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01:災いの子供

 お前は『災いの子供』だと、少年は言われた。

 だけど、少年には何が『災い』なのか分からなかった。

 だから、少年は神様に聞いてみる事にした。

「僕は『災いの子供』なのですか?」

「そうだ」

 神様は答えた。

「なぜ、災いなのですか?」

「自分の心に聞いてみるといい」

 言われ、少年は目を閉じた。

 今までしてきた事。悪いこと、いい事、嬉しいこと、悲しいこと。それら全てを思い返し、自問する。

 僕は一体何がいけなかったのだろう。

 結局答えは出なかった。

 途方にくれていると、耳元から声がした。

「何かわかったか?」

 少年は静かに首を振った。

 その様子に、神様はふむと喉を鳴らし、重く冷たい風を持って少年に伝えた。

「なら、そういう事だ」

 首をかしげる少年をよそに、神様は続ける。

「お前は悪くない。お前は正しいのだろう。お前は人の為に生き、そしてこれからもそうするだろう。それでもお前が『災い』となるなら」

 一瞬の沈黙。

 回りの空気が、まるで真冬のように冷えていくのが感じられた。

 冷酷に、厳格に、そして諭すように神様は言った。

 ――それは運命だ。

「……うん、めい……」

 頭を槌で叩かれたような気がした。

「そうだ。お前自らが関与しないとなれば、それは運命だ」

 そんな訳ない――と言いかけて、口を紡ぐ。少年が求めているのはただ唯一の解放。

 ――どうしたら。

 なぜ自分は『災い』なのか。何がそうしているのか。

「――僕は、どうしたらいいの?」

 『災い』と呼ばれる自分が嫌だった。

「どうにもできない」

「……そんな」

「ただあるとすれば」

 少年の言葉を遮って、神様は言った。

 深く深く闇色に染まった、抑揚の一欠片もない声音で少年に告げる。

「死ぬことだ」

「あ……」

 目の前の何もかもが崩れ落ちていくようだった。

 何かを言おうとして失敗する。膝が震えあがり、視界がぐらりと揺れる。酷い眩暈に襲われているみたいだった。咄嗟に手を動かそうとしたがダメだった。指先が次第に痺れていき、次の瞬間には身体中の感覚が失われた。酷い耳鳴りがする。もう自分が立っているのかさえ分からない。無限の渦の中に投げ込まれたようだった。全身が宙に浮いているような錯覚。ふわふわと空中を漂っているような感覚に、頭の中が埋め尽くされていく。

 倒れゆくさなか、少年は最後の力を振り絞って顔を上げた。意識さえも混沌としている状況で、それは無意識に近かった。

 誘われるように、少年は空を見上げる。

 ――僕は何がいけなかったのだろう。



*



 そこはベッドの中だった。暖かい毛布が身体を包んでいる。昼下がりの乾いた香りが部屋一面に舞っていた。

 辺りを見回して、そこが自分の部屋である事を知る。頭上を見上げてみても、そこに空はない。天井の綺麗な板張りが、当然としてそこにあるばかり。

 気だるい身体を引きずって、少年は立ちあがった。まるで夜更かしをした後のように節々が痛い。這い出たばかりの布団を顧みてぼんやりと思った。

 僕は眠っていたんだろうか。

 だとすれば、あれは悪夢だったのか。

 神様が運命だと、それはどうしようもない、と告げる夢。

 逃れる術は何もない、と告げる夢。

 そう、あれは悪夢だった。まさか神様がそんなこと言うはずない。神様は人間の味方で、いつも空から見守ってくれる存在で、キリスト教という所では、救世主……イエス・キリストを使えさせ、人間を救ったのだという。

 偉大なる神様なのだから、どうしようもない、などと言うはずがない。困った人を助けるのが、そう、神様のお仕事のようなものなのだから。

 だから、助けられないなんて言えないはずのに。

 ましてや。

 ましてやその方法が、死ぬ事なんて。

「……死ぬ、事」

 その瞬間、視界が揺れた。急にお腹が痛くなって、その場にしゃがみ込んでしまう。

 霧が晴れたような感覚だった。

 あれは夢じゃない。気づいてしまえば当たり前の事なのに、どうして悪夢だと思ってしまったのだろう。

 僕は『災いの子供』。

 何が災いで、どうしてそう呼ばれるのか分からない。僕は理由を探していたが、そんなものは初めからなかった。僕がそう呼ばれるのに、理由なんていらなかった。

 運命なのだと、だから神様はそう言った。

 『災い』から逃れるには、死ぬしかないのだ、と。

 僕は生きていたらいけない存在なのかもしれない。

 少年の中で何かがはじけた。

 『災い』と称されるのが当然で、助かる道が『死ぬこと』しかないのなら、生きていく事に何の意味があるのか。

 他人から当然のように避けられ疎んじられる世界で、これ以上生きていく意味などあるのか。

「僕は死ぬべきなんだ」

 きっと。

 神様もそれが言いたかったんだろう。

 昼下がり――少年は家から抜け出した。

 最後になるであろう家族や友達への挨拶はしなかった。

 別に誰かに泣いてほしいわけでも、悼んでほしいわけでもない。

 ただ、少年は解放されたかった。



*



 太陽は空高くにある。心地よい風がベランダに流れ込んでくる。

 鼻歌を歌いながら、その女性は洋服をハンガーに掛けていた。

「いい天気」

 いいお洗濯日和だわ、と朗らかに笑みをこぼし、てきぱきと手を動かしていく。ベランダはあっという間に洗濯物に覆われてしまった。

 これで終わり、と竿に掛けたタオルに洗濯バサミをつけて、彼女はあいた手をパンパンと払った。

 空には雲一つ見当たらない。この様子だと、夕方には乾いてしまうだろう。掃除も終わってしまったし、後はのんびり出来る。見たいテレビ番組が始まるはもう少し先だから、その間に読み切っていない雑誌に目を通しておこうか。

