法庫門鉄道計画・錦斎鉄道計画
法庫門鉄道計画問題というものがある。
1907年11月8日、ポーリング商会は唐紹儀との間に、鉄道建設のための予備契約を結んだ。唐紹儀は袁世凱の頭脳と言われた人物である。
法庫門鉄道計画は、奉天から西に30km ほど離れた新民屯から遼河西岸を北上し法庫門に至るものであった。つまり満鉄の西、南北に平行して流れる遼河に沿って走る鉄道であった。
これは新奉鉄道問題において、日本の勢力圏とされた南満州の遼河以東のわずかながらも西方外側に計画されたものであった。
日本が建設に対して反対行動がとれるのかは法的に微妙なところであった。
日本は日清満州善後条約付属取り決めにおける秘密議定書違反だとのスタンスをとった。
日清善後条約とは日露戦争後のポーツマス条約(日露講和条約、1905年9月5日)を批准し、帝政ロシアから日本に譲渡された満州利権の移動を清国が了承する内容であり、講和条約で生じた日本と清国の共同関係を示しているものであった。
日本は満鉄の併行線およびその利益を害するような鉄道の建設禁止規定をもっていた。
法庫門鉄道計画はその規定に違反しているという理論である。
満鉄は開業からまだ半年しか経過しておらず、この法庫門鉄道計画は日本の満州経営基盤を揺るがすものと認識されていた。
また、法庫門鉄道は将来、斉斉哈爾まで延伸されることが予定されており、斉斉哈爾の南においてロシアが運用する東清鉄道本線と連絡することは、ロシアが南満州に対する戦力投射を確保することを意味した。
ポーツマス条約によって満州を南北に分割した日露両国間の均衡を崩すことにもなりかねなかった。
このように、法庫門鉄道計画に経済的にも軍事的にも脅威を覚えた日本は、鉄道建設計画反対した。
しかしそれは、日本が確約している満州における門戸開放の原則に反するものと認識されイギリスの世論に反発を呼んだ。
1907年12月28日の『タイムズ』は法庫門鉄道計画について次のように報じてる。
『南満州鉄道は日本軍によって警備され、沿線が完全に平穏であるにもらず、戦時と同様の軍事検査がなされている。
……さらに、とある事件がイギリス人を憤慨させている。
中国政府は、北京から新民屯に伸びる路線を、肥沃で人口の多い法庫門まで延伸させる目的で、11月8日、イギリスの企業と契約を結んだ。
……日本は建設に抗議するのではなく、満鉄と競争するという理由で建設を禁じたのである。
しかし、満鉄と計画された鉄道とは最も近い地点でも35マイル離れている上に、大河の流域も挟んでいるのである。
日本に鉄道建設の優先権が認められているのは、遼河水系以東のみであり、遼河以西における中国による鉄道建設を禁止する権利はない。
この日本の行動は、門戸開放原則からの完全なる逸脱である』
『タイムズ』はイギリス外務省と密接な関係を持っており、
イギリス政府の外交政策の代弁者という性格も持つ有力紙であった。
『タイムズ』の東アジア報道に関しては、1899年から1912年まで外報部長を務めたチロルが掌握しており、基本的に日本に好意的な報道がなされていた。
しかし、北京通信員のモリソンを筆頭に、日本に批判的な論陣を張る記者も存在した。
モリソンは、日露戦争前まで親日派であったが、
日本の戦勝による「帝国主義的行動」を脅威に感じ、
反日派に転向し、1906年頃から日本の対中政策に警鐘を鳴らし始めていた。
上記の記事も、モリソンが書いたものと考えられる。
一方、同じ『タイムズ』の紙面においても、
1867年以来日本に在住し、
日本に好意的な記事を書いていたブリンクリーが通信員として駐在する東京からの記事では、「満州における門戸開放は、日本が尊い犠牲を払ってまで誠実に希望し、保たれたものである。
それゆえ、我々は日本の門戸開放を遂行せんとする意志に信任を与えるべきである」とされ、法庫門鉄道計画は「南満州鉄道と直接競合しかねない計画であり、満州善後条約に違反するもの」と報じられている。
イギリス外務省において、法庫門鉄道問題は、日清間の最大の外交問題として
認識されていた。
一方、イギリス外務省内においても、モリソンと同様に、日本の日本に対抗する形でポーリング商会を支援するべきだという声が上がっていた。
イギリスの駐清公使ジョーダンは、11月14日、清国政府が契約を承認するために必要な援助をポーリング商会に与えることをグレイに進言している。
また、駐日大使のマクドナルドも、「私は法庫門鉄道が満鉄の併行線にあたるのかを判断する立場にはない」としつつも、「満州における鉄道権益を独占しようとする日本の思惑が存在する」とグレイに報告している。
しかし、こうした声に反してグレイは、
1908年1月20日、もし法庫門鉄道が満鉄の利益を損ねる事実があれば、
イギリス政府としては、その建設を推進することはできないとジョーダンに伝え、 2月3日には、小村駐英大使に対して、
法庫門鉄道の建設を主張することは穏やかではないと認め、
計画を推進しないよう、駐清公使に訓令すると告げている。
そして、1908年3月24日、グレイは庶民院において、日本の主張を認め、法庫門鉄道計画は頓挫する。
法庫門鉄道計画が頓挫したことを受け、
フレンチ卿はその代替として、法庫門よりさらに西側に位置する錦州から、
斉斉哈爾に至る路線計画である錦斉鉄道計画を発案し、
1909年4月22日、在清公使館に対して計画の報告を行っている。
そして、この計画は6月29日、日本に伝えられ、日本政府内において対応の検討が開始される。
採る方策として考えられるのは、
第一に、法庫門鉄道計画と同様に錦斉鉄道も満鉄併行線と認定し建設に反対するというもの。
第二に、錦斉鉄道の建設を是認し、日本も技術及び資本をもってその建設に参加するというものが存在した。
錦斉鉄道計画は満鉄から120マイル西側に計画されたものであり、
伊集院駐清公使が指摘するように、それを満鉄併行線と認定するのは困難であった。
そこで、閣議において清が錦斉鉄道の建設にあたって外国から技術および資本の導入を図るのであれば、日本もこの計画に参加するとの方針を決定した。
私はこの決定により、満鉄と日本政府の間に大きな遺恨が残ったと見る。
イギリス政府は、前年の法庫門計画において、
自国のポーリング商会の利益を損ねたことを遺憾に感じており、
日本の是認は肯定的に受け止められた。
しかし、こうした期待感は、錦愛鉄道計画にアメリカが参画することによって雲散霧消することとなる。