満鉄②
伊藤博文が暗殺される2年半前。
1907年4月、満鉄調査部は後藤新平により作られた。
満鉄調査部は当時日本最大級のシンクタンクで、
当時日本最高級の頭脳が集まっていた。
満鉄調査部スタッフは全員で100名前後。
経済調査、旧慣調査、以外にロシア調査のような国の外交部門のようなこともやっていた。
満鉄には、ロシア帝国から引き継いだ鉄道附属地という、鉄道から両脇幅62メートルの治外法権地域と、駅ごとに設けられた一定面積の附属地があった。
また行政権も与えられ、いわば満鉄は一種の自治区だった。
駅に附属する土地の広さは駅によって異なり、治外法権の特権を持ち、それを管轄するのが満鉄地方部であった。
伊藤博文、井上馨らの元老や第1次桂内閣の首相桂太郎は、戦争のために資金を使いつくした当時の日本に、莫大な経費を要する南満州鉄道を経営していく力があるとは思っていなかった。
そんな1905年8月、アメリカの企業家エドワード・ヘンリー・ハリマンから、南満州鉄道の共同経営の申し出を受けた。
南満洲鉄道の共同運営。
ハリマンは、桂首相や日本の政財界の大物たちと面会した際、日本はロシア帝国から譲渡された南満洲鉄道にアメリカ資本を導入すべきだと主張した。
アメリカが満洲で発言権を持てば、仮にロシアが復讐戦を企ててもこれを制止できると説いた。
1905年9月12日、彼は日本政府に対し1億円の資金提供と引きかえに、韓国の鉄道と南満州鉄道を連結させ、そこでの鉄道・炭坑などに対する共同出資・経営参加を提案した。
日本は鉄道を供出すれば資金を出す必要はなく、所有権については日米対等とはするものの、日露ないし日清の間に戦争が起こった場合は日本の軍事利用を認めるというものであり、満鉄を日米均等の権利をもつシンジケートで経営しようという提案であった。
この提案を、伊藤博文、井上馨、山縣有朋、桂太郎、は承認した。
ハリマン提案が好意的に受け止められた理由は「満州鉄道の運営によって得られる収益はそれほど大きくなく、むしろ日本経済に悪影響を与える」という意見が大蔵省官僚・日銀幹部に大きかったためである。
そして「ロシアが復讐戦を挑んできた場合、日本が単独で応戦するには荷が重すぎる」という井上馨の危惧もあった。
桂はハリマン帰米直前の1905年10月12日、仮契約のかたちで桂・ハリマン協定の予備協定覚書を結んで、本契約は小村が帰国したのち、彼の了解を得てからのこととした。
ポーツマス会議より帰国した小村寿太郎は、ハリマン提案に断固反対した。
ここで重要なのは、児玉源太郎も反対した事であった。
児玉源太郎は満鉄を中心に満州の植民地経営を日本資本中心でと思い描いていた。
台湾での植民地経営の成功体験がある後藤新平も反対であった。
児玉源太郎、後藤新平、は満州も台湾同様、経済発展させる自信があった。
小村寿太郎は表向きは南満洲鉄道の日本への譲渡は清国の同意を前提とするものであり、その点からしても、桂ハリマン協定は不適切だと主張し、1905年10月23日の閣議において桂ハリマン協定の破棄を決定させ、さらにモルガン商会から、より有利な条件での外資導入計画を披露した。
ここで小村寿太郎と共に米国でモルガンと協議したのが玄洋社、杉山茂丸である。
日本政府はアメリカ合衆国の日本領事館に打電し、ハリマンらの船がサンフランシスコの港に到着するとすぐに覚書破棄のメッセージを手交するよう手配し、同地の総領事の上野季三郎が到着したサイベリア号に乗り込んで、覚書中止のメッセージを伝えた。