 今年の流行はデニム系なのよね――

 季節柄と、自分にあったデザインを早く見つけなくては。

 あ、その前にお菓子でも作ろうかしら。

 オーブンを新調してから、お菓子を作るのがだんだんと趣味になってきているみたいだ。今日は息子も学校がお休みらしいし、家族の交流としてはいい機会かもしれない。彼を叱りつけてから、関係があまりよくないのだ。 確かに、叱る原因を作ったのは、彼の方だが、それでも少しきつく言い過ぎてしまったと、今更ながら反省する。

 一緒にお菓子を作って仲直りできたら、一石二鳥よね。

 ベランダの窓を後ろ手に、彼女はいっそう目を輝かせた。

 リビングを小走りに駆け抜けて、早々と準備に取りかかる。子供と一緒なら、失敗しても大丈夫なクッキーにするべきだろうか。

 器具を取り出しながら、考えを巡らしていく。

 喜んでくれるといいな――

 鼻歌がキッチンを満たしていく。



*



 街中は倉皇としていた。あちこちが喧噪にまみれ、それが悲鳴のように聞こえた。

 こんな場所、僕は知らない。

 言葉とは相まって、少年の足取りはしっかりとしていた。ふらふらと歩いていたのでは、流れに吸い込まれそうだったからだ。川の流れをも思わせる人の群れが、途切れることなく周囲をひしめいている。

 ――こんな場所、知らない。

 目についた角を曲がり、奥まった路地裏に入る。路面は影に覆われている、陰湿な場所だ。しかし、少年は躊躇することなく先を進んでいく。まるで機械人形のように、その動作は一定で不自然な自然体、とでも言える光景だった。

 ここは何処で、今自分は何処に向かっているのか――

 胸元に込み上がってくる疑問を、少年は思考に入れる事はしなかった。何処だっていい。何処に向かったっていい。そんなもの、今の自分には関係ないのだから。

 早く、死なないといけない。

 その思いだけで十分だった。いつまでも運命の枠に押し込められた身体で生きていくのなんて、自分にはもうできない。

 その時だった。

「――お友達がいたの」

 すぐ後ろで声がした。幼い女の子の声だった。

 続けて、どこどこ、と別のものが被さる。

「ほらそこ」

 背筋を冷たいものが走り抜けた。例えようのないそれが悪寒だと気づくより前に、第六感が少年に訴えていた。

 逃げ出すべきだ。

 あらほんと、とうれしそうに笑う声が聞こえる。

「――ちゃん」

 どうしてじっと立ち止まったままだったのだろう。そもそも、何故逃げようと思ったのだろうか。

 肩口に手の感触。

 よく知っている声が、少年の名前を呼んだ。

「こんな所で会えるなんて嬉しい!」

 振り返った先に居た少女は、抱きつかんばかりにそう言った。本当に喜んでいるのだろう。その後ろに見える女性も、ふくよかに微笑んでいる。

 少年は疑問に思った。何故この人たちは話しかけてくるのだろう。僕は『災い』なのに。

「今日はお出かけかい?」

 天気もいいから楽しかったでしょう、と女性は続ける。

「……ちがうよ」

 少年は愛想なく答えた。

「じゃあ、お買い物かな?」

「……それもちがう」

 死にに来ている、とは言えなかった。

 無愛想に否定しているとその様子から察したのか、女性の顔が微かに曇った。

「そうなのかい? それにしても、お母さんの姿が見えないねぇ、今は一人なの?」

 無言でうなずいた。

「まあ、一人でこんな所に……危ないわよ?」

 女性が身をかがめて少年の方に寄ってくる。おおよそ心配して一緒に家まで帰ろう、などと言うつもりなのだろうが、今の少年には迷惑きわまりなかった。

 むしろ危険な場所であるのなら、願ってもいない。ここから離れるわけにはいかない。

「はぐれちゃったんだよ」

 隣で少女が声を上げた。

「ほら、すっごく悲しい顔してる。さみしいんだよ、ね?」

 悲しい顔?

 咄嗟に腕で拭おうとしたが、その前に少女の身体が少年を包み込んだ。

 母親になったつもりか、少女はいい子いい子、と囁きながら、少年を優しく撫でていく。

 僕は悲しい顔をしているの?

 信じられなかった。悲しい顔をする必要性が何処にある。絶望、切羽詰まった顔、の間違いではないのか。

「あらあら、そうだったの」

 女性は一瞬だけ、弾かれたように驚き、すぐさま真剣な眼差しになって、肩に掛けていたバッグを下ろした。

 ファスナーを開いて中からとりだした物に、今度は少年が驚く番だった。

 女性の手の中には、携帯電話が握られていた。

「待っていてね、すぐに電話を掛けるから」

 ――どこに?

 考えるまでもない。交番か、あるいは家か。

「迷子なんかじゃない!」

 気がついたら、そう叫んでいた。

 心の中が言いようのない痺れと渦でぐちゃぐちゃになっていく気がした。

 この人たちは、どうして僕と話をしてるのか。僕は『災い』のはずなのに。誰からも卑下され、疎外される存在であるのに。

 だから、消えようとしているのに。

 ――なんでこの人たちは、僕の邪魔をするの。

「……どう、したの?」

 目の前の少女が、困惑と若干の怯えを含んだ瞳でこちらを見つめていた。

 ――『災い』のはずなのに。

「迷子じゃないのかい……?」

 女性は目を白黒させながら、訪ねてくる。

 ――要らない存在なのに

「……ちがう」

 そんな事じゃなくて。

 僕は、消えに来ているんだ、と。

「じゃあ、どうしたって言うんだい? そんな顔をして」

 まただ。

 一体僕がどんな顔をしているっていうんだ。

 泣いてる――

 諭すように言ったのは少女だった。

「……泣いてる、よ? つらい……の?」

 少女はそっと囁く。

 僕が、泣いている?

