中篇
【四】
結局その後、ゆらは一睡もすることなく朝を迎えた。
身体を横にはしていたが、眠ることができなかったのだ。
まだ空が暗いうちに、彼女は寝床から起き上がった。
そのまま、支度を終えると、家の外へと出る。
家の建っている場所が山ということもあり、朝の空気は比較的涼しい。
朝の、爽やかな空気がゆらは好きだった。
東の空が赤く、朝焼けで染まり始めた。
ゆらは、山道の方へ視線を向ける。
ひとつの人影が、家の方へ近づいてきていた。
玖嶄であった。
出て行ったときと同じように、傷一つない姿で、戻ってきたのである。
散歩にでも行っていたかのように、悠々とした足取りだった。
玖嶄も、家の外にいるゆらに気づいたのか、手を振り声をかける。
「どうも、戻りましたよ」
「玖嶄様……!」
ゆらが走り寄る。
その途中で、彼女は、はたと足を止める。近づいたことで、あることに気づいたのだ。
「玖嶄様、血が……」
玖嶄の左肩から頬にかけてが、赤黒く染まっていた。
血糊がべっとりと張り付いているのだ。
「ん、ああ――」自身の首筋に手を当て、付いているものを確認する。「大丈夫。これは返り血ですよ。俺は怪我ひとつしていません」
「ああ、それはよかった……」
「布里原拾坐は死にました」玖嶄が、淡々とした口調で告げる。「まあ、首級を持ってくることも考えたんですが、さすがに若い娘さんに見せるもんじゃあないだろうってことで」
「いえ、疑ったりはしませんが」
「そうですか? 俺が嘘をついているかもしれませんよ」
「嘘をついているのですか?」
「まさか。天地神明に誓って」
「では、信じます」
「うーん……」
玖嶄はバツが悪そうに頬を掻いた。
「顔を拭きましょう」ゆらが言った。「水と手ぬぐいを用意します」
「ありがとうございます」
ゆらが家に向かって歩き出す。
その後ろを玖嶄はついて行った。
「そういえば、青生生魂――俺の探している石は、ありませんでした」
「そうだったんですか」歩きながら、ゆらは答える。「やはり売り払われてしまったのでしょうか」
「どうでしょう。俺は――最初からなかったんじゃないかと思いますが、なにせ、いろいろと聞き出す前に拾坐が死んじまったもんで」
「……玖嶄様が斬ったのではないのですか?」
「残念ながら。これでも活人剣には明るいもので。動けなくしたあとに、『話』をしようと思ったんですが……。その前に、拾坐が〈飴〉を噛んじまいまして」
「飴?」
「奥歯に仕込む、毒のことですよ。忍びが使うものでね」
「忍びが?」
「はい」
「……布里原拾坐は、忍びだったと?」
「ええ。そうでしょう」
いつの間にか、ゆらは歩みを止めていた。
玖嶄も、止まっている。
ふたりの距離は、およそ三間(六メートル弱)。
ゆらが、口を開いた。
「先ほど、石は最初からなかったのでは、そう仰っていましたが――、それはどういうことでしょうか」
「言葉通りです」
「……というと?」
「布里原拾坐は石なんて持っていなかった。否、もっとはっきりいいましょうか。ゆら殿、貴女も、です。最初から、持っていなかったんだ」
「私が、嘘を吐いていたと?」
「そうです」
「なぜ……、私がそんな嘘を吐く必要があるのですか?」
「貴女も忍びでしょう。〈劫牙〉の」
ゆらは振り返った。
ほんの一瞬、玖嶄とゆら、ふたりの視線が交錯した。
ゆらは、自分の肩をつかむ。
――ばさ。
玖嶄の目の前に、布が広がった。
ゆらの着ていた着物である。
一瞬で脱ぎ、目眩ましとして投げつけたのだ。
距離を取るため、一歩後ろに下がった玖嶄。
「おっと――」
そのまま、地面へとしゃがみ込む。
――ひうん。
先ほどまで玖嶄の頭があった位置を、鋭い蹴りが通り抜けた。
数本の髪が、蹴りの勢いに巻き込まれちぎれる。
「危ないなぁ」
体勢を直し、ふたたび、距離を取る。
玖嶄の視線の先には、さきほどまでとは打って変わった様子のゆらがいた。
髪と同じ、夜の空で染めたような黒い忍び装束。
体重を感じさせないような、立ち姿。
怜悧な殺意。
佇まいは、訓練を積んだ忍びの「それ」だ。
彼女は、一瞬で着替え、投げた布の陰に隠れて玖嶄の背後へと飛び、彼の死角から、後ろ回し蹴りを放ったのである。
「いつから――気づいていたんですか?」ゆらが訊いた。
「まあ、〈劫牙〉に俺の目的がバレちまった時点で、こういう搦め手で来ることは予想できやしたからね」
「――――」
「確信を持ったのは、ほら、昨晩、貴女の身体を見せてもらったでしょう」
「……!」
「どんなにうまくごまかそうと、さわりもすれば農民の身体なのか、忍びの身体なのかくらいはわかりますよ。肉や、筋のつきかたがまったく違いますからね」
伊達に女好きじゃありません、と玖嶄は口許を斜めにした。
「それで、どうします?」玖嶄は、肩を竦める。
「どう、とは?」
「このあとですよ。わかってるんでしょう。色仕掛けが失敗した以上、貴女に勝ちの目はありません」
「……やってみなければ、わからないのでは?」
「いやいや、さすがに。その実力差がわからないほどの使い手じゃないでしょう」
「…………」
ゆらは口をつぐむ。
向かい合っての勝負では、玖嶄には敵わない――ゆら自身が一番わかっていたことだ。
