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伊藤博文暗殺の謎  作者: やまのしか
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後藤新平④・・・内閣鉄道院総裁

後藤新平は初代内閣鉄道院総裁であり、その在位期間は1908年12月5日 - 1911年8月30日であった。

1906年の鉄道国有化のきっかけに鉄道行政は混乱を極めた。

1909年10月26日の伊藤博文暗殺はこのような時期に起こった。


この時期の鉄道は今とは違い国家予算最大の行き先であった。

膨大な予算の行方を巡り、鉄道行政の所管変更や監督組織や現業組織の混乱は、猫の目のように入れ変わり、社会混乱を引き起こした。


このため政府は1908年12月5日、鉄道局と帝国鉄道庁を統合した「内閣鉄道院」を新設し内閣の直属機関とした(第2次桂内閣)


鉄道事業は逓信省外局の鉄道作業局時代多くの法律が作られた。

鉄道敷設法、北海道鉄道敷設法、事業公債条例、などによって運営整備された。


1906年に帝国議会で鉄道国有法及び帝国鉄道会計法が成立し、

1907年3月に勅令の帝国鉄道庁官制が公布され、

1907年4月1日に鉄道作業局を改組した帝国鉄道庁が設置され、帝国鉄道が開業された。


逓信省は、「帝国鉄道庁は民事訴訟に付き国を代表す」、「帝国鉄道庁ニ多度津工場増置」など法規を公布して、土地収用及び路線増設を進めた。


この鉄道の運営には当初から特別会計が設置されていたが(西園寺公望内閣)、

さらに1909年には帝国鉄道会計法の全部改正により資金不足の際は帝国鉄道会計の負担による公債発行、

または他特別会計からの借入れを行いうるようになった(第2次桂内閣)。


1909年度予算によれば、同年の国の歳入予定は、3億2,053万4,132円。

1908年度までの2年間で鉄道建設及び改良費は、  6,268万4,226円、

1909年から1913年までの5年間の支出予定は、 1億 180万6,584円、

年間予算のうちの6%から18%以上を帝国鉄道事業が占めていた。


なお、帝国鉄道の他に、外地であった中国関東州(南満州鉄道)や朝鮮(朝鮮総督府鉄道)の鉄道事業の予算もかかっていた。


初代内閣鉄道院総裁、後藤新平は、この膨大な鉄道予算の利権を握っていた。

総裁官房と総務・運輸・建設・計理の4部、鉄道調査所を指揮下に置いた。


北海道(北海道および青函航路所管・札幌)、

東部(東北線所管・上野)、

中部(東海道線および中央線所管・新橋)、

西部(山陽線・四国および関門・関釜航路所管、神戸)、

九州(九州所管・門司)に鉄道管理局が設置され、

各地の運輸事務所と保線事務所(その後一時廃止され1913年復活)、

工場などを統括した。


このほか関東庁および拓殖局とともに南満州鉄道(満鉄)の監督権も所管し、

同社の鉄道事業に関して監督した。


後藤新平を台湾総督府民政局長(後に民政長官に改称)に任命し、

全面的な信頼をよせて統治を委任したのは児玉源太郎(1852年4月14日- 1906年7月23日)である。


後藤は台湾人を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して鎮圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。


児玉は日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務め、明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた陸軍参謀本部次長の田村怡与造が急死したため、参謀総長・大山巌から特に請われ、内務大臣を辞して参謀本部次長に就任した。


なお、降格人事とならないように、児玉の台湾総督は留任され、日露戦争のために新たに編成された満州軍総参謀長も務めた。


満州軍総参謀長として満州に渡って以降、遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで総司令の大山巌元帥を補佐、また12月初頭には旅順攻囲戦中の第三軍を訪れた。


奉天会戦勝利後の明治38年(1905年)3月、児玉は、明治天皇へ奉天会戦の戦況報告を上奏することを名目に東京へ戻り、政府首脳の意見を早期戦争終結の方向にまとめる活動に着手した。


この時、外交手段をめぐって、政府と元老との間で意見が分かれたが、児玉の調整と周旋でアメリカを仲介役として早期講和をはかることで意見がまとまった。


さらに、児玉は軍事作戦を手段として、講和促進のために、樺太や満州で攻勢作戦をとることを主張し国家方針として認めさせた。


早期講和を目指す児玉の軍事戦略は、満洲での敵野戦軍撃破や韓国北部からロシア軍を撃退するのみならず、樺太、ウラジオストク方面へ攻勢をかけることで、ロシアに痛撃を与えた。

ロシアは講和のテーブルにつかざるをえず、近年では「政治攻勢の一端としての軍事攻勢」として高く評価されている。


ただし、児玉もハルビンやウラジオストク攻略は無理だと諦めていた。

ハルビン攻略には三十七個師団が必要だが、このためには二十四個師団を増設する必要があり、国家財政上難しかった。


児玉は日露戦争後、参謀総長に就任、南満洲鉄道創立委員長も兼務したが、委員長就任10日後1906年7月23日、就寝中に脳溢血で急逝した。

享年55であった。


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