 抱きついてくる少女から腕だけを外して、自分の頬に触れた。

「あ……」

 湿っている感覚が、確かにそこにある。

 僕は泣いているの……?

 なぜ――

 すぐに疑問が浮かび上がったが、それを必死で押し殺した。

 それに答えてはいけない。

 直感的に、少年はそう判断していた。もしこの疑問に答えてしまったら、自分の中の何かか壊れてしまいそうな、自分の中の決定的な何かがむき出しにされてしまうような、そんな気がした。

 ……それはおかしいんだ、と。

 泣いているのは間違い。泣く理由など何処にもないし、そもそも今している事は自分が望んでいる事。運命からの解放。『災い』から逃れられる、唯一の手段であるのだから、むしろ喜んでいるはず。

 だから、今泣いているのは間違い――。

 今にもあふれ出てきそうな思考の本流を、灰色の言葉で塗り固めていく。

 だから、悲しい顔をしているのは間違い――。

 だから、心が締め付けられそうになっているのは間違い――。

 ――言ってくれればよかったのに。

 少女の声がした。

 柔らかくて、暖かな香りと共に、声が聞こえる。

 ……一人で寂しくて、怖かったんだね……。

 でも、もう大丈夫だから。

 私が……ほら、いるよ……。

 ……だから。

「――一緒に帰ろう、ね?」

 少女の柔らかな笑みが、すぐそばにある。

 吐息さえも感じられるすぐそばで、少女が笑っている。

 それは、少年に向けられた優しさ。

 愛情さえ感じられる優しさで、少女は笑っていた。

 ――なんで。

 けれど、少年にはそれを受け止める事は出来なかった。

 ――なんでこの人たちは、僕の邪魔をするの。

 僕は――解放されたいだけなのに。

「……いや、だ」

 邪魔だと思った。

 何もかもが邪魔だと思った。

 所詮、自分は必要のない存在。それとまともに相手をする人間など居るはずがない。どんなに表層を取り繕ったとしても、結局は心の内側で見下しているのだ。

 困った様子でこちらを見ている女性も、心配そうな表情をしているこの少女も、影では嘲笑しているに違いない。

 ――灰色の悪魔がそこにいた。

「え……?」

 何を言われたのかいまいち解らない顔で、少女は間の抜けた声を上げた。後ろに立っていた女性も、目を丸くして驚いている。

 時間が凍結してしまっているかのような静寂が、いつの間にか生まれていた。

 周りを囲う人の群れや騒音が、遠くのものに感じられた。

 その中で少年の声は、幾重にも響いて消えなかった。

「僕は帰らない。僕は……消えるんだ!」

 それから、少年は全力で駆けだした。

 一瞬だけ軽い抵抗があり、ふわりとした香りが目前を蹂躙したが、気にとめることはなかった。

 一刻も早く、一秒でも早く、この場を去ってしまいたかった。

「きゃあ――」

「ちょっと、どこいくんだい!?」

 少年にはじき飛ばされ、少女は悲鳴を上げて尻餅をつく。

 女性が何か叫んでいるようだったが、どうでもよかった。

 もう邪魔はされない。

 僕は消えるんだ。

 解放されるんだ。

 人の海に飲み込まれても、少年は足を動かすことをやめなかった。

 一歩を踏み出すたびに誰かにぶつかり罵声を浴びながら、草木をかき分けるようにして駆けていった。

 僕は――



*



 電車の発車音が遠くに聞こえる。この時間、駅の中はいつになくうるさい。

 その女性は、改札口から飛び出ると、疲弊した表情のまま窓際にすり寄った。

 眼下に移るのは、街灯と色とりどりのネオンに飾られたバスのロータリー。午後6時か、7時か。仕事終わりで急ぐ人々と、それと同じくらいの若者が一様に入り乱れている。

 どうしてこんなことに――

 幾万回と繰り返してきた質問が、性懲りもなく頭の片隅にわき上がる。

 解らない。

 解りたくもない。

 そう否定してみるも、現実は変わらない。そんなことは当たり前、至極当然のことなのに、今は幻にかかっているとしか思えない。

 手と足、身体全体が震えている。それが焦りからなのか、苛立ちからなのか、自分にはもう判断できなかった。

 突いた溜息と重なって、右手のポケットが揺れた。

 反射的な動作でそれをとりだして、液晶を流れるシステムメッセージに失望した。

「もしもし」

『どう、見つかった?』

「いいえ――今駅に着いた所よ」

 時間的に分かるでしょう?

 危うく口元を突いて出そうになった毒舌を、固唾と共に飲み下す。八つ当たりなんて年ではないのに、かまってられないほど冷静さを欠いているみたいだった。

 落ち着こうと深呼吸を挟んで、それからゆっくりと質問をする。

「そっちは?」

『ダメねぇ。商店街の方に向かったのは確かなんだけれど……そこからはさっぱり』

「……そう。商店街なのね?」

 そうだと思うんだけどねぇ、という返事を片耳に駅からの場所を思い出す。

 大丈夫、そう離れてはいない、だけど……。

 それが楽観である事はすでに明白だった。彼女の証言は、おおよそ彼を見失った直後のもの。安心できる要素なんて、何一つない。手がかりになるかどうかも正直怪しいと言える。

