大倉喜八郎②
大倉喜八郎は「昭和通商」前身である「泰平組合」を1908年(明治41年)6月に、
三井物産、大倉商事、高田商会の3社共同出資で設立した。
最初は主に余剰となった軍の旧式小銃・火砲の払い下げを受けて中国・タイ等に輸出する事を目的とした組合であった。
「泰平組合」設立の経緯については、1907年12月、日本陸軍の小火器開発者として有名だった南部麒次郎中将が述べている。
「中国に出張した際に、三井、大倉、高田の三会社が各々独自に競争して兵器を売り込むため、外国に漁夫の利を占められる懸念があった。そこで三会社による兵器売り込みの競争を廃して、三社合同の泰平組合を組織することにした」
第一次大戦ではこの武器シンジケートである「泰平組合」が大活躍した。
連合国イギリス・ロシアへ100万挺を越える小銃を輸出した。
大倉喜八郎が「死の商人」と言われる由縁である。
莫大な収益を得た「泰平組合」は政府御用達商社へと変貌していった。
大倉喜八郎と懇意だった大隈重信は対華21ヶ条要求中に日本製兵器購入を強要する一項を加えた。
これは大倉喜八郎による工作だったといわれている。
これも彼が「政商」といわれてた由縁である。
第一次大戦が終了すると同組合の輸出は伸び悩み、昭和14年4月には高田商会が抜け、航空機・装甲車輌などを製造していた三菱重工を傘下に持つ三菱商事が新たに加入して、名称も「泰平組合」から「昭和通商」へ変更された。
やがて昭和通商は陸軍特務機関となり満州建国のために阿片ビジネスへとのめり込んでいく。
中国熱河省の阿片は昭和通商と甘粕正彦が作り上げた一大利権であった。
満州政界の裏工作資金に役立てられた。
この経歴を見てもわかる通り、大倉喜八郎は明治~昭和の日本の実業界を牽引した立役者の一人であった。
大倉喜八郎は1928年(昭和3年)に亡くなり、大倉商事が敗戦によって満州で失った損失額は、三菱、三井よりもはるかに多かったといわれている。
それでも大成建設をはじめ、大企業をいくつも今日に残している。
朝鮮半島に資産が集中していた日窒コンツェルンにも言えることだが、新興財閥は大陸経営にのめり込んで撤退が遅れがちであった。
大倉コンツェルンも撤退が遅すぎて、戦後三菱三井のようには生き残れなかった財閥の一つであった。
さて、大倉喜八郎のビジネススタイルが岩崎弥太郎や渋沢栄一と大きく違うところは、台湾、朝鮮における鉄道建設を請け負っていたところである。
鉄道建設や鉄道運営は多くの現地労働者を必要とし原住民と太いパイプができる。
晩年の大倉喜八郎が孫文の独立運動や、満蒙独立運動に多額の資金を投資したことは、このような背景に遠因があるような気がする。
大倉喜八の死後ではあるが、1930年代に大倉財閥が設立した大蒙公司は、蒙疆(現在の内モンゴルの中心部)の流通や日蒙間の貿易などを一手に引き受けるにいたる。
自動車輸入や海外支店設立にいち早く着手して“初もの喰い狂”とも呼ばれた喜八郎らしい事業である。
“死の商人”に“初もの喰い狂”
成り上がり者に対する世間の嫉妬が込められているが、喜八郎は著書『致富の鍵』で
『世間から何と言われても自分の思うところは一歩も枉げない(まげない)、知己は百年の後に一人得ればよい』
と残している。
その大倉喜八郎が作ったとされる伊藤博文の銅像が神戸にある。
正確には今残っているのは台座だけであるが、かつての銅像は高さ3メートルもあり、神戸大倉山山頂から神戸港を見下ろしていた。
何故、大倉喜八郎が伊藤博文の銅像を建てたのか?
彼らはそれほどの強い絆で結ばれていたのであろうか?
