5(3月9日・土)
その頃は土曜日も昼まで授業があり、遅刻寸前の由美子が教室へ駆け込むとチャイムが鳴った。ホームルームの話題はすでに来週に控えた三年生の卒業式と春休みの注意事項と新学期へ向けての補助教材の購入のことだけだった。
高校三年。目に見えない重みが身体を包む。それは新しい希望を指し示す羅針盤になり得るだろうか。それとも待ち受けているのはただただ受験へ向けた勉強ばかりなのだろうか。昨夜のブランデーの残った頭には、どちらも意味を示さなかった。
珍しく女子の集団四人が声をかけてきたのは四時間目の終わりだった。後ろから二列目の机までやって来ると俺を囲み、
「関口君てさ、田口さんとつき合いようと?」
妙に媚びたような顔の生月耀子が甘えた声で訊ねてくる。
しばらく考えたが、面倒臭いので、
「ああ」
とだけ答えた。すると、「きゃあ」と彼女らは盛り上がり、そのまま廊下へ出て行った。どうせもうじき春休み。それが終わればクラス替えだ。そう答えたことでたいした不都合もないだろう。
いつものように靴箱の前で待つ彼女は不機嫌だった。生月耀子のグループはその足で彼女の下へ向かったのだろう。
「そういうこと、勝手に言わんで」
郵便局の前で合流すると、まずは彼女が言った。
「悪い。答えるのが面倒臭かったんだ」
「そういう返事も傷つくなあ」
じゃあ、どう答えればよかったというのだろう。女心というのは、もしかするとこの世でいちばん理解に苦しむものだ。
それでも那珂川を見渡す頃には機嫌も直っていて、
「じゃあ、三時になったらウチに来て。遅かけどお昼ご飯、作っとくけん」
素直な手のひらが左右に振られると制服姿が中州方面へと消えた。
マンションへ帰ると、母は起きていた。ただしリビングのソファーにだらしなく寝そべり、テレビがやかましかった。俺は「ただいま」より先にリモコンで音を絞る。
「アンタ、試験の結果は?」
あくび混じりに起き上がると、母はまず訊ねてきた。
「言ったろ。クラス編成のための試験だって。それより俺、すぐに出るから」
そこへ女の勘なのか母親の勘なのか、
「アンタ、よそ様の女の子に変なことしないでちょうだいね」
余計な釘を刺された。
「しないよ、そんなこと。それより自分こそ夜中に知らない男連れ込むような真似、もうやめてくれよな」
「アレはお客さんよ。子供はそういうこと気にしなくていいから」
そして五百円硬貨をテーブルに置くとバスルームへ向かっていた。父からの慰謝料を頭金に買ったマンションは商業ビルの隙間に建ち、中州より天神に近い。
俺は制服を着替えるとジーンズに足を通し、コートを羽織ると外へ出た。三月の博多は寒の戻りというヤツか、冷え込む日が続いていた。その寒風を切り裂くように自転車を走らせる。昼間の中州中央通は閑散としていて、落ち葉が道の端で風にかき回されている。彼女の言うヒュウガナユタは、本当にこんな所で唄っているのだろうか。何が面白くてそんな真似をしているのだろうと、そういう意味で少しだけ興味が湧いていた。