 だけど今は、それに縋るしかないのだ。

 ……親として失格だよね。

 たった一人の子供の居場所さえ分からないなんて、親として失格だ。

 そんなことを思っても、状況は変わらないと言うのに、自分を罵倒することでしか現実を見ていられない。

 最低だ。

『駅に居るなら、東側の道路が近いでしょう。あたしは西側を回ることにするわ』

 本当に……最低だ。

「……その前に、まず商店街を見るわ」

『そこはあたしが探してるわよ』

「ええ、けど私は探してない」

『冷静になりなさい。無駄足になるわよ』

「そんなことないわ。きっと、何かあるはず……」

『あのねえ……気持ちは分かるけど、やめておきなさい。自分の言ってる事が無駄だなんて、あなたも理解しているでしょう?』

「……」

『いいわ。周辺の捜索は私がしておくから、あなたは警察に行ってきなさい。事を大きくした食わないけど、今のあなたは冷静になることが――』

「……」

 親指が痛い。

 強く強く。壊れるほどの力を込めて、自分の指は携帯電話の切断ボタンを押していた。スピーカーから漏れる電子音が、雑音の中で異常なほどよく聞こえる。

 ……分かっているわよ。

 無駄足だって事ぐらい、よく理解している。だけど、それでも自分自身で探しに行かなくては、納得出来なかった。





 何故、最初から走らなかったんだろう。

 何故、最初から逃げなかったんだろう。

 こんな気持ちになる前に……。

 これまで自分を律していた物が、こてんぱんに砕かれて、シャーベット状に混ぜられてしまったように感じられた。

 ――それは運命だ。

 ――死ぬ事しかない。

「っ……」

 言葉が安っぽい『おなじない』にしか聞こえなくて、少年は頭を振って走る速度を上げた。

 交差点を渡る多くの人々が猛烈なスピードで脇を通り過ぎる子供の姿に、驚嘆と意味深な眼差しを向むけていた。

 おかしな子供だと、思っているのだろうか。

 それとも単純に、恐怖に怯えているだけなのだろうか。

 涙で濡れた顔のままだから、きっと汚く映っているのだろう。よだれも付いているかもしれない。疲労で身体の感覚か曖昧になってきてから、自分が今どんな様子なのか自分でも分からなくなっていた。きっと荒んだ様子なのだろう。近づきたくないと思われているかもしれない。

 悲しみはない。

 悲しいと感じる器官は、『災い』である僕には存在するはすないのだから。

 汚れた姿も、荒んだ姿も、おかしいと思われていても、恐怖や畏怖の対象からすれば、多分それは正しい姿なのだと。

 少年にはもはや、自分に与えられた言葉を繰り替えし思い出す事でしか、自分という存在を確認出来なかった。

 恐怖、畏怖、それらに追従するあらゆる単語を探しては、自分をそこに映し出そうと躍起になっていた。

 運命や神様という存在は、頭の中から綺麗に抜け落ちていた。

 まるで自分の居場所を探すように、少年は言葉を求めていた。



 夕方も終わりに近い空は、若干のあかね色と紺色で等分されている。

 交差点を抜けて少年が選んだ道は、駅の裏手につながる路地だった。





 どうしてこんなことに――。

 言葉は渦を巻いて消えることなく頭の中をさまよっている。答えを出してくれと、悲痛な叫びを上げる亡者のように思えて、気分が悪くなりそうだった。

 答えが見つかっているなら、とっくの昔に言っている、と。

 それを一番知りたいのは、この私だと言うのに、亡者は素知らぬ顔で思考を叩いてくるのだ。

 本当に、どうしてなんだろう。

 私はただ、子供と一緒に楽しい時間を過ごしたかっただけ。二人でお菓子を作って、おいしいね、って食べて、笑いあって。

 些細な日常がほしかっただけなのに。

 これが仮に『運命』という奴なら、本当にタチが悪いと思う。せっかくの仲直りのタイミングを、最悪の出来事に変えてしまって。次に彼と対峙する時、なんて声を掛けたらいいのだろう。分からない。

 怒っていいのか笑っていいのか、それも泣けばいいのか、それさえも分からない。

 『運命』が本当にあるなら、実に腹立たしい。

 それとも、悪いのは私の方なのか。

 子供を叱るなんて事は育児の中では日常茶飯事なはず。さらに己の基準とは言え、限度や節度だって守っているつもりだ。虐待なんて言葉には身震いをしてしまう。心は一人の母親として叱っているはずだ。

 それが、彼にとって不満だったのだろうか。

 私の方が間違えていたのだろうか……。

 教えてほしい。

 『神様』が居るのなら、教えてほしい。

 私は何がいけなかったのだろう――





 あれ以来、彼女から連絡が入る事はなかった。

 こちらの態度にあきれ果てて投げ出してしまったのか、連絡も入れられない状態が続いているだけなのか。携帯は一度も着信を伝える事なく、気がつけば商店街の前に立っていた。

 時間を飛んだような錯覚に、若干の恐怖を覚えた。

 子供が居なくなるという事態に、自分の身体は信じられないほど動揺しているみたいだった。一秒前に何をしていたかさえ、朧気にしか思い出せない。記憶によみがえるのは、延々と続く不安と後悔の念ばかりだった。

 これまで自分がどれほど『子供』という存在に頼ってきたか、その想いに深く唇をかみしめた。

 失ってしまえば、自分の事でさえ見失ってしまうというのに、私はこれまで『彼』に感謝をした事が幾つあるだろうか。

 その存在の大切さをかみしめた事が、一体何回あったというのだろうか。

 私は――

「……すぐに見つけるから」

 風に伝えるように囁いて、女性は商店街の中に踏み入った。

 さすがに6時過ぎとなると、人の数は段違いに増えているみたいだった。ざわめきに被さってあちこちから商売の声が聞こえてくる。人の壁が邪魔をして、対面に構える店の姿がほとんど見えない。看板と、店の上段の一部がやっと確かめられる程だった。

