レイニーナイト・ハスラー
『秋冬温まる話企画』に投稿しようとしましたが、「これ温まらねぇな」と思ってボツにした作品です。
※BLではありません
21時から大雨の予報。現在19時40分、雨雲は予報より早く東京に到着したようだった。
「おつかれ」
「お疲れ様です」
俺はこの後輩と一緒に上がる。入社2年目の後輩、世那は仕事が特別出来るわけでも、特別知識が多いわけでもない。容姿も特にこれといった印象はなく、『フツメン』と呼ばれるヤツ。家族にとって誇れるところと言ったら大手通信会社に入れたことだろうか。ただ、世那は男女問わず社内の人間を泣かせていた。今日は世那が原因で休んでいる女社員の穴埋めで2人で残業していた。
「俺も帰るわ」
俺は世那がバッグを漁る音を聞きながら帰り支度を始める。電車は大丈夫だろうか、とスマホで時刻表を確認していたところに「柊さん」と声を掛けられた。
「乗って行きますか?」
世那がキーを指先で弄りながら笑った。センチメンタルな少年声は、最近名前を聞く声優を思わせた。
会社の駐車場に行くと車が1台停まっていた。よくCMで見る軽自動車だ。
「ハスラー?」
「はい、社会人になったら絶対ハスラー乗りたいって思ってたんです。キャッシュは無理でしたけど」
「ローン終わるの何歳だよ?」
「えーとぉ…29です」
「頑張れ」
このハスラーはほぼ毎日会社に出入りしていた。誰かアウトドア好きな女性社員の車かなと思ってたらコイツのだったのか。軽自動車に目をつけるあたり変わってるな、とも思ったが、コイツは世間に流されて生きるというより自分の世界で生きてるかららしいとも言えた。CMで見る派手なカラーじゃなくてカーキを選んだというところも。
「じゃあ、どうぞ」
ああ、と頷いて助手席に乗った。俺が乗ってすぐ運転席に乗った世那が「後部座席じゃないんですか?」と聞いてきたから「助手席の方が落ち着く」とだけ答えた。車内は木のような優しくて落ち着く香りが微かにする。
世那は法定速度に従った静かな運転をした。
「品川の……どこでしたっけ? あれ?」
俺の自宅マンションまで送っていくつもりなんだろう。あぁ品川に住んでることは言ったな。思い出した。それと同時に世那がどこに住んでいるか聞いたことがないことも思い出した。
「お前家遠いの?」
「うーん……実家なんで都内じゃないんですよ」
「どこ?」
「川崎です」
カーステレオからは悲しいバラードが流れている。彫りの浅い穏やかな横顔は癇癪なんて起こしたことがないんじゃないかとさえ思う。
「工場多いよな川崎って」
雨粒が落ちていく窓ガラスを眺めてなんとなく相槌を打った。「夜景が最高なんですよ」と言った声は笑い声を含んでいた。
「連れてけよ、川崎」
「行ってどうするんですか」
「工場夜景見たい」
「嫌ですよ雨じゃないですか」
「ガソリン代出すから」
「そういうことじゃないですよ。もう着きますから」
「うるせぇな。夜景が見てぇんだよ」
俺が駄々をこねると世那が「勘弁してください」と言いつつ国道を走り始めた。数秒前のやりとりになんだかもの凄く腹が立った。俺としては世那に好奇心があったのに「あなたは仕事の上司に過ぎないから首を突っ込まれる筋合いはない」と言われたようで、たった今、国道に入った世那が「うるさい上司のわがままを仕方なく聞いている」という雰囲気があって余計にコイツがわからなくなった。
雨粒がついた車窓に額を預けて「週明けから佐藤来るってよ」と話題を変えるコマンドを出した。
「佐藤さん? あぁ、はい。わかりました」
「お前いい加減にしろよ」
「え?」
「お前が佐藤泣かしたんだろ」
世那は人当たりがいい。そのうえパーソナルスペースがかなり狭かったから誰彼かまわずべったりくっついて行動することが多かった。だから社内の人間が「世那は自分の味方だ」「世那に好意を持たれている」と思いこむのは早かったらしい。違う部署の人間が振り回されて泣かされたのは噂で聞いていた。そんな世那の噂が消えかけた頃、夕方の会議室に佐藤と世那がいるのが見えた。
好きです、という声を数センチ開いたドアから聞いたのがいけなかったのかもしれない。世那はどう答えるんだろうという好奇心だった。今となっては後悔しているが。
「僕も、優しくて頼りになる佐藤さんが、大好きですよ」
世那の温かい真綿で包むような声を聞いて2週間後だったと思う。人の少ないスペースで佐藤が世那に詰め寄っているのを見たのは。世那はたぶん、先輩の剣幕に焦ってたってところだと思う。
「どうしてダメなの!? 前も断ったじゃない!」
「だから、その日は従兄の結婚式で静岡に行くから仕事も休むって言ってるじゃないですか」
「それだけじゃないわよ! 一緒に食事はおろか連絡先も教えないなんて!」
「なんで佐藤さんにプライベートの連絡先教えるんですか? 佐藤さんとは会社出ちゃえば何の関係もないですよね?」
「え……?」
