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ユカの邸宅は七人に一部屋ずつあてがっても余りあるほど広かった。アキラの寝室は、母屋の最南端にある座敷だった。枯淡な引き戸を開けると、床の間と付書院で構成された一室がそこにあった。縁側には古式ゆかしい日本庭園が広がっており、おぼろな月明かりの下、立派な桜の木が花びらを散らしていた。アキラは戸口に突っ立ったまま、しばらく眼前の典雅な光景を眺めていた。
「いつまでそうしているつもりですか」
卒然と響いた声で、アキラは我に返った。縁側から視線を引っ剥がし室内へ目をやると、そこには畳の上に敷かれた二組の布団があった。
……お? 二組……?
頭の中が疑問符と感嘆符で埋め尽くされたとき、涼やかな声が再び耳に届いた。
「聞こえなかったのですか? 早く扉を閉めてください。この部屋は隙間風が多くて冷えやすいので」
声の発信源を目で追っていくうちに、アキラの目が布団の上でぴたりと止まった。
間違いない……。あれだ……。
先ほどは声に驚いてすっかり見落としていたが、用意された二組の布団のうち片方だけが、まるでネズミを丸呑みした蛇のように歪な形に膨らんでいる。生唾をごくりと飲み下し、息を殺して布団に近づく。そして、ゆっくりと掛け布団に手を伸ばし、それを掴むや勢いよく取っ払った。
「あ…………」
「――ッ⁉」
正体を現した声の主――就寝用の白い着物を羽織ったユカがそこにいた。現場を見つかったいたずらっ子よろしく、ばつが悪そうに目を逸らし、いじけたように唇を尖らせている。
「おまえ、なにやってんだ……」
「見てのとおりです。今宵は私の隣で寝て頂きます」
ぼそぼそと口ごもりながらユカが言った。言い終えてから、この奇異な状況をやおら意識したのか、言い訳がましくさらに付け加えた。
「これも勤めのうちですから。アキラが寝入りを襲われては、陛下の命で遣わされた私の立つ瀬がありませんので。お気遣いは無用ですから」
「いやいや、気遣うだろ……この状況は……」
アキラはつとめて憮然と言い返した。脈拍が早まり、全身から汗が噴き出すのがはっきりとわかるほど、内心は動揺しきっていた。何なら今すぐにでも卒倒しそうなほどに。
テレビドラマや映画などで度々目にしていたベッドシーン。思春期を謳歌する健全な男子たるもの、誰しもが抱く淡い憧憬。艶めいた大人の情景。それはモラトリアムから社会への階梯のようにも感じられ、ともすれば、高校二年生という成長の変遷期を征く健全たる男子――すなわちアキラにとって、眼前で無防備な寝姿をさらけ出す銀髪の少女が通過儀礼の供物のように……
「ご、ごほん……」
いかんいかん……。落ち着け、俺……。目覚めろ、俺の理性……。
アキラは大きく息をついて荒ぶる思念を断ち切ると、可能な限り平静を装いつつ、もう一方の空いた布団へ身を滑り込ませた。
ほどよく蓄積された一日の疲労感と、満たされた胃袋。それに雅な寝室とくれば眠気が襲ってきて当然なのだが、斯様な状況でそんなことは望むべくもなく……果たして、アキラはユカに背を向けたまま、まんじりともせず背後の様子を窺っているのだった。
室内には緩慢とした時間が流れ、ときおり背後から体勢を変える衣擦れの音が聞こえてくる。どうやら寝入りが悪いのは先方も同じらしい。滞留した気まずさに堪えきれなくなったアキラは、場の空気を変えるために何か話しかけようと思いたった。そう決意するまでに数分、そこから何の話題を切り出すべきか勘案するのに更に数分を要した。すでにユカが眠っているかもしれないという不安が湧いたが、背後からはまだ起きている気配が察せられる。意を決して、アキラは声をかけた。
「なぁ……」「あの……」
「…………」「…………」
「ごめん……先に話して」「いえ、私は後でけっこうですので」
寸分違わず同じタイミングで二人の声が被さった。気まずい雰囲気を払拭しようと思ったのに、結局さらに気まずさが増してしまった。二人の間に再び沈黙が訪れ、全身をちくちくと刺すような気恥ずかしさが込み上げる。ユカがそれ以降すっかり口をつぐんでしまったので、やむなくもう一度切り出した。