 この場所をあまり知らない人なら迷ってしまいそうな光景だが、彼女には無用の心配だった。たまに訪れるこの場所の構造はおおよそ把握している自信があった。

 今たっている場所は、駅から最も近い所。商店街の『入り口』から少し下ったあたり、パイプのように寄生した細い通路の上だ。商店街は終端まで基本的に一本道なので、このまま出口に向かって進んでいくつもりだった。

「……ってぇな」

「すみません」

 両手併せて前に突き出す。まるで水の中を掻くように、人の流れを割って身体をねじ込む。そのたびに、周りから鋭い視線を向けられ、無様に頭を下げる。

 どんどんと惨めに成り下がっていく自分に、思うことは何もなかった。普段ならば、きっと心が締め上げられて悲痛な叫びを上げていただろう。だが幸いな事に、今の自分には余計な事を感じ取る心の余裕という物が欠片もないみたいだった。能面のような真っ白な砂浜がべったりと張り付いている見たいに、心から色という色が抜け落ちていた。

 罵倒されるのもそれに対して謝るのも、本能のようなもの。ただひたすら、前を目指して進むことしか考えられなかった。

「ハマチが新鮮でお買い得っ! 刺身にしても鍋にしても最高間違いなし! はい、そこの方どうですか? 急ぎ足の奥さんも見てってくれよ!」

「いえ、結構ですので」

「最近はこのジュエリーが人気ですね。ほら、あちらの方も付けていらしてるでしょう? 繊細なデザインが几帳面な女性という雰囲気を作り出しているのですね。試着はこちらにありますので――きゃっ」

「こめんなさい。通してください」

 商魂たくましい店員。若いカップルに道中で商品を説明している宝石店の人。道先に見える様々な人を押しのけて、彼女は奔走した。

 ――自分の言ってる事が無駄だなんて、あなたも理解しているでしょう?

 禅問答のような電話でのやりとりが、不意に思い返される。

 確かに、無駄かもしれない。結果的に見つからないかもしれない。それでも、自分目で確かめなくては信じられない。この気持ちは、単なるわがままなのだろうか。無駄な事なんだろうか。

 すみません、ごめんなさい――。

 謝罪の言葉を積み重ねていく度に、頭の温度が下がっていく。

 こんなことやって、本当に見つかるのか。私のやっている事は、やっぱり無駄ではないのか。

 諦めとはまた違う、悲観という冷たい空気が寄り集まってくのが分かる。

 荒くなった息を無視して動き続けてきた足の速度が、若干緩くなる。

 ――本当に、こんな事をして意味があるのだろうか。

 思いながら、身体を前に押し込んだ時だった。

「あ……」

 不意に全身に感じていた圧力が消え去り、視界が一転した。どこか開けた空間に放り出されたのだと、気づくより前に右肩から脇腹にかけて衝撃が走る。二、三の悲鳴を聞いたような気がしたが、自分のものかもしれない。何かが崩れる音と、ひしゃげるような音が同時に聞こえた気がした。

「いった……」

 思い出したようにそうつぶやいて、のろのろと上体を起こした。突然の事で、何が起こったのかよく分からない。転んだのは確かだが、石に躓いたのか、それとも商店街を外れてしまったのか。

 打ち所がよかったのか、思ったほど痛みはない。

 立ち上がろうとして、ふと頭上に人の気配を感じ、慌ててそちらを振り向いた。

「怪我はあるか……?」

 屈強そうな男性だと思った。肉付きのいい骨格が、柱のように立っている。一瞬、格闘技でもやっている人間かと思ったが、緑色の羽織の上にエプロンを付けた彼の容姿を見て、考えを改めた。

