前篇
これは、悪い魔女を打ち倒した英雄王が作った国の、最後の王子様のお話。
――この国の王太子は、八歳になったその日に、地下牢の魔女に会わねばならない。
「王太子殿下、あれが我が国の魔女です」
恐る恐る指し示された方向を見ると、鉄格子の向こうで白銀の髪の少女が見えた。
真っ黒な絹のドレスが冷たい石畳の上に広がっている。喪に服す色が、ほっそりとした背中の白さをより際立たせていた。年はせいぜい十七、八くらいではないだろうか。息を呑んで、思わずつぶやく。
「あれが魔女……?」
王城に隠された地下、蝋燭の明かりだけが頼りの薄暗いその場所で、彼女の白い横顔が光のように淡く、美しく見えた。どんな恐ろしい化け物に会わねばならないのかと、この日に脅えていたのに、拍子抜けしてしまう。
「まどわされぬよう、王子。この国ができて千年近く、未だ姿変わらず生きながらえている恐ろしい女です」
「わ――わかっている」
「では、挨拶を。それが王太子の役目です」
この地下の警備をしている近衛隊長にそう背を押され、踏み出す。こつりと響いた靴音に、魔女が振り向
いた。
とろりと、その紫の瞳が微笑む。
「こんにちは。あなたが新しい王子様?」
その声は鈴の音のように柔らかく、心地よかった。聞き惚れてしまったことにすぐ我に返る。
「そ、そうだ。ぼくが、この国の次の王だ。お前が魔女だな」
「そう呼ばれておりますわ」
そう言って魔女は鉄格子ごしに自分に向き直り、黒のドレスの裾をととのえる。その足首からのびる、魔女をとらえるまじないの鎖を隠すように。それだけの仕草がどの国の姫よりも令嬢よりも、美しい。
(だ、だめだ。こいつは、魔女なんだ)
千年前、この土地を支配していた恐ろしい女。英雄王と呼ばれる祖先に敗北し、みっともなく命乞いをした。そして贖罪としてこの地下牢から、膨大な魔力を国に巡らせている魔女。この国の要。
決してほだされてはならない。そうきつく父から言いつけられたことを思い出した。
(魔女にほだされないことが、王のあかし。この国の王は、王位を継承する際にこの牢の鍵も継ぐのだから……)
英雄王が作った魔女を閉じ込める強固な檻。その檻の鍵は、英雄王の血を引き、その力を継ぐ王にしか開けられない。
魔女を外に出せば、また多くの人が殺められる。だが魔女は、その美しい笑みで、赤い紅で、大勢の人間を魅了する。
だから魔女の魅力に屈するような者は、王になれない。王太子が魔女に引き合わされるのは、魔女に惑わされないか、その資質をためすためだ。
ここでこの女に見惚れたとでも思われたら、自分は失格になってしまう。
そう、魔女は誘惑すれば勝ちだとわかっているのだ。だからこんなに優しく微笑むに違いない。
「お名前は?」
「……父上に魔女に名前を知られてはならないと言われている。呪われてしまうからと」
「……そうですね」
ほんの少し淋しく微笑んで見せるのもきっと罠だ。
ぐっと拳を握り、鉄格子越しの魔女を睨めつける。
「そういうお前の名前は?」
「――私の名前など、王子様にはお耳汚しでしょう」
やんわりとした拒絶にむっとした。だがそれはおかしい気がして、ふいと目をそらす。牢の中に自然と目がいった。
簡素な寝台。冷たい石畳の上に、魔女は直接腰を下ろしている。思わず、尋ねた。
「……寒く、ないのか?」
「え?」
「ひ、冷えるだろう、そんな石畳の上に……裸足で。ここは暖炉もない」
しかも魔女がまとっているのは、白い肌から滑り落ちそうな漆黒の薄い絹、一枚きり。
魔女を見ないよう視線をうろうろ動かしたせいで、色んなことが気になってしまう。
「寝台も、毛布一つないではないか。その……魔女も、風邪くらいひくのではないか?」
「……」
「お前が風邪をひいたら、この国に巡る魔力はどうなる」
決して心配などしているわけではないと主張したのに、魔女はきょとんとしたあとに、笑い出した。
かあっと頭に血が上った。
「無礼な! なぜ笑う」
「いえ……いえ、とても優しい方だと思って」
「優しいだと!?」
「大丈夫です、王子様。私は人間ではないもの」
そっと魔女が鉄格子に指を伸ばした。その指が、頬に触れる。心臓がつかまれたように息ができなくなった。
(あたたかい)
生きている者の体温だ。どれくらい久しぶりに、それを感じたのだろうか。
「有り難う御座います、優しい王子様。あなたはきっとよい王になるわ」
その時、喉から手が出るほど欲しかったその言葉が、よりにもよって魔女から発せられたのは、運命だったのかどうか。
王子には腹違いの弟がいた。生まれたばかりの幼い弟を父親はとてもかわいがっている。愛する女の子どもだからだ。王子の母親とは政略結婚で、弟の母親と一度は引き裂かれたらしい。だが母親が死んですぐ父親は後妻として弟の母親を迎え、弟が生まれ、そのせいで自分は居場所がなくなっていた。
それでも自分は王太子だ。だがそれも、弟を父親が溺愛しているためにあやしくなってきているのだと、幼いながらに理解していた。自分には王太子であることくらいしか、すがれることがないのに。
(お母様が生きていてくださったら)
