権獲得競争に対抗する手段に利用できると考えたのである。
こうした利権回収運動を展開する清の知識人の一人が唐紹儀であった。
1909年8月27日、ストレイトは、ジョーダン駐清公使に対して、アメリカ企業による錦愛鉄道への投資契約が存在することを通告した。
そして10月2日、ストレイト、ポーリング商会及び東三省総督錫との間で錦斉鉄道計画を発展させた錦州と愛琿を結ぶ錦愛鉄道の借款契約が奉天で締結された。
伊藤博文がハルビンで凶弾に倒れたのが10月26日である。