「そういえばさ、ユカの〈クラス〉って何なんだ? 御側御用取次とかいうんだっけ?」
肩まで被った掛け布団を所在なさげに握りながら、あらかじめ考えておいた最も当たり障りのない話題を口にした。少し間があって、ユカの涼やかな声が返ってきた。
「老臣とミカドの間を取り持つ折衝役です。正確を期すなら、あれは私の〈職業〉であって〈種別〉ではありません」
どこまでも淡々とした口調。感情の抑揚が読み取れない声音。ともすると冷淡にすら思える、つっけんどんな態度。だが、それこそが彼女の常態であるることをアキラはなんとなく理解し始めていた。
「そっか。一般的なRPGでいうところの職業が種別に相当するってわけか。じゃあ、レベル上げとか経験値はどうなってんだ? あの仮想敵とかいうモンスターを倒していくのか?」
「仮想敵を倒すことでも経験値は獲得できますが、それがすべてというわけではありません。職業、種族、国のいかんに関わらず、この世界では何らかの技術を磨けばそれに応じて経験値が与えられます――」
ユカはそこで言葉を切った。やがてアキラの背後で彼女の動く気配がし、先ほどよりも近いところから声が届いた。どうやらこちらに背を向けていた体勢から身を反転させたようだった。
「例えば、延々と草を刈り続けたり、商店を営んで物品を売買するだけでも経験値は得られますし、それに応じてプレイヤーのレベルも上昇します。といっても、そのような仕様ですので、レベルアップに必要な経験値数は一般的なRPGと比較して、かなりシビアに設定されています」
「それならやり込み甲斐がありそうだ。ちなみに、ユカのレベルはどれくらいなんだ?」
「先日ようやく50に到達したところです。現在の最上位プレイヤーのレベルは80台だと聞いています」
アキラは視線を操作してコンソール画面を開いた。プレイヤー情報の項目を確認すると、案の定〈レベル1〉と表示されている。この世界に来てまだ何もしていないという事実を突きつけられた気分だった。
「はぁ……俺なんかまだレベル1だもんなぁ……50になるにはどれくらい時間がかかったんだ?」
「この世界の時間で約二年半を要しました」
「二年半⁉」
思わずおうむ返しながら、アキラは身を翻してユカの方へ向き直った。ユカは布団に横たわったまま、突然の大声に驚いた様子で目をぱちくりとさせている。煌めく青い瞳を見つめながら、アキラは昼間に城で明かされたこの世界の機序について思いを巡らせた。
この世界では時間が約一八〇倍に引き延ばされる。そしてVCO2のサービスが正式に始まったのは、現実時間で今から十一日前に遡る。つまり、サービス開始直後からプレイし始めたと仮定しても、毎日欠かさず十時間は潜り続けないとレベル五十には到達できないということだ。咄嗟にコンソール画面の〈ツール群〉から〈電卓〉を呼び出して計算したアキラは、その結果に面食らった。現実世界で経過した時間で考えれば、ゲームの難易度設定としてはやや高めといった程度だが、この世界での体感時間として二年の歳月を要するというのは、かなりシビアな難易度設定のようにも思える。実際、まだゲームにログインして一日しか経過していないにも関わらず、アキラはすでに一般的なゲームの序盤をクリアしたような感覚を抱いていた。この時間の差異が生み出す奇妙なギャップに慣れるには、もう少し時間がかかりそうだった。
「大丈夫ですよ、アキラなら」
「え……?」
ふいにユカの声がして、アキラは視覚に透過表示された電卓の文字盤から眼前へと焦点を戻した。そして、夢から覚めたように、卒然と目の前に広がった光景を意識してしまう。手を伸ばせば届く距離に、並んで横たわる一人の少女。その薄紅色の唇が再び開いた。
「アキラはどこかゲーム慣れしたような印象を受けます。ワールド2に来てまだ間もないというのに、どこか堂に入った感じがするのです。それに……ミズガルズでは大トカゲを倒して私を守ってくれましたし」
