後藤新平③・・・潮汕鉄道(ちょうさん)
1895年の日清戦争以後、日本は中国大陸に対し、商工業の進出をはかると同時に鉄道建設による利権確保を図ろうとしていた。
とりわけ福建省はイギリスの勢力が弱く台湾の対岸にあたるので、中国大陸における日本の鉄道建設計画の最初の目標地になった。
鉄道技師の小川資源は、官命を帯び1899年と1902年に浙江、福建、広東各省の調査を行った。
ちなみに台湾の対岸が福建省、その北が浙江省で、南側が広東省である。
香港、マカオがあるのが広東省で、上海の南側が浙江省である。
廈門は福建省にある。
これにより、浙江省杭州から福建省福州、廈門を経由し広東省広州府に至る「東南海岸幹線」が計画された。
この計画でもっとも利益をあげ得るのは、汕頭‐潮州間の支線であった。
1903年、広東省梅県出身の客家「張煜南」をリーダーとする東南アジア華僑グループが、汕頭‐潮州間鉄路(潮汕鉄道)(ちょうさんてつどう)の敷設権を得た。
張は、台湾籍の阿片商人である「呉理卿」と資金協力の約束を交わした後
「潮汕鉄道公司」を設立し、200万元の資本を募集した。
持ち株の割合は「張煜南」と「謝栄光」が共有で100万元、「呉理卿」と「林麗生」が共有で100万元とされた。
潮汕鉄道とは、
広東省の汕頭と同省潮州を結んでいた全長約42.1kmの鉄道である。
三五公司の愛久澤直哉は阿片貿易の件で呉理卿と相談したとき、この潮汕鉄道の話を知った。
三五公司とは、台湾総督府が中国大陸南部・南洋に経済面での進出を目論む「対岸経営」事業の実行機関として成立させた商社である。
日中合弁企業の形をとるが、実際は国家的色彩の強い機関であり、愛久澤直哉は、この三五公司の首脳者であり、総督府民政長官後藤新平の経済面における顧問として縦横の機略をふるっていた。
1903年12月6日南洋より帰国した「張煜南」の乗る汽船が香港に到着するや、
時を移さず船室内で調印を行った。
愛久澤は契約書を携えて直ちに台湾に渡り後藤新平に報告した。
後藤は「(潮汕鉄道取得の)意外の成功を驚喜する余り、立って該契約書類を拝して、我南清経営の根拠成れりと絶叫された」とされる。
1904年4月愛久澤直哉が建設を請け負い、
5月には台湾総督府が鉄道部技師佐藤謙之助らを派遣し、
測量工作をさせ、8月には実測を完了した。
1906年末、2年余りの工事期間を経て完了した。