 どこかの、店の人だろうか。

「おい、聞こえてんのか?」

「大丈夫です」

 なんとか、と心の中で付け足す。

 両手をついて、のそのそと起き上がる。服の汚れてしまった部分を払い落としながら、財布と携帯電話が無事な事を確認する。荷物が少なくて幸いだった。

 ふらつく頭を頬を叩いてはっきりさせると、周りの状況もよく見えるようになった。

 ここは、どうやら店の表のようだった。

「ったく、危ねぇことするなぁ奥さんよ」

 訛りの利いた声で、男はそう言った。

「いきなりウチに突っ込んで来やがって、急いでたにしても、周りをよく見ろってんだ」

 四十路も過ぎているのだろうか、男の声はいやに低くて、まるで唸っているように思えた。

「……すみません」

 丁寧に頭を下げつつ、私は後ろ手に引こうとしていた。

 急がなくてはいけない、心ではそんな事を呟いたが、本心は男の持つ威圧感から逃れるためだったのかもしれない。

 だが、私に逃げ道が与えられる事は無かった。

「で、これはどうしてくれるんだ?」

 深々と頭を下げる女性に、男は間を挟むことなく切り返した。

 男の指先を目線で追って、ようやく事態の全容を知った。

「あの……」

 それ以上言葉が続かない。

 散らばった段ボールのブロック。プラスチックのカゴ。その合間を縫うように、いくつかの野菜が転がっていた。

「あの……申し訳ありません……」

 深く頭を下げる。

「ちっ」

 男は苛ついた様子で野菜を拾い上げた。乱暴にではなく一つ一つ丁寧に掴み、汚れを払って余っていたカゴに乗せる。

 『杉並商店』と書かれた看板から、言葉に表せない威圧感を覚えた。

 こんな時は、どうすればいいんだっけ――

 一分もの時間を掛けてひねり出した答えは、ひどく短絡的なものだった。

「これを――」

 差し出した手の中には、一万円のお札が一枚握られていた。言葉に振り返った男が、驚いた表情をした後、ぴくりと眉をうごかす。私はそれを、どこか遠くの風景に見ていた。

「……あんた、何か勘違いをしてねぇか?」

「え……?」

「それとも、俺の顔が金をせがんでいた、とでも言うつもりなのか?」

「いえ、私は……」

 男の表情はゆがんで、今にも襲いかかってきそうな怒りの形相へと変わっている。

 私は――落ちた野菜の弁償をしようとして。

 そう言葉にしたくとも、息の詰まるような男の気配に女性は動けなかった。

 どうしてだろう、私はよかれと思って、反省の意を込めてお金を差し出しただけだと言うのに。『プライド』の意味をしらない彼女にとって、男の怒りは理不尽なものであった。

「どうしようもないな」

 ぺっ、と唾を吐き捨てて、男は私から視線を外した。

「あのガキといい、最近の奴らは礼節がなってない。なんでも金で解決出来ると思ってやがる」

地面のアスファルトを蹴りつけて、彼は誰でもない場所に向かって、うわごとのように暴言を放った。

 そして私は、

「すみません、その『ガキ』とは……?」

 口がまるで独立した器官のように動いて、そんな事を聞いていた。

「あんたが聞いてどうするんだ?」

 忌々しい、というより、その表情はこちらの思惑を探るような深い思慮を示していた。

「お願いします」

 頭を下げると、男は深く溜息をついて私に背中を向けた。

「ついさっきこの店にぶつかって、お前と同じような事をしたガキがいたんだよ」

「それは――」

 もしかして。

「いつの事ですか!? その子は、どこに向かったの!」

 店の中に戻ろうとする男を回り込んで、私は対峙していた。自分自身も驚くほど素早い動きだった。

「は……?」

「お願いします、教えてください! せめて時刻だけでも!」

「ちょ……ちょっとまて。お前さん、少し落ち着け……落ち着いて、くれ」

 と、情けない声を上げて、男は二・三歩後ろへ下がった。彼は赤くなった顔を片手で押さえ、荒い息と共に深呼吸をした。

「話はするから、身体を思い切り揺さぶるんじゃない」

「あ……す、すみません」

 前につきだしたままの格好になっている、自分の両腕を見て、私は慌てて頭を下げた。ああ、これで何度目の謝罪だろうか。もう自分が何に対して謝っているのか、よく分からなくなってきた。

「ちょうど三十分前だ、糞ガキが来たのは。ろくに前を見ていなかったのか、店の表に勢いよく突っ込んできてな。見れば小坊面をしていたから、軽く注意をする程度で逃がしてやるつもりだった。所だがだ。そいつは起き上がって俺の顔を見るなり、小銭入れを渡しやがった。謝るより先にだ。まるで悪びれる様子もなく、そいつは行っちまいやがったよ。本当に、可愛げのないガキだった」

 節々に悪態をつきながら、男は話していった。

 三十分前は何時頃だったか、こっそりと携帯電話をのぞき見て、時刻を確認する。そうしてはじき出された数値は、あの女性がこちらに電話を掛けてきた時とおおよそ同じだった。

「小銭入れってヒョウ柄の……」

「ああ、黄色と黒の縞々の奴だったな。……ん? お前さんどうしてそれが分かるんだ?」

 やっぱり――そう確信した時だった、どこからともなく場違いな音楽が飛んできた。

「その子は……」

「すまん、電話だ」

 そう言って、エプロンの前ポケットから、時代遅れのデザインを携帯電話を取りだした。

 ――その子はどっちに向かいましたか。

 言いそびれてしまった。

 男が会ったという『ガキ』はきっと私の子供に違いない。棚からぼた餅とはこのことなのだろうか。あまりに突然な事に、まだ嬉しいという実感は沸かない。だけど、手がかりを得たからには、早くその場所に向かいたい。