空気が凍るとはこういうことだと思う。正直アイツらの近くにいたことを後悔した。凍った空気の中、一番早く復活したのは佐藤で、「付き合ってるでしょ!? 私が好きって言ったら『僕も好き』って言ったじゃない!」と詰め寄っていた。でも黙っていた世那が口を開いて放った言葉は、
「僕『恋人になろう』なんて言ってませんけど」
そのまま立ち尽くしてしまった佐藤に「誤解招くようなこと言わないでください」と平坦な声で言って共同スペースから出ていった。
取り残された佐藤の泣き声を聞いて、俺は途方に暮れた。他部署の人間もこうやって泣かされたのかと思ったし、とんでもない部下を持ったと気づくのに1年かかったことにもうなだれた。次の日には佐藤から「体調が悪いので休ませてください」と連絡が入って、事情も把握していたから「無理すんな」とだけ言って4日間休ませた。
世那の顔に罪悪感やら焦りは見えない。だから俺の「いい加減にしろ」という意味も分かっていない。「あぁ、聞いてたんですか」と呟く世那に腹が立つ。さっきから腹が立ってばかりだ。やっぱり断って電車で帰るべきだった。
「その気が無ぇならきっぱり断ればよかっただろ」
「気まずくなるの嫌いです。僕は臆病なんですよ」
「お前が紛らわしい答え方したから余計気まずくなってんだろが」
世那は何も言わない。後部座席に何やら青いものが目に入ったので見てみるとクレーンゲームの景品のような馬鹿っぽく笑っているスライムのぬいぐるみだった。ぬいぐるみ以外にはクッションもカバーも何もなくて、これは世那が移動する為の車なんだと知った。
「『好き』としか言われなかったのに、どう答えればよかったんですか?」
大人びた子どものような澄まし声に思わず振り返った。さっきまでの笑い顔はもう無かった。何もわからないと言いたげな口元を見て、数多の人間を泣かせた魔性の男というのは誤解かもしれないと思い始めた。世那には人の心を引っ掻き回す意図はなくて、ただ適切な距離感というものがわからないのかもしれない。
「それは―――」
「着きました」
世那が声を弾ませて車を停めた。ワイパーで水滴が取られたフロントガラスから見えたのは、オレンジの空をバックにそびえ立つ煌びやかな工場だった。
フロントガラス越しの工場夜景をしばらくじっと見ていた。ときどき邪魔してくる雨粒は世那がワイパーで払ってくれた。昔の彼女が夜景好きで、よく夜景を見に出かけたけど、ここまで幻想的な夜景はあっただろうか。
「いいな……」
思わず呟いた俺に「よかった」と世那が笑った。
「たぶん雲が厚いから、灯りが雲に反射して空がオレンジになってるんですよ」
「そっか……初めて見た」
「中々見る機会もないでしょうしね」
相槌を打ってくれる世那には申し訳ない。けど、しばらくこの幻想に浸っていたい。
「ごめん……しばらく見てていい?」
「…はい」
ワイパーでフロントガラスを拭いてもらいながら、夜景を見ていた。車内ではカーステレオから流れる音楽と雨音だけが聞こえる。工場独特の無機的な光は頭が空っぽになるような感覚がするし、ハスラーを叩く雨音に合わせて深呼吸すると体から力が抜ける。明日は友人と予定があるのに、戻りたくない。休日は必ず予定を入れて動き回っているから、じっと座った状態でこんなにストレスが抜けるのは初めてだった。2秒だけ目を閉じて、もう少し夜景を見ようと目を開けると突然に香ったのはムスク。香りのもとを探そうと視線を変えると華奢な手で後頭部を覆われた。
「なに? 世那」
「…柊さん、睫毛濃いですね」
「は……?」
瞼をゆっくりなぞる親指は冷たい。こんな真似されて、振り払いたいくらいには嫌なはずなのに、動けなかったのは、手つきが情欲的なのに表情と声は無垢だったから。
「わかったからとりあえず離せ」
「あ…すみません、不躾なことをしました」
すぐに俺の頭から手が離れた。世那がシートに座り直したとき、甘さが抑えられた透明感のあるムスクがまた香って、そういえば最初に嗅いだ木の香りが消えていたと気づいた。
「戻りますね」
人好きのする笑顔でそう切り出されたが「頼むわ」としか言えなかった。
仕事が特別出来るわけでも、特別知識が多いわけでもない。容姿も特にこれといった印象はなく、『フツメン』と呼ばれるヤツ。ただ、無意識に距離感を乱して、男女問わず社内の人間を泣かせていた、天然トリックスター。どうしてこの男に1年も関心を持たなかったのか不思議だ。週明けから目で追ってしまいそうだ。今この時間は、目を瞑っていよう。
「柊さん?」
「寝てねぇよ」
無骨な車体に似合わない石鹸の残り香のするハスラーの助手席で、
俺は肺呼吸が出来なくなっていた。
世那は花/江/夏/樹さんをイメージしました。柊さんもちゃんとモデルがいますが、私の好みもあるので割烹で。皆さんはお好きにイメージしてみてください。
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お付き合いいただき、ありがとうございました。