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「おまえが行けよ」
このぞんざいな一言が、弟と交わした最後の言葉になった。
一年前、弟の佳祐は自動車に撥ねられて鬼籍に入った。場所は自宅から徒歩五分圏内のスーパーマーケット。弟を撥ねた車は、今や好事家しか乗っていない旧世紀のガソリン車だった。技術革新のメッカたる中華共同連合では、いよいよ浮遊自動車が実用化されようとしているこの二十二世紀で、アナクロな骨董品に弟は殺されたのだ。
「佳祐さんの親族の方ですね。いいですか、落ち着いて聴いてください──」
深沈とした口ぶりで電話してきた警察官の言葉には、現実感がまるっきり欠けていた。
どこか他人事のようにすら思えた。ようやく実感が湧いてきたのは、葬儀を終えて帰宅し、空っぽになった二段ベッドを見たときだった。
アキラの両親は共働きだった。帰りが遅くなる両親に代わって、買い物などの家事全般はアキラと佳祐が分担する手はずになっていた。この取り決めはアキラが中学生になった頃から始まり、高校へ進学する頃になると、すっかり生活サイクルの一部に組み込まれるほど定着した。その頃、二人は当初の取り決めに少しばかり変更を加えることにした。
これまで二人が等しく分担していた家事を、一人に押しつける。
今日はアキラが、次の日は佳祐が、といった具合に、今まで二人が毎日分担していた家事を一方に押しつけ、それを交代制にすることで二人は合意したのだ。
この改変は、二人にとってなかなかに画期的な大発明だった。こまで毎日一時間ほどを家事に割いていた二人は、一日おきに完全なオフの日を得られるようになった。勉強と部活と家事──かくして、長らく不動だった時間の三権分立に突如として『自由時間』が追加されることになった。
そうして獲得したプライベートな時間を、アキラはもっぱらゲームに費やした。折しも、マイクロマシン技術を使った没入型仮想空間ゲーム〈FDVRG: Fully Dived Virtual Rrality Game〉の黎明期。男子クラスメートたちの話題を根こそぎ掻っさらったVRロボットシミュレーションゲームにアキラはたちまち夢中になった。
それは従来型のロボットアクションゲームであると同時に、精巧なシミュレーションでもあった。あたかもコクピットに乗り込んだかのような手に汗握る臨場感。身体中に襲いかかるG負担。台地を震わせる爆轟。夢にまで見たロボットアニメの世界がそこにあった。
アキラは寝食も忘れてゲームに熱中した。同時に始めた弟よりも、アキラの方がゲーム内での階級は三つも上だった。そして、あの事故の日も、アキラはゲームに潜っていた。
あの日はアキラが家事当番になっていた。視界にたびたび表示される【警告:外部からの衝撃を検知】も無視して、何時間もぶっ通しでプレイしていた。後になって思い返せば、あの警告表示は無精な兄を責っ付いて佳祐が自分の身体を揺すっていたのだろうと察しがつく。そして、リビングのソファに寝転がった自分を起こそうとする弟の姿を想像するたびに、胸が張り裂けそうな思いが込み上げる。
いっこうに現実世界へ帰ってこない兄にしびれを切らした佳祐は、FDVRGの要である補助端末《測定種》を外部から強制的にシャットダウンさせたのだ。
そこで、アキラはぶち切れた。
我を忘れて、憤激のすべてを佳祐にぶちまけた。全き逆ギレ以外の、何ものでもなかった。
悪口雑言の限りを言い尽くし、興奮のピークを過ぎたとき、
「おまえが行けよ」
素っ気なく、そう言い放った。
そして佳祐はそれっきり帰ってこなかった。
本当なら自分が死ぬはずだったのに──自分の身代わりとなって佳祐は死んだ。悔やんでも悔やみきれない痛悔に、アキラは気が狂いそうになりながら自分を責め続けた。
弟の死を境に、アキラのすべては一変した。
一日も欠かしたことのなかった部活は間遠になり、トップクラスだった成績はすっかり零落し、ついに学校へ行くことも止めてしまった。アキラは自室に閉じこもるようになった。そうやって自分の殻に閉じこもることで、崩壊寸前の心をなんとか保つのに必死だった。自ら命を絶とうと思ったことも一度ではなかった。けれどその度に、生理的な恐怖に負けてこの世界に踏みとどまった。そうして後に残るのは、さらに肥大した自己嫌悪だけだった。
俺が死ぬべきだったんだ……俺が殺したんだ……全部、俺が悪いんだ……。
周囲の誰も、慰めこそすれ、アキラを罵ってはくれなかった。いっそ面と向かって糾弾してくれたら、どんなに心が楽になっただろう。まるで呪詛のように、自責の言葉が頭の中にはびこった。
弟の死で変わったのはアキラだけではなかった。喪失感から立ち直れなかった母は、その理由を父親に見いだした。自室の扉を隔てた向こう側では日夜口論が続き、それに半年間耐え続けた父は、ある日忽焉と家を出て行ったきり、二度と帰ってこなかった。母はすっかり塞ぎ込み、二人だけになった家の中には暗澹たる空気が流れ続けた。
「母さん……」
現実世界に帰ってきたアキラは、自室の隣にある母の部屋の扉を手でそっと押し開けた。
「佳祐、頑張って! まだハーフタイムよ。ここから巻き返せるわ。あなたならできる」
《測定種》を装着した母が、ベットに寝そべったまま虚空に手を伸ばして、譫言めいた言葉を叫んでいる。これが今の母の日課だった。できの良い自慢の弟の晴れ舞台──中学サッカー部の県大会。その記録映像をVRで見ることが、今の母にとって最も心安らぐ時間なのだ。ハーフタイムも入れて約百分強、過去に浸ってから夕飯の準備に取りかかる。ここ数年の間で、すっかり習い性となった母のルーティン。ベッドに身を横たえ、涙ぐんだ虚ろな目で天井を見つめる母の姿は、滑稽と嘲笑うにはいささか悲愴的すぎた。けれど、事故以来、自分とは滅多に口をきかない母が過去に耽溺する姿を目にするたびに、アキラの胸に得体の知れない嫌悪感が込み上げるのだった。
「戻るよ、母さん……」
自分を納得させるようにそう呟くと、アキラはそっと扉を閉めた。
それからトイレで用を足し、冷蔵庫からエナジードリンク《クレイジー・ドラゴン 魔神》を引っ掴んで自室へ戻った。念のためにベッドの脇に置いた黒い筐体のスイッチをONにして、身体保全装置のマイクロマシン群を散布し、数分ぶりに身を横たえた。サイドテーブルに置いた種子状の白い補助端末《測定種》を右のこめかみに貼り付ける。そのときテーブルの天板に置かれたデジタル時計と、その横にある写真立てが目に入った。時刻は土曜日の十五時三十一分。あと小一時間もすれば、母は現実に帰ってくるだろう。そして、窓から差し込む陽光で反射した写真立ての中では、亡き弟が白い歯を見せてにこやかにこちらを見つめている。
「ごめんな、佳祐……」
込み上げる自己嫌悪をエナジードリンクで飲み下すと、アキラは現実世界から逃げ出した。視界が急速に光を帯び、意識が途切れた。