優しくて、はかない人だった。大好きだった。だから新しい母親を本当の母親だと思って甘えろなんて言われても、できない。でも父親はそれが気に入らないらしい。
ゆっくりと頬から頭をなでられる。祝福のように。
「でも仰るとおり、ここはとても寒いです。風邪をお召しになってはいけません。早くお帰りにならないと」
「……」
まるで母親のような優しい言葉に、唇を噛み、突き放すように一歩、鉄格子から下がった。
きびすを返そうとして、魔女をにらむ。
「またくる。魔女には監視が必要だ」
「……」
「お、お前を監視するのは、王太子の僕の仕事だ」
きょとんとしたあとで、魔女はふんわり微笑んだ。
「お待ちしておりますわ」
その言葉を聞いてから、王子は初めてきづいた。
この城で、自分を待つ者は、魔女しかいない。
それから週に一度、王子は必ず顔を出すようにした。
傲慢な物言いにも、わがままにも、いつも魔女はふわりと笑う。一度くらい怒ってみろと怒ってみたこともあったが、笑って返された。そのたびに子どもだと思い知らされる。
自分が快適なように、地下牢には色々な物を運び込んだ。石畳の上に敷く絨毯に、クッション。自分だけが使っているのは居心地が悪いと、魔女の分も鉄格子の隙間からぎゅうぎゅう押し込んだ。こう薄暗くては本も読めないと、簡単なかまどまで自作した。あろうことか魔女は埃まみれになってレンガを運び込む王子の姿に笑いをこらえていた。腹が立ったが、魔女と一緒にかまどを設計している時間は、とても楽しかった。
魔女めと言いながら、彼女の元へ通うのが何故か自覚したのは、季節がいくつすぎた頃だっただろうか。
「――まあ、今日はお誕生日ですの? こんなところへいらしていて大丈夫ですか?」
「いいんだ。弟も同じ誕生日だし」
「第二王子様もですか。でしたらなおさら、盛大なお祝いがされているのでは」
「今、この王城で誕生日を祝われているのは弟だ。俺じゃない。……俺の方は母方の実家の屋敷で、移動も面倒だ」
淡々と事実を述べただけのつもりだったが、魔女は口をつぐんでしまった。
弟を王太子に推す勢力は日に日に強まっていた。だが第一王子であり王太子である自分の母親の実家は公爵家で、弟の母方よりも力がある。いくら現国王の父親が望んでも、そう簡単にはいかない。
だからその確執は、こんな形で現れる。
「去年までは俺も一緒に祝われていたが、この間父上の政策に反対したのがまずかったんだろうな」
「……」
「つまり俺は邪魔者。母方の実家に戻っても、婚約者だなんだとうるさい親戚がいるだけだ。ここで本を読んでいた方がましだ」
そう言って、鉄格子の前に敷いた絨毯の上に寝転がる。本を開こうとしたその時、声が聞こえた。
「……王子様」
「なんだ?」
目を向けると、鉄格子の向こうで魔女が人差し指を唇の前で立てた。その長い睫が伏せられ、水をすくうように合わせた両手が光る。
ぽんと音を立てて、小さな白の花束が出てきた。
驚いて上半身を起こすと、魔女は小さなその花束を鉄格子の隙間から差し出す。
「お誕生日おめでとうございます」
「……今のは……魔法か?」
「ええ。内緒にしてくださいね。私は、この国のためにしか魔力を使ってはいけないのですから。――でもあなたは、この国の王になる方ですもの」
はにかむ魔女が差し出した花束を受け取る。綿菓子のように軽いそれは、鈴蘭。
「王子様。あなたに幸福が訪れますように」
魔女の祈りなんて馬鹿げている。そう思ったが、いつもの憎まれ口は出てこなかった。
そのかわり、何気ない感想が出てくる。
「……花というものは、普通男が女性に贈るものだろうに」
「え? そうですの?」
きょとんと見返され、呆れた。
「世間知らずだな。俺より年上なのに」
「ご、ごめんなさい……私、花が好きなものだから、よろこんでもらおうと思って」
「花が好きなのか」
初めて知った。魔女は王子の罪悪感など知らずに、穏やかに頷く。
「花畑を歩くのが好きでした」
「……やっぱり君は、魔女なんだな。こんな魔法が使えるなんて」
「ええ。私、とても怖い怖い魔女ですのよ。油断なさらない方がよろしいですわ、王子様」
慈愛に満ちた瞳で、魔女が脅しをかけてくる。
失笑して肩をすくめた。
「まったく怖くないな」
「まあ。失礼ですわね」
「――君の誕生日はいつだ」
小さな白い花を見つめながら尋ねると、魔女はやっぱり笑った。
「忘れてしまいましたわ。なにせ、もう千年以上生きているんですもの」
「そうか。なら、俺が決めてやる」
「え?」
花束から一本だけスズランを引き抜き、その横髪に挿した。白銀の髪に、白の鈴蘭。彼女の世界は白と黒ばかり。きっと彼女になら、どんな色の花も似合うのに。
閉じ込められ、地下牢に閉じ込められる魔女。
彼女が花畑を歩く日はこない。この国の王が、彼女を解放しない限り。
「……もし、弟が王太子になったら。来年、弟が君に会いにくるんだな」
「ええ、そうですわね」
「弟にも……君は、そうやって優しく微笑むんだろうな」
「王子様?」
そんなことをつぶやいたのは、どうしてだったのか。もらったばかりの鈴蘭を握りつぶしてしまったのは何故か。
(花畑を歩く君は、きっと綺麗だ)
矜持だけで興味のなかったはずの王位を欲した理由は、ただそれだけだった。