ジェイコブ・シフ①
ジェイコブ・ヘンリー・シフ
1847年生まれの彼は、エドワード・ヘンリー・ハリマンと組んで南満州鉄道を日本から買い上げようとしたユダヤ人銀行家である。
ドイツ生まれの彼は高橋是清の求めに応じて日露戦争の際には日本の戦時国債を購入した、ゆわば日本の大恩人である。
勲一等旭日大綬章を明治天皇より贈られている。
フランクフルトの古いユダヤ教徒の家庭に生まれた彼は、
代々ラビの家系で1370年からフランクフルトのゲットーで、
初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルド時代
「グリューネシルト(緑の盾)」と呼ばれる建物に、
ロスチャイルド家とともに住んでいた。
1865年に渡米した彼はほとんど無一文だった。
はじめ銀行の出納係に就き、28歳の時、クーン・ローブ商会に就職。
1885年、ソロモン・ローブの娘・テレサと結婚した。
当時「西半球で最も影響力のある2つの国際銀行の1つ」
と謳われたクーン・ローブの頭取に就任し、鉄道建設に投資、
ニューヨークのペンシルベニア駅やハドソン川地下横断トンネルなどを建設、
電信会社、ゴム産業、食品加工の分野にも進出した。
日露戦争に際しては日銀副総裁であった高橋是清が外債募集のためアメリカに渡った。
どこも公債を引き受けようとしてくれなかった中、
とある晩餐会で隣席したシフより「日本兵の士気はどのくらい高いか」との質問を受うけ高橋が応答すると、翌朝500万ポンド公債をシフが引き受けてくれた。
1904年5月、お陰で日本は戦時国債を発行することができた。
シフは総額2億ドルの融資をしてくれた。
以後日本は3回にわたって7,200万ポンドの公債を募集。
シフはドイツのユダヤ系銀行やリーマン・ブラザーズなどに呼びかけこれも実現する。
最終的に日本は日露戦争で勝利を収め、シフは一部の人間から「ユダヤの世界支配論」を地で行く存在と見なされるようになった。
日露戦争後の1906年、シフは日本政府に招聘され、3月8日にパシフィック・メイル汽船会社のマンチュリア(満州)号に乗って、3月25日に横浜に到着、グランドホテルに宿泊する。
3月28日に皇居を訪れ、明治天皇より最高勲章の勲一等旭日大綬章を贈られた。
日露戦争前、ロシアは東清鉄道以外にハルビンから旅順へ南下する支線を敷設した。
これを南満州鉄道という。
日露戦争の結果、ロシアはこの支線の長春以南を日本へ譲渡した。
米国セオドア・ルーズベルト大統領が日露講和の調停を果たした理由のひとつに、J・P・モルガン・グループとクーン・ローブ・グループが狙っていた満州での鉄道利権というのがある。
アメリカが旧満州に割り込もうとしたのだ。
そして、1905年9月、鉄道王として知られたユニオン・パシフィック鉄道のエドワード・H・ハリマンがクーン・ローブ・グループの代表として日本を訪れる。
クーン・ローブとはリーマンブラザーズの前身でジェイコブ・シフが代表であった。
彼らの目的は日本政府との間に南満州鉄道の共同経営を成立させることであった。
しかし仮合意までいっていた契約は土壇場で破棄された。
ハリマン率いる米国との共同経営賛成派には、元老の井上馨、国際派財界人の渋沢栄一らがいた。
しかし「血を流して手に入れた満州の権益を米国に売り渡すことはできない」という外相小村寿太郎らの反対で実現に至らなかった。
その後、米国は錦愛鉄道及び南満州鉄道中立化計画で満鉄に揺さぶりをかけ続けた。
南満州鉄道中立化案とはルーズベルト大統領の後を引き継いだタフト大統領が英仏米露日清の6カ国で南満州鉄道を共同管理しようという案である。
1909年10月2日、米国は奉天領事のハリマンの娘婿ストレイトを使って、清国との間に錦愛鉄道借款予備計画の調印に成功した。
この錦愛鉄道というのは、南満州鉄道と平行に走る満州を南北に縦断する総延長1600キロに及ぶ大鉄道計画の事であった。
起点を大連より天津に近い錦州におき、北にチチハルを通り、黒竜江へ出る。
アメリカはこの錦愛鉄道を橋頭堡に満州における利権の日露独占を阻止しようとした。
1909年10月26日、日露はこの米英の鉄道計画の対策を練るため、伊藤博文とココツェフの会談をハルビンにおいて計画した。
そして、伊藤博文は暗殺された。
11月9日、アメリカ国務長官ノックスによる南満州鉄道中立化案が英仏米露日清に提示された。
満州の門戸解放と機会均等を実現するため、列強により満州の鉄道の所有権を買い上げ清国の所有に移し、
それを列強によって共同管理しようという計画であった。
日本が錦愛鉄道予備借款調印に気づいたのは10月21日、伊藤が暗殺される5日前であった。
