【3】 堤防の上と下、水面の下から
舞台は昭和40年頃の、岡山市です。
ヨリは駄菓子屋に寄って、いつものようにわらび餅のくじを引いた。
はずれ。
小さなわらび餅をおばさんにもらう。
当たりの景品は、大きなわらび餅だ。
店内では誰にも会わなかった。
いったい客が入ってくるのだろうかと思うくらい、ここはいつも静かで、薄暗くて、ひんやりした空気が流れている。
駄菓子屋を出てヨリは旭川の堤防に向かった。
土を盛って芝を貼った堤防は高くて、広い堤の上を自転車や人が行き来している。
河原に面した側はコンクリートで固められていて、ところどころにある階段で河原に下りていける。河原はいちめんの花畑だ。
堤の上の一本道からは、河原も堤防の下の町もよく見える。
こうして見ると、堤防が水面からかなり高いところに築かれているのがわかる。
ヨリが幼稚園にあがった年に、旭川が増水したことがあった。
すごい大雨の後で、花畑も河原も水に沈んでしまって、暗い灰色の水がごうごうと音を立てて流れていた。
町内の大人も子供も堤の上に立って水面を見ていた。
もしも堤防が切れていたら、坂の下の町は泥水に流されてしまっただろう。あのとき、上流から流れてきた赤い木の橋みたいに、バラバラに壊れて。
そのときのことを思い出すと、怖くなって、そしてぞくぞくする。
ヨリは小さかったから他のことはよく覚えていないが、増水していた川の眺めだけは忘れられない。
夜になると、ときどき、本当はもう町は洪水に沈んでしまっているんだと考えることがある。そうして、身震いをする。
水に沈んでいる、冷たさを感じ、頭上にゆらゆら揺れる光に手を伸ばす。あれは水面に見える太陽の鈍い光。
……そんな夢をよく見る。
旭川は幅が広い。
ゆったりとした流れの中には、かなり大きな中州がある。中州には木もたくさん繁って
いるし、住宅や団地もある。
その中州の上をまたいで、川には大きな鉄橋がかかっている。
お母さんは川向こうの町に働きに行って、夜中にこの橋を渡って帰ってくる。
ヨリは橋を渡ってみようと思ったことはない。
終わりの方が見えないくらい長くて遠い橋だ。
向こう岸には高い煙突のある工場や、町があるけれど、何もかも灰色にかすんで、別の世界のようだった。
背の低い船体にぴったり蓋をして煙突をつけた小型船が、ぽんぽんぽんと蒸気を吐き出しながら旭川の水面を逆上ったり下りたりしている。
ヨリは飽きずに眺めていた。
知ってる。この水面を下から見たら、どんなだか。
広い川面は静かに流れている。
河原で遊んでいる子供がいた。
……いや、違う。
そんな者どこにも居ない。
今は。
ずっと前だ。
もっと小さい頃。
そのときヨリには七つ年上の兄がいた。
ヨリが河原で遊んでいて、流れにはまったとき。
だから、ヨリは水底からの眺めを覚えている。
そして身体が浮き上がった。
顔が水面に出た。
下から何かに支えられていた。
岸辺で誰かが叫んでる。
大人が駆け寄ってきた。
……よく覚えてはいないのだけれど。
後で、知った。
ヨリがはまったのを見た兄が旭川に入って、下からヨリの身体を持ち上げて顔を水面の上にあげたのだ。
大人が駆けつけてくるまで、兄は頭の先まで水に浸かっていた。
だから、いま、ヨリは一人っ子なんだ。