45(10月20日・日)
日曜の昼下がり、そろそろ尾崎の四枚目を入手しようと思って来てみれば、ラシャイビルの六階は人だかりができていた。人垣から覗き込んでみると、取ってつけたような簡素なステージの上には『日向那由多 インストアライブ』の文字が見えた。インストア……要するに店内ライブなのだろうが素人の演芸でも始まりそうな簡素なステージに不憫になった。
彼女の曲は嫌いじゃないが、わざわざ見ようとも思わない。それにこんなイベントを由美子が見逃すはずがなかった。今は訳あって顔を合わせたくない。
目当てのCD『街路樹』を手にしたが、CDプレーヤーのない俺がこれを聴くには彼女と顔を合わせなければならないということにようやく気付いた。俺はバカかと言いたかった。小遣いのキープで安いCDプレーヤーを買う手もあるが――。
俺は意を決して中州中央に足を向けた。CDとカセットテープを手にして。
「すみません、お忙しいところだとは思ったんですが」
時刻は午後五時。居酒屋がんにゃはシャッターを下ろして彼女の母が煮物を作っていた。
「よかとよ。ウチは十時開店やけん。そいで、そのCDば録音すればよかとかね。オバちゃんだ分からんけん、これごと貸そうかいね」
「ありがとうございます」
カウンターへ上げられたラジカセを丁寧にこちらへ向けて、CDのパッケージを剥がし、カセットテープを用意して、一曲目から録音を開始した。音量は落とした。それでも、尾崎の絞り出すような声が店内に流れる。
「由美子には頼めんかったったいね」
俺は口ごもり、無言で置かれたビールジョッキを一気に空けた。彼女の母は薄らと微笑み、次を注いでまな板の前へ戻った。
「その……今までよくしてくださって、ありがとうございます」
「なあんも。ウチこそアレが世話になってばっかりで。毎日朝からアンタの話ばっかい聞いとったよ」
俺は彼女の母に甘えて私服の下の煙草を取り出す。ライターの炎を一気に吸い込むと頭がくらんだ。
クツクツと煮える鍋の音と、温かい蒸気が店に馴染む。馴染まないのは尾崎のCDだけだ。A面が終わり、B面に入れ替え、録音を始める。珍しい、九曲入りのアルバムだった。
「由美子さんに、よろしく伝えて頂けますか……」
自分でも驚くようなか細い声だった。
「直に言えばよかとたい。それとも、もう会えんとね」
俺は煙草をもみ消し、二杯目のビールを飲み干し、そして答えた。
「明日から、もう博多にはいません。母と一緒に、今夜ここを出ます」
夜逃げだった。詳しいことは教えてもらえないが、家賃の支払いが焦げ付いたか何かだろう。そんなことはお見通しの背中で、彼女の母はまな板に向かう。そして不意に、
「デジャブーとか言うたかいね。アンタのお母さんとこは」
今まで一度も母の話などしていないのにと、驚愕した。
「ちょっとお金遣いの荒かったけんね。有名かったとばい。いつも息子の自慢ばっかいらしかったよ」
母が俺を自慢……ちょっとやそっとでは信じられなかった。が、今はそんな話をしている場合じゃない。
「母はきっと反対だったでしょうが、俺は由美子さんと同じ大学に行くのが夢でした。もう叶わない夢になりましたが……それでも……」
人前で泣くなど子供の頃以来だった。
散々泣いたあと、割烹着の背中が振り向いた。
「由美子には何も言わんよ。だけん、アンタも身体に気ぃつけんしゃい。自分で稼ぐごとなったら、またここに来ればよか。思い出話でもしようたい」
CDが終わりを告げた。それをケースに収め、最後にひと言だけ言った。
「これは由美子さんにあげてください」