 なんで、こんな時に電話なんか――

 場違いな音楽が、忌々しい悪魔の笑い声にでも聞こえてきそうだった。

 急がなくちゃいけないのに。

 その瞬間、吹き上がるような焦燥感に重なって、男の怒鳴り声がした。

「なに!? 書類を落とした!? 何考えてんだお前は!」

 ビリビリと、空気まで震え上がって居るのではないかと思った。

 女性の泣きそうな声が、受話器の向こうから微かに漏れてきていた。早口でまくし立てて言い訳をしているようだ。

「交差点でガキにぶつかった? 青色の服を着ていた? そんな事はどうだっていいんだよ!」

 青色の服――それって。

「いいからさっさと拾って……一部が風に飛ばされただと!? ああくそ、なら一度もどって――って、おいお前!」

「すみません、その子がどんな子か、もう少し詳しく教えてくれませんか。それから貴方の場所を」





 うっすらと月の見える空は、まだ夜というには早い。けれど、夕暮れと呼べるほど薄い色はしてない。濃密な碧と、その合間に見えるオレンジ色が、どこか浜辺のように見えた。

 さざ波が聞こえてきそうな程静かな場所だった。オフィスビルが林のように点在する区域から少し離れただけだというのに、ここは、別世界のように静かだ。

 住宅街、というよりも、もうすこし寂れた響きがお似合いだ。

 いいところだ、と少年は思った。

 騒がしいのは、もううんざりだと。

 どうせ世界から排除されるべき存在なら、死んだ後くらいゆっくりできる場所がいいと、少年は思った。

「……僕は、何がいけなかっのかな」

 少年に向けられた視線は、最後まで『邪魔者』だと訴えていた。それ以外の言葉はなく、まるで別世界の何かを見るような眼差しさえしていた。

 そうだ、僕は『災い』なんだから。

 何がいけなかったのか、それは僕がこの世界に生まれてきた事。

 そう、だ。

 それを言ったのは、神様なのだから。

 だから、何度追求しても同じ。

 いけなかった事は、僕が生まれてきた事。

 そして、僕が死ななければならない理由は、『災い』だから。

 分かっている事なのに、僕は今更何をおもっているのだろう。

 死ななくてはならないから、消えなくてはならないから。だから、こうして外にでてきた。

 そして、絶好の場所を見つけたのだ。

 だとしたら、迷うのではなく、喜ぶべきだろう。

 喜んで、それから――

「小僧めが。それでいいと思っているのか」

 その瞬間、心臓が止まったのでは無いかと思った。鼓膜のすぐそばで、怒号に近い罵声が聞こえた。

 慌てて回りを見渡すが、誰も居ない。

 そもそも、さっきまで人なんて居なかったのに、どうしてすぐそばで声が。

「あ……」

 少年の視線が、すぐ先の角で止まった。フェンスに囲まれたそこは、小さな公園だった。本当に申し訳程度に作られたのだろう。遊具は滑り台と、鉄棒のようなものが一つあるくらいだ。物静かな場所に作られたそこは、忘れられた孤島のようにも見えた。

 そして、その入り口に誰かが立っていた。

「まあ……煽てたのはワシじゃから、責任の一端があるのは否定せんがな」

 白い装束を纏っている。いや、単なる白ではない。それをより膨らませた色、まぶしくて直視できないような白だった。目を細めて、輪郭だけをようやく掴む。長い髭を生やした老人のようだった。

「……あなたは」

 誰? と言い切る前に、体感したことのない異様な感覚に襲われた。

「神、様……?」

 疑問を頭の中に描いた瞬間に、答えがそこに現れた。答えを頭の中に直接書き込まれたような感覚だった。

 その老人は、深く首を下ろした。

「そうじゃ。半日ぶりかの少年」

「……」

 少年は何も答えなかった。眉を険しく潜めて、片足を引き、警戒をいう二文字を掲げて調べるように老人を見上げていた。

「どうした、ワシが怖いのか」

「……ちがう」

「なら、そんな臆病な姿勢を取ることもなかろう」

 臆病――

 キリリと歯を鳴らせて、少年はおとなしく直立した。

「少年よ。ワシが何故ここに立っているか分かるか?」

「……いいえ」

「だろうな。お前の目には憎しみしか映っていない。始めも、そして今も」

「僕は災いの子供です。だから、神様にはそう見えるのでしょう」

 淡々と少年が述べると、神様はほう、と二、三度髭を撫でた。

「お前が先ほど会っていた少女の言葉に、いいように振り回されているのを見て、あるいはとおもったが――進歩はしていないようじゃな」

 まあ……子供じゃし、何かと考えが不安定なんじゃろうが、とぼそりと呟く。

「いいか少年よ、よく聞け!」

 神様――その老人の着ていた白い装束がふわりと舞う。それに続いて、圧倒的な風が吹き荒れた。

 吹き飛ばされるのではないかと身構えたが、不思議なことに身体はびくともしなかった。逆に、押さえつけられているような圧迫感が押し迫って、身体を動かすことが出来なくなっていた。

 眼球だけを器用に動かして、神様を名乗る老人の影を追う。

「運命は確かにある。だが、それを決めるのはワシじゃない。お前自身だ! お前が『災い』といわれる由縁は、お前にある。考え違いでワシを呪って死のうなんて愚かしい考えはさっさと捨ててしまえ!」

「でも、僕を『災い』と読んだのは神様です。そして死ねと言ったのも神様です。それを今更違うとでも言うのですか!」

「……ばかばかしい。ワシは答えられた質問に答えただけじゃ。今のお前の考えでは、お前は『災い』だ。そして、それを拭うには死ぬしかない。だが、その運命を選んだのはお前自身だ。思い出すがいい、ワシの質問にお前はなんて答えた。その上で、ワシを恨み『この世界のために死んでやろう』などと抜かそうならば、吐き気が出るほど愚かしいぞ!」

「……」

「口数が多くなってしまったな。少年よ、お前に死を突きつけた事は、ワシも軽率だったと思っておる。それは始めにも言ったが、責任という形で償おう。なにより、神様であるワシを恨んで死ぬ人間が出てきたら、こちらとしても都合がわるいからの」

「……」

「お前に、チャンスをやろう。自分を見つめ直すチャンスだ。なに、心配するな。これから色々な事があるかもしれんが、お前が自分自身を改めると心底おもったならば、ワシが助けてやろう」

 ではさらばだ少年。

 神様の言葉が終わると同時、まぶしかった彼の像がいっそう激しく光を放ち始めた。目を開けていることはもちろん、目を閉じていても網膜を焼き付けられそうな激しい光に、視界があっという間に破壊される。

 そして、緩やかに光は消え去り、身体を押さえていた圧力も嘘のように消えて無くなった。 顔を上げれば、小さな公園があるだけで、さっきまでそこにいた老人は居なかった。

 遠くの喧噪が、薄く聞こえる。緩やかな風が吹いた。何事も無かったかのように、辺りは落ち着きを取り戻していっている。その中で自分だけ取り残されてしまったような気分になった。

 今のはなんだったのだろう。

 改めて考えるとおかしな話だ。

 神様が、目の前に現れて、そして。

 ――お前に、チャンスをやろう。

「チャンス……」

 なんで今更。

 それに、チャンスなんてものは自分に無いはず。今日一日で、それを十分に思い知った。誰が『災い』である人を良いようにみるだろう。その意味を、今日一日で、嫌と言うほど思い知った。

 嫌悪、離別、そのような視線ばかりが今日一日自分に与えられたものだった。

 だれも、自分を受け入れてくれた人なんて居ない。

 誰も。


 ――言ってくれればよかったのに。

 ……一人で寂しくて、怖かったんだね……。

 でも、もう大丈夫だから。

 私が……ほら、いるよ……


「違うよ。僕はそんな物を望んでいるんじゃなくて……。『災い』なんだって言われて……」

 『災い』は死ななければならないんだって。

 そう運命付けられている、それはどうしようもないって。

 神様が、そう言って。

「――!」

 その時、自分の名前を呼ばれた気がした。

 遠くから、けれどそれほど離れていない場所から、誰かに呼ばれている。

 それに重なって、微かに足音も聞こえる。

 だれ?