山座管理官が英国商会ボーリングに会い、それまで噂は知っていたが確実な情報は掴んでいなかった「錦愛鉄道計画」の事を知ったのだ。
錦愛鉄道はその施設ルートから満鉄の西側を平行して走り、あらゆる面で南満州鉄道の競争相手となり満鉄の収益に大きく影響するものであった。
当時英国は京奉鉄道を所有しており、ここに錦愛鉄道が出来ればロシアの東清鉄道と日本の南満州鉄道を経由せずに繋ぐ事ができ、南満州鉄道は必要なくなる。
すなわち南満州鉄道にとっては錦愛鉄道は作られては困る鉄道であった。
また北満州の権益を独占してきたロシアにとっても、錦愛鉄道によって米英の勢力が満州北部に伸びるのは決して喜ばしいことではなかった。
ここに日本とロシアの共同の利益が生まれた。
1909年7月28日の日露協約はこのようなときに結ばれた。
満州において英米の立場の違いが最も顕著に示されたのは、アメリカ大統領ウィリアム・タフトが展開したドル外交であった。
米国は日本の満州権益に対し強硬に挑戦をした。
アメリカのノックス国務長官によって提示された満州鉄道中立化提案に対するイギリスの対応は日本寄りであった。
満州鉄道中立化計画とは「門戸開放」の名の下、
日本の権益である南満州鉄道とロシアの権益である東清鉄道を含む満州における諸鉄道を清が買収できるよう英米を中心に清に資本提供をするという計画のことであった。
この計画には、イギリスのポーリング商会も関与しているなど、商業上の利益があったにもかかわらず、この提案に対して、イギリスは婉曲的に拒否するという回答をした。
1905年、日露戦争での日本の勝利によって、極東における列強間対立の焦点は朝鮮半島から満州へと移行していた。
また、これまでのロシアの南下に対する英米日提携という構図が、変化しつつあった。
イギリスの極東政策は、拡張的な政策を採る同盟国日本、中国市場への進出を目論むアメリカ、復讐戦の可能性が否定できないロシア、そしてナショナリズムが台頭しつつある中国、日米露中各国に平等に向き合うことであった。
満州をめぐる日米関係が悪化した時期、イギリスは自らの中国政策の原則である「門戸開放」の精神に反するような日本の行動を不満ながらも受容した。しかし日本の南満州鉄道株式会社による満州の鉄道権益の独占はイギリスの離日を招いた。
20世紀初頭において、鉄道とは単なる物流機関ではなく、
帝国主義列強が権益を伸張するための手段であり、
戦力を投射するための戦略兵器でもあったからだ。
ポーツマス条約で長春以南の鉄道権益及び満鉄沿線の鉱山権益を獲得した日本は、
児玉源太郎の「戦後満州経営唯一ノ要諦ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装ヒ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ」という考えに基づいて、満鉄を中心とする「満鉄中心主義」をもって満州経営に望んだ。
満鉄とは単なる鉄道事業者ではなく、
鉄道権益や沿線の付属利権を保護し、
満州における日本の産業を拡大させるためのいわば、
拓殖会社として構想されたのである。
こうした構想を背景に、1906年に満鉄が設立され、初代総裁後藤新平が就任した。
後藤新平は大連中心主義ないし連奉線重点主義と呼ばれる方針がとった。
これは、初期の投資を大連港の改修及び連奉線(大連―奉天ルート)の改良に集中し、満州中部と海上交通を結ぶ輸送を独占しようとするものであった。
運賃政策として実施され、大連中心主義の核心となったのが、海港発着特定運賃制度である。
これは、いくつかの貨物について、大連、営口の海港と、奉天以北とを往来する運賃をほぼ均等にしたものである。
営口とは遼東半島の付け根西側に位置する貿易港である。
大連―奉天間の距離は約380km、
営口―奉天間は約190km であり、
この両距離がほぼ同一運賃となったのである。
英米は営口を拠点とする中国商人に依拠していたため、
海港発着特定運賃制度は実質的に、
英米に対して日本人商人を優遇するものであり、
門戸開放の精神に反するものであった。
海港発着特定運賃制度は国籍による差別ではなかったが、
実質的には門戸開放原則に反する差別的な運賃制度であったのである。
日本の鉄道権益独占に対して、欧米の資本家やアメリカ政府は、
満鉄と競争する路線を建設することで対抗しようとした。
これが、いわゆる「満鉄併行線問題」である。
その最初は、1907年、イギリスの貴族院議員フレンチ卿を代表とするポーリング商会と、満州総督唐紹儀との間で進められた「法庫門鉄道計画」であった。