正面切った戦いで勝てないからこそ奇策を用いたのである。
「俺に恨みがあるわけじゃないですよね」
「ええ。稼業です」
「だったら、わざわざ死ぬことはないじゃないですか」
「なら、どうしろと」
「逃げれば良い。見逃しますよ」
「貴方が見逃したところで、〈劫牙〉は見逃しません。同じことですよ。敵前逃亡――命に背いた抜け忍がどうなるか、貴方が一番よくわかっているはずですが」
「俺はまだ生きていますがねぇ」
「私は貴方ではありません。逃げられないんですよ。〈劫牙〉からは、死ぬまで」
「そうですか」
「そうです。話は、終わりですか――?」
ゆらは、己の腰のところで水平に佩いている忍者刀に手を伸ばす。
玖嶄は、ため息をついた。
しかたない。そういった様子で。
「死ななきゃ、逃げられない、か――」そして、腰を落として構えた。「じゃあ、殺すしかないですね」
会話は、それで、終わりだった。
ゆらには、ふたりの殺気が空中でぶつかり合い、空気の密度が上がっているかのように感じられた。
気を抜けば、飲まれてしまう。
気圧されぬよう、必死に気力を振り絞る。
相手を観察する。
玖嶄は徒手空拳だ。一見は空手。武器を持っていないように見える。
だが、決めつけるのは早計である。
暗器は、忍者の専売特許と言って良い。
袖に、足に、懐に――どういった武器を隠し持っているのかは、わかったものではない。
距離はまだ遠い。おおよそ二丈(六メートル)と言ったところだ。
玖嶄の素手の間合いは言うに及ばず――ゆらの忍者刀の間合いとしても遠すぎる。
しかし、ふたりは共に忍者である。
ゆらが本気を出せば、瞬きひとつする間に詰められる距離でしかない。
一足跳びで届く程度の距離だ。
で、あるならば。――それは、玖嶄にとっても大した距離ではないことを意味する。
もし、この状態でもわずかに隙を見せようものならば、次の瞬間には自分は殺されているだろう。ゆらは、そう分析した。
玖嶄は動かない。
実力は、玖嶄の方が遙かに上だ。攻めあぐねているというわけではない。ゆらの初動に対応する腹づもりだろう。
後の先を取る気に違いない。
ならば――。
(こちらから仕掛ける)
ゆらは動いた。
右手で、忍者刀を抜く。
玖嶄の視線がそちらを向いた。
それがゆらの狙いであった。
視線誘導。
こちらが武器を抜いたなら、相手はそこへ目を向けざるを得ない。
隙とも言えないようなわずかなゆらぎ。
それで十分だ。
ゆらは、右手で抜刀すると同時に、左手で隠し持っていた手裏剣を投擲していた。
二発。
弧を描き玖嶄に襲いかかる、ふたつの手裏剣。
視線を忍者刀へ向けていたため、玖嶄の反応がほんの一瞬遅れる。
手裏剣を投げた直後、すでにゆらは玖嶄へ向けて走り出していた。
玖嶄は、手裏剣に対応する必要がある。
躱すか、武器を使って弾き飛ばすか。
避けるならば、右か左だ。手裏剣の進行方向である前後や、身動きのできない空中へ飛ぶということはない。
武器を使って手裏剣をはじけば、玖嶄の使う獲物が確認できる。
どちらにせよ、玖嶄の対応後の『一手』。
そこを、忍者刀で追撃する。
しかし、玖嶄の動きは、ゆらの予想とは異なっていた。
彼は、飛んでくる手裏剣に向かって、まっすぐ突き進んできたのである。
「――!」
手裏剣が、玖嶄へ突き刺さる――。
寸前、彼は素早く二回手を動かした。
右へ、左へ。一往復。
左手が元の位置に戻った時、指先には、ゆらが投げた二枚の手裏剣が挟まれていた。
玖嶄は、自らに向かって飛んでくる、高速で回転する手裏剣を、空中で掴んでみせたのだ。
神業。
あまりにも速い左手の動きは、訓練を積んだゆらの目を以てしても、捉えることができなかった。
玖嶄が走りながら近づいてくる。
予想外の行動に、ゆらの迎撃が一瞬遅れる。
次の瞬間には、既に、ゆらの間合いの内側――玖嶄の間合いに入られていた。
玖嶄は忍者刀を握るゆらの手首を掴むと、ぐいと腕を引っ張り広げてみせた。
そして、がら空きになった胸に、そっと掌を置いた。
(速――)
狙いは、彼女の豊かな胸のその奥――心臓だ。
「忍法・仰ぎ蝉――」
玖嶄が、囁くように呟いた。
鈍――――。
瞬間、凄まじい衝撃が、ゆらの心臓を貫いた。
その衝撃は、全身を巡り、そして――。
耐えきれなくなったゆらの身体が、背後へ吹き飛ぶ。
水平に三丈(約九メートル)ほどの距離を吹き飛び、そのまま地面に落ちる。
飛ばされた勢いのまま、しばらくはごろごろと地面を転がっていたが、やがて、回転の勢いが無くなり、力なく、人形のように投げ出された。
動かなくなった。
仰向けでごろりと転がった彼女の瞳に光は無い。
絶命していた。
即死であった。
残心を解いた玖嶄は、首を振った。
ゆらの遺体に近づくと、見開いたままの彼女の瞼を閉じてやる。
すこしの間、足元に横たわる彼女の遺体を見つめていた。
やがて、ゆらの家――もっとも、それも偽装ではあろうが――に置いていた笠を被ると、ゆらの死体を一瞥し、元来た山道を降り始めた。
歩き始めてからは、彼女の死体を振り返ることは一度も無かった。
蝉が鳴き始めた。
山小屋の傍らで、女の死体だけがひとり取り残されていた。