「あぁ、そっか。そんなこともあったな」
まったく上の空でそう返した。目の前の光景を意識すればするほど、まるで実感が無くなっていくような気がした。現実世界では起こり得ない光景。すぐ隣で添い寝する佳人。自分の指摘を受け入れて、従順にも彼女が呼ぶ自分の名。戦場で伏臥しながらも、がむしゃらに戦った自分の姿を彼女が見ていたという事実。思わず意識してしまったそれらすべてが、意識した途端に現実味を失っていった。それこそ、これら全てが夢なのではないかと思えるくらいに。
だって……現実の俺は、最低で、どうしようもなくって、本当にクソったれで……
弟一人守れないような、ちっぽけなクズ野郎だから……
「──キラ? アキラ? どうされましたか?」
「あぁ、なんでもない。ちょっとぼーっとしてた」
我に返ると、ユカが怪訝そうな顔でじっとこちらを覗き込んでいた。
「日が昇ればクエストが始まります。それまで体を休めておいてください。朝になったら私が起こしますから」
「あぁ、そうさせてもらうよ」
反射的に口からつい出た言葉とは裏腹に、意識は現実へと向かっていた。意図せず思い出してしまった現実世界。帰るべき世界。けれど、帰りたくない世界。この世界で一日を過ごして、意識の奥底へとしまい込んでいたそれを、ふと思い出してしまった。
「アキラ?」
鬱々とした気分が表情に出ていたのか、ユカが不安げな様子で再び問いかけた。
アキラは布団から身を起こして、宥めるような口調で言った。
「俺、あっち《リアル》に用事思い出したから、一度出てくるよ。クエストまでには戻るから。べつに体調が悪いとかじゃないから心配しなくていい。俺の、個人的な問題だから」
そう言って、視線操作で〈ログアウト〉項目を探していると、寝間着の袖がくいと引っ張られた。ふと傍らに目をやると、ユカの白い手が遠慮がちにアキラの袖へと伸びていた。
「あの……ありがとう……ございました。昨日は助けて下さって……」
「いいよ、そんなの。それに……俺の方こそ、悪かったな。俺のせいでレギンレイヴに目をつけられることになっちまって」
「いえ、あれは先ほども言ったとおり、私の信条に依るものですからアキラは謝らないでください。……それに、私の方こそ、不躾な態度を取ってしまってごめんなさい。……たしかに、アキラの言う通りだと思います。私には初心者に対する配慮が欠けていました。アキラに感謝の言葉を言われるまで、そんな当たり前のことにも気付けなかった……」
「そんなこと言ったら、俺だって同じだよ。ついさっきまで、ユカに庇ってもらった礼を言うのを忘れてた。ホントなら最初に言っとくべきだったのに」
ユカは弱々しく袖口を掴んだまま、悄然と目を伏せた。
「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」
言い置いて、ログアウト画面を開いたとき、再び袖口がぐいと引っ張られた。
「日が昇る頃にはクエストが始まります。忘れないでください。あちら側の一分が、こちらの三時間に相当します。……それから、約束してください。私たちの前から勝手に居なくなったりしないと……」
ユカが半身を起こした状態で、じっとアキラを見据えた。その表情はいつになく神妙で、なにか言い知れぬ緊迫感が漂っていた。コアプレイヤーが忽然とログインを断つのはオンラインゲームの世界ではままあることだ。ユカもおそらくそれを憂慮しているのだろう。ゲーム歴の長いアキラにはそれが何となくわかった。
だから、彼女の不安を宥めるよう、にこやかに応じた。
「わかった、約束する。必ず時間までには帰ってくる」
ユカの顔が一瞬だけ華やいだ。それは表情を崩さない彼女が見せた、初めての空隙だった。
そして、柔らかに微笑んで頷いた。
「いってらっしゃい」
【本当にゲームを終了しますか?】【Yes/No】
視界に浮かんだウィンドウへ焦点を合わせ、最終確認に同意する。
表示画面が【システムを終了中】へと切り替わると、視界は急速に光を失っていく。
無窮の暗闇の中へ、アキラの意識は溶暗した。