その1 大きな河、堤防の下で
・・・その場所は、もう今はどこにもない・・・
幼い頃、彼女は、両岸に高い堤防が築かれている、大きな河のほとりに住んでいた。
対岸を臨めば、煙にかすんだ街が見える。高層建築が立ち並び、向こう側には電車も走っている。
もっとずっと小さい頃、電車に乗っていったことがある賑やかな街や、天守閣のある城のことを思い出す。
城の壁が黒く塗られているのが珍しいと、彼女に教えてくれたのは、あれは誰だったのか。
今はもういない、兄だったのか?
堤防の下を川沿いに歩くと、坂にぶつかる。
急勾配の坂は台地の端で、台地の上にはぎっしりと小さな長屋が連なっている。
地名は幸町、花畑。
【1】
小学校にあがる前、溶接工をしているおとうさんにもらった大きなロウセキと四角い磁石が、ヨリの宝物だ。
同級生たち、みんなが持っている、エンピツみたいな細いロウセキとは違う。こぶしほどもある岩のようなかたまりだ。
使ってもそうそう減らないからいくらでも地面に線を描いて遊んでいられる。夕方になって友達がみんな家に帰ってひとりになっても。
それに、近くに住んでいる友達といても、ヨリはひとりぼっちだ。
狭い路地の両側から、今にも倒れてきそうに迫ってくる薄い建物。
長屋がいくつも列をなして並んでいる。
ヨリの家は堤防に一番近い長屋の列から数えて二列目、台地の端から三番目にある。
もう一つとなりの列の端っこには、長い竹ひごで籠を編んでいるおじいさんたちの工房がある。
ヨリの家の隣の隣には小さな金物工場。
入口は狭くて普通の家に見えるけれど、中ではプレス機で金属板から何かの部品を作っているのだった。
そこのおじさんは、無愛想で無口で、けれど優しい。少し前、丸く打ち抜いたブリキの板をくれた。
銀色の丸い金属板は、ヨリの三番目の宝物。
うっかり端をさわると指を切りそうな鋭さが気に入って、何に使うでもないけれど机の引き出しに大切にとってある。
工場の隣の隣の家にはお好み焼き屋の鉄板がある。
ヨリが生まれる前、お母さんの実家がここでお好み焼き屋を営んでいた。今は引っ越してしまってどこに住んでいるのかわからない。
次に入居してきた人は、お好み焼き屋はやらないけれど大きな鉄板は外さずに残している。たまに友だちが集まってパーティーをするとき活躍するのだそうだ。
そのまた隣は、駄菓子屋。
ヨリにとっては家より広いと感じる店内は、薄暗くて、いつも人けがない。子供たちは駄菓子を買えばすぐに帰ってしまう。
長屋の奥のほうには外国から移り住んできた人の家があって、そこのおばさんは愛想がいい。
よく軒先でエイを塩漬けにしたり白菜を切って塩をふって漬け込んだりしている。
どこにどんな店や家があるのか、生まれたときから住んでいるヨリはよく知っていたけれど、それでも路地裏には昼間でもどこかに夕暮れの薄暗がりが紛れていて、うっかりすると知らない場所に迷い込みそうだ。
早く帰りたくなかったり、迷いたい気分のときは、ぼうっと何も考えないで歩く。
日が暮れる頃にはよく、竹細工職人や工場のおじさんたちが家の前に縁台を出して、賑やかにお酒を呑んでいる。
ヨリはカギっ子だ。
昼間はずっと外にいる。家に帰りたくないのだ。
けれどまた、日が暮れる。
長い影が小さな少女の足元にのびて、空が赤く染まって。
そして、暗闇に閉ざされた空には星も見えず、黒いビロードに覆われたような空の下、コンクリートに固められた地面に、乾いた靴音が響いて。
今夜も、 …… が、やってくる。
日が落ちてあたりが暗くなりかかると、ヨリは家に帰って巣籠もりの準備にかかる。
よれよれのタオルケットとまくら、それに大好きな白いむく犬のぬいぐるみと、読みかけの絵本。それをかかえて机の下にもぐりこむ。
食欲もないし飲み物も要らない。
ただじっとしているだけ。
やがて夜になる。
夜だけれど真っ暗でもないのは狭い長屋が何列にもなってぎっしり立ち並んでいるせいで、どこかしらの家の明かりが路地に溢れているからだ。
怖いからタオルケットにくるまってしまいたい。
抱いている白いむく犬が本物の犬だったらいいのに。
そしたら心強いし柔らかくて手触りがいいだろう。暑い夏だって、ぎゅっとくっついて眠るんだ。
夜は深まる。家々のあかりも落ちて暗くなっていく。
……来た。
ヨリにはわかる。
もう何度、あいつは来ただろう。
玄関の曇りガラスに映る、背の高い黒い影。
黒い影は、玄関の戸を激しく叩く。
いないのかい、ヨリちゃん。
優しげな声色をよそおう腹黒い声が呼ぶ。
じっとして息を殺して。
誰もいないよ。
いないから早く行ってよ。
このあいだ読んだ本の中に「七匹の子ヤギ」というのがあった。
こんなふうに子ヤギたちも隠れていたんだろうか。
でも、あの子ヤギたちはばかだった。
あたしだったらぜったいに入れないのに。
どんなに声色を使っても、黒い手を白く塗って誰かに化けていたとしても。
ヨリの心はずっと前から凍っている。
いつの頃からか……もっとずっと小さい頃は何か違っていた気がするが、もう思い出せない。
お父さんとお母さんは、喧嘩ばかりしていた。
大きな声で何を言ってるんだろう。
ヨリは不思議だった。
お母さんがお父さんに物を投げつける大きな物音。
二人とも、すぐそばにいるのにヨリのことが見えてなかった。
そして、お父さんは帰って来なくなった。
ヨリは机の下にもぐり、ひたすらペ-ジをめくる。
続けざまに戸を叩く音が、だんだん大きくなってくる。
錠がおりているのに、ガシャガシャと揺さぶって開けようとしてる。
がさつで無遠慮で乱暴な音。
そんな音なんか聞かない。耳を向けない。
聞こえてないふりをするんだ。繰り返し心の中でつぶやく。
いないのかい。ヨリちゃん。
こんどは甘ったるく呼びかける声がする。
しつこくいつまでも呼んでいる。
でもヨリは行かない。
だって知っているから。
うっとおしい、押しつけがましい、いやらしく邪悪な、あの「よるおとこ」声に呼ばれて、ついていった子どもがもう何人もいて、みんな二度と帰ってこないのだ、と。
なんで知っているの?
むく犬が聞くよ。
一度だけ、寂しくて、ついて行ったことがあるからね。
ヨリは答える。
怖かった。
あんなに怖かったことは他にない。
やせこけた、黒ずくめの影のような男。
暗い家に引き込まれ、押さえつけられて、苦しくて、そして夢中であらがい逃げ出した。
でも「よるおとこ」は、獲物のニオイを覚えて、あとをつけてくるんだ。
もう二度と、もう二度と、もう二度と………
ヨリは、行かない。
いつの間に眠ったのだろう。
気がつくと、もう朝だった。
ヨリはふとんに入っていた。
遅くまで仕事をしていたお母さんも帰ってきていて、ふとんの中で眠っている。
朝は来るのだ。
どんな夜でも明ける。
今日もヨリはひとりだ。
けれど自由にどこへでも行ける。
机の下の夜は、きのうも、ヨリを守ってくれた。
ヨリは母親を起こさないよう、そっとふとんから這い出て、大きくのびをした。