後藤新平①・・・廈門事件(あもい)
小満鉄主義の伊藤博文は満州の植民地化は考えてなかった。
満鉄中心に産業育成を夢想していた後藤新平とは水と油であった。
児玉源太郎は台湾総督に就任すると、弱冠42歳の後藤新平を台湾総督府の民政長官に抜擢し、台湾の行政機構の大改革を実施した。
6県、65署の役所を台北、台中、台南の3県、44署に統合簡素化した。
同時に県知事、署長以下の人員整理を断行し、勅任官以下、1,080人の官吏を罷免した。
約17万人いたといわれるアヘン中毒患者の撲滅にも積極的に取り組んだ。
経済政策では、殖産局長に農業経済学および植民地経済学者の新渡戸稲造を迎え、さとうきび栽培などの生産を飛躍的に増大させた。
児玉は台湾総督としての8年間の間に
「西部縦貫鉄道」、
「基隆港築港」、
「通貨・度量衡整備」、
「統計制度確立」、
「台北医学校設立」、
「予防注射強制」、
「下水道整備」、
「衛生状態改善」、
「土地所有の権利確定」、などの諸政策を断行した。
これらの事業経費は約6,000万円。
1898年当時の日本の国家予算が約2億2,000万円だったことを考えれば、いかに膨大な資金を台湾統治のために投入したかがわかる。
児玉・後藤コンビが対岸の福建省に出兵したのが「廈門事件」である。
廈門事件とは、1900年8月24日から9月7日にかけて清国福建省廈門に対し、台湾総督府が陸軍を上陸させようとし未遂に終わった事件である。
このとき廈門出兵に強硬に反対したのが伊藤博文であった。
日本による台湾領有後1902年頃までは、台湾人武装抗日運動「犯」が対岸である中国福建省に逃げこむという状況が続いていた。
総督府は、島内治安維持のため、さらには中国大陸南部地域への影響力をのばすため対岸とりわけ福建省廈門に注目していた。
1900年の義和団事件に乗じて廈門に出兵し軍事的占拠を試みた、しかし、この試みは欧州各国の反感を買った。
国内では伊藤博文が武力による南清進出に強く反対し山県有朋内閣は瓦解した。
以来、児玉・後藤と伊藤の確執は容易に解消できる状態ではなくなった。
廈門出兵が失敗に終わった後、台湾総督児玉源太郎(1898年2月26日~1906年まで在任)と、
民政長官後藤新平(1898年3月2日~1906年まで在任)は、
武力による南清進出から、経済的な対岸経営へと路線変更を行った。
対岸地域、とりわけ福建省へ経済的に影響力拡大を目指すという方針であった。
総督府が、この「対岸経営」の実行機関として1902年(明治35年)福建省廈門にて設立させたのが、
「三五公司」である。