6(3月9日・土)
「あら、いらっしゃい」
彼女の母親と重ならないように時間調整したつもりだったが、玄関先で鉢合わせした。
「あの、おじゃまします」
彼女の母はウチの母のような無粋なことは何も言わない。
「手羽先の美味しゅう炊いてあるけん。食べて行ってくれんね。じゃあ由美子、十時やけんね」
「はあい」
奥で答える彼女は投げやりな声だ。
居間――というかひとつきりの部屋へ入ると、彼女は小さなちゃぶ台に皿と料理を並べていた。その部屋はウチと比べればウサギ小屋の狭さだったが、あらゆるものは整然と存在していて、ティッシュの箱ひとつ取ってもあるべき場所にきちんとおさめられていた。広いだけで散らかり放題の自分の家を思えば、ここには心が落ち着く生活感があった。
「関口君、明太子好きやったよね。これね、お母さんが自分で漬けたヤツやけん。食べて」
「ああ……」
ありがとうと言う言葉も聞かず、それでも彼女はいそいそとキッチンでご飯をよそっている。
「いただきます……」
もう何回目の田口家の食卓で、俺は黙々と箸と口を動かす。店を出すだけのことはあり、料理はいつも絶品だ。ニンニク醤油の風味で炊かれた鶏の手羽先は箸で簡単に骨が外れ、ご飯が進んだ。いつものモツ煮は言うまでもなく、自家製明太子はピリッと辛さの効いたつけ汁がしっかりと全体に回り、それはお代わりを誘う。自分がご飯のお代わりをするなどここに来るまで思いもしなかったが、不思議と違和感はなく、むしろ心は安らいだ。
――「男と女ってのはね、一緒に食事した時から始まるのよ」
それはいつか聞いた母の戯言だったが、そんな言葉に構わず、俺は食事に集中するだけだった。この十年間飢えていた本物の食事にありつけたという事実がそうさせていた。
母が水商売の世界に戻ったのは俺が小学生になって間もない頃だった。公務員だった父はやんわりと反対していたようだが、母は訊く耳を持たなかった。それからだ、食卓に出来合いの総菜が並び始めるようになったのは。
不意に彼女が言う。
「ねえ関口君、クラス替えってどうなると思う?」
試験勉強中に居眠りしていた彼女に真実を告げるのは難しかった。
「俺は……前の学校のカリキュラムが進んでたからAクラス入りだとは思うけど」
「そうやんねえ。じゃあ、私ってどうかな」
答えにくいことを平然と言う。
「運じゃないか。クラス編成って教師の気まぐれもあるし」
「へえ。じゃあさ、また一緒のクラスになれるかもね」
その問いには答えられなかった。何か答えればボロの出る可能性ばかりだ。
話をそらすためだけに俺は続ける。
「放送部っていうのは、三年になっても続けるのか」
「うん、するよ。今年の秋の大会は顧問も力ば入れとるけん」
放送部の大会。なかなか想像が膨らまないが、話題変更は上手くいった。
「三年かあ……。なんかあっという間やったなあ」
彼女はテーブルの皿を重ねながらポツリとこぼした。
洗い物を終えた彼女が当たり前のように紅茶のカップを運んでくる。俺をそれをやはり当たり前の顔で口へ運ぶ。初体験だった様々なことが、どれもこれも当然に変わってゆく。それを自然に受け入れてしまっている自分が不思議だった。
お茶の時間が終わると、彼女はまた音楽の話を始めた。
「でね、その那由多さんに生で唄うてもろうてさ! それがすごか迫力でさ!」
話の見えない俺が言えることは限られている。
「その……ヒュウガさんはどんな歌を唄うんだ」
「あのね、恋の歌……かな」
まあ、若い女性アーティストなら大抵そうだろうと俺は紅茶を啜る。
彼女は夢見る顔で続ける。
「でもね、すっごい淋しか歌さ。恋の歌けどハッピーエンドじゃない感じで」
ふん、と俺は鼻息だけで答えたが、その流れに乗っかって訊ねたいことはあった。
「田口は、なんていうか……理想の恋愛とかあるのか」
言ったあとに自分の首を絞めたような質問だった。
しかし彼女は数秒天井の角を見つめる目になって、
「別れ、かな。キレイな別れ。それが出来たら最高の恋じゃなかかなって思う」
どこか大人びた言葉を呟き、しかし相変わらず夢見る瞳で頬杖をついていた。