1(1991年・3月3日・日)
よろしくお願いします。
1(1991年・3月3日・日)
四畳半の木造アパートで、俺は由美子の寝顔を見ている。今日は誰とかのライブで天神に行っていたらしい。そしてノートを開いて一時もせず、
――「ちょっと休憩!」
と言ったかと思うとスヤスヤ寝息を立て始めて一時間。無防備な格好でクッションへ横たわっている。隙間風が冷たい三月の頭だが、彼女はまったく気にしていない様子だ。
「田口さん……」
声をかけるがピクリともしない。息を飲みながら前髪をそっと避けると、まだ中学生のようなあどけない顔が晒される。
胸がトクンと疼く。こうもぐっすり寝られるとこちらの方が手出し出来なくなる。それよりも二年の復習はどこへいったのやらだ。明日は成績を上下しないけれどクラス替えに繋がる大事な試験なのに。
「田口さん。田口さんてば。俺もう帰るから」
腫れ物に触れるように揺すった彼女の肩は思ったまま細かった。
「あ……ああ。関口君、まだおったと?」
眠りの国から帰ってきた第一声にしては冷たすぎる言葉だ。家へ誘ったのは彼女の方なのだから。
「さっき電話鳴ってたのに起きないから」
すると彼女は飛び起きて、
「ホント! いつ!」
電話へと這いよる。そしてすかさずダイヤルを回した。
「お母さん? 電話した? ホントに! 那由多さん見えらしとると? 行く! すぐ行くけん!」
彼女の母親は中州の居酒屋店主だ。俺の母親も似たようなもので、でなければ午後十一時の夜中に高校生の男女が一緒の部屋にいられるはずもない。
「関口君、ゴメン。私お店に行ってくるけん」
放り出された俺は複雑な心境で、
「今から? もう十一時だぜ」
しかし彼女はよほどの急用なのか、カーディガンを羽織ってすでに玄関へ向かっている。
「大丈夫、すぐやけん!」
口調で俺を急かした。俺は教科書とノートをカバンに詰めて帰り支度をする。こうして夜中まで一緒にいるのはもう何十回目だろう。お互いに片親で水商売をしていている、その安心感がこの空間にいることを許していた。
「今から中州行くんだろ」
すると心から嬉しそうな顔で、
「うん。関口君も行かん? すごか人の来とらすばい」
「いや……俺はそろそろ母親が帰るかも知れないから」
「ホント? もったいなか。プロのミュージシャンの来とらすとに」
ミュージシャンか……興味はない。なので、
「俺はいい。じゃあまた」
崩れ落ちそうなほど錆びた階段を先に下りると、吹きつける風に手袋をはめ、自転車で十分の家路を辿る。
田口由美子と、学校で話すことはほとんどなくなっていた。彼女が初めて家に呼んだ日からだ。
少し田舎臭いが可愛らしい子だと思ったし、その明るさにほだされたというか負けた。
――「関口君、一緒に帰らん?」
十月の夕暮れ、そう言った顔に他意はなさそうだった。が、
――「俺、こっちだから」
角を曲がる俺に、
――「よかたい。家に来んね。誰もおらんけん」
意外と強引に自転車のハンドルを握った。東京にいた時は変わり者の烙印を押されていた俺に、初めて積極的に絡んできたのが由美子だった。ただ、今も呼び名はお互いに苗字だ。そのよそよそしさが手伝い、俺と彼女は恋仲ではない。特になろうとも思っていなかった。