かつて伊藤博文は1900年、台湾での児玉・後藤の大陸政策に反対した。
義和団事件に乗じ日本が中国福建省を勢力範囲とすべく、
厦門占領のために出兵した「廈門事件」である。
山県内閣は厦門における変事に際して軍隊上陸を想定し、
台湾総督児玉源太郎と民政長官後藤新平は厦門占領を企て、
東本願寺布教所焼失を機とし厦門上陸計画を断行した。
しかしこれを謀略と断定した列国の抗議に直面するや作戦は中止され、
責任をとって山県内閣は総辞職した。
「廈門事件」とは1900年8月24日から9月7日にかけて清国福建省廈門に対し、
台湾総督府が陸軍を上陸させようとし未遂に終わった事件である。
1900年8月ごろ北京天津地域におきていた義和団事件は、列国各軍が北京城内の公使館区域を解放するなどして最終段階にあった。
しかし、これに先立つ7月中旬よりロシアが中国東北地方での主要都市の占拠作戦を開始する一方、上海では、英仏両国が居留民保護を掲げ、陸兵を上陸させるなどしており、中国大陸全体の情勢は義和団事件後の勢力圏拡大競争における勢力争いに移行していた。
台湾を領有していた日本は、かねてより対岸の福建での勢力拡大を狙っていた。
しかし日本政府は廈門への軍隊の派遣に列国がどのような態度をしめすか計りかねており、派遣の口実もつかみかね、行動に出られずにいた。
その中で8月10日に廈門占領を閣議決定する。
そして8月15日に列強によって北京公使館区域が救出され義和団事件の帰趨が見えだしたのちの8月20日、首相山縣有朋は、福建・浙江両省を軍事上も通商上も日本の勢力範囲とする「南進経営」論の意見書を提出していた。
8月24日早朝廈門市市街地の東本願寺布教所が焼失したため、台湾総督児玉源太郎と民政長官後藤新平が治安維持の名目で海軍陸戦隊を上陸させ廈門を軍事占領させようとした。
この放火自体も謀略性の強いものであったとされる。
その後、廈門駐在日本領事からの出兵要請により、台湾駐屯軍事部隊を廈門に向けて出発させた。
この廈門占領は、英国・米国・ドイツの疑惑を呼び各国の領事は強く抗議した。とくに英国はこれに対抗して軍艦より水兵隊を上陸させた。
このことから伊藤博文を首班とする日本政府は、布教所の焼失程度で陸軍の派兵を正当化することはできないと判断して、派兵行動の中止を命じた。
児玉はそれに従い陸兵隊を乗せた輸送船を引き返させた。
海軍陸戦隊も各国領事との協議のもと撤兵した。
列強各国の意図は、日本の福建省への勢力拡大を好ましく思わなかったことと、清国の南方諸総督が南清秩序維持協定を締結して戦闘区域を北清に限定していた状況を保ちたいという意図があった。
一方日本は、義和団事件鎮圧を通じて生じていた列強各国との関係を崩したくないという意図が働いた。
そのため事件の責任の所在は曖昧なままにされ、処罰された者はいなかった。
1906年5月22日、満州問題協議会が開かれ、同協議会には、西園寺公望首相、伊藤博文朝鮮統監、山県有朋枢密院議長、寺内正毅陸相、斉藤実海相、
林薫外相、桂太郎、山本権兵衛、児玉源太郎参謀総長、が出席、後藤新平満鉄総裁を合わせ、かつての廈門事件の人事が満州で再び結びついた。
伊藤博文は「満州は我が国の属地ではない、清国の領土だ」と民政移行を支持、
児玉源太郎と激しく対立した。
1909年、ハルピンで伊藤博文が暗殺された後、大倉喜八郎は大倉山の別荘を公園として市民に開放する条件で神戸市に土地と別荘を寄付した。
当時銅像は神戸港を行き交う船からも見えたそうです。
第2次世界大戦中に銅像本体は金属供出され、台座だけが残っている。
なにやら伊藤博文の供養のような気がするのは私だけか。
暗殺に大倉喜八郎が関与していたと考えるのは飛躍しすぎだろうか。
さて、設立当初の満鉄は欧米からの強い門戸解放要求に晒されていた。
1907年日本はフランスとの間にインドシナのフランスの優越を認め代わりに朝鮮での日本の優越を認めさせる日仏協約を結び、ロシアとの間に第一回日露協約も結んだ。
伊藤博文が1909年10月ハルピンでの対ロシア会談に旅たったのは、時の満鉄総裁後藤新平に米国務長官ノックスによる満鉄中立化案をロシアと共同してはね除けて貰うように頼んだゆえであった。
後藤新平が伊藤博文を接待した東京向島の料亭は大倉喜八郎の別邸「蔵春閣」である。
もう一度言うが、おかしな話である。
伊藤博文は小満鉄主義者である。
小満鉄主義とは国際強調派であり、満州に欧米の資本を呼び込み対ロシアの緩衝地帯にしようと考えていた伊藤博文にとっては満鉄中立化案は悪い話ではない。