 まだ、僕を邪魔する人間が居るのか。

 そう思って振り返って、少年は息を飲んだ。

「あ……」

 そこには、一人の女性が立っていて。

 荒い息を繰り返していて。

 お互いが、お互いの顔を見て絶句した。





 ――その日、小さな約束をした。

 日当たりの良いリビングで、その子は床に寝そべり、安らかな寝息を立てていた。

 私はその側に座って、幸せそうな寝顔をぼんやりと眺めていた。

 嬉しい、と。

 この子の顔を見る度に、身体の内側から喜びの衝動が押し寄せてくる。

 不思議な感覚だった。

 この子はただ、普通に生活をしているだけで。私は、ただそれを眺めているだけで。それだけなのに、何故かとてつもなく嬉しくて、幸せで。

 この力は一体どこから来るのだろう、と本気で考えた時もあった。

 だって、赤ちゃんを見て可愛いと思うことはよくあった事だけど、嬉しいとか、幸せだとか、そんな事を感じたのは初めてだったから。

 考えて、考えて、そしてようやくでた答えは、自分でも笑ってしまうくらい単純なものだった。

 家族だから。

 自分の子供だから。

 その子の一挙一動に、一々嬉しいのだと。

 本当に笑ってしまう。どうして、こんな単純な事に気づかなかったのだろう。

 本当に――。


 ――幸せにします。


 私が感じているこの幸せを、あなたにも与えます。

 この先、どれだけ辛い事があっても、私はあなたを見捨てない、と。

 そう心の中で誓った。


 だから、もし彼を見つけたら、笑って迎え入れよう、と。

 そう思った。






 ――そのはずなのに。






「……やっと、見つけた……よ」

 荒い呼吸を繰り返えす。

 乾いた口からは、震えた声を出すのがやっとだった。笑顔を浮かべようとして、失敗する。手足が先の方から震えていくのが分かった。


 ――何かか違っていた。


 自分の想像していたものと、目の前の光景に、ズレが生じていた。そのズレが何であるのか、よく分からない。おかしいと思った途端に、頭の中が真っ白になって、それっきりだった。

 手が震える。

 足が震える。

 私は、怯えているのだろうか。

「……ほら、お母さんだよ」

 両手を広げる。実際に広げているのかは分からない。ぼんやりとする。心の中に霧が舞っているような気分だった。

 あらゆる感覚が、他人事のように思えてしまう。

 自分がどうやって口を開けて、どうやってしゃべっているのかも、忘れてしまった。精神を乗っ取られて好き勝手に動く身体を、内側から覘いているような奇妙な状態に私はいた。

 意識だけが、沼に落ちていく中、身体だけはバカみたいに動いている。

 ――一緒に帰ろう?

 そう、言ったような気がした、

 出来損ないの笑顔を貼り付けて、両手をふるわせて、冷や汗を流して、そんな自分が居た。

 私は、どうしてしまったんだろう。

 彼を――たった一人の子供、探していた我が子を見つけたら、笑顔で迎え入れて、そして笑って帰ろうと、そう決意したはずなのに。

 今私は、怯えている。

 我が子を前にして、私は怯えていた。

 その獣のように鈍色に光る視線に、そこに含まれる殺意のような空気に、完全に威圧されていた。

「どうして……」

 どうして、ここに居るの?

 少年の声は、静かで落ち着いていた。

「……どう、してって……それは」

 貴方を探しに来たから。

 一緒に帰ろうと思って、探していたから。

 最後まで言えたのは、心の中だけでだった。

「かえって」

「え……」

「帰ってよ! 早く帰って!」

 なんて言われたのか分からなかった。全神経が、『思考』という領域にその言葉を届けまいと、必死になって抵抗していた。けれどそれも長く続かず、半瞬遅れて私は狼狽した。

「なんで……お母さんよ? 私は貴方の。お母さんを忘れて――」

「分かってるよ!」

 遮って、少年は叫んだ。

「そんな事分かってるよ。もういいから、帰って」

「そんな……あなたの事を放って帰るなんて、お母さんには――」

 その瞬間、ぴくりと身体が反応して、少年の顔が不快に染まった。

「……うるさいよ」

 かすれた声で少年は呟く。

 けれど、私はそれにすら気づかないまま、

「お母さんには――」

 カチリ、と。

 そこにスイッチがあれば、そんな音が聞こえていたかもしれない。

「うるさい! お母さんお母さんって、もういいよ! 僕は帰らない。このまま何処かにいくんだ!」

「ま、まって!」

「嫌だ! もううんざりなんだ! どうせ僕は悪い子なんだから、居なくなるべきなんだ!」「――!?」

 いま……なんて?

「僕は何も出来ない――。みんなとも仲良くなれない。友達と喧嘩するし、お母さんとの約束を守る事も出来ない。そんな僕がお母さんの側にいちゃいけないんだ! 僕は――どこかに行くべきなんだ!」

「あ……」

「そうだよ……僕は『悪い子』なんだから」

 ここに居てはいけない、と。

「…………」

 どうして、そんな事いうの――その一言が出てこなかった。

 心の奥底がざわつく。

 彼は――目の前の少年は、一体何を思ってこんな事を言っているのだろう。私には、まるで検討がつかなかった。

 なのに、目を覆いたくなる程の既視感が、内側からわき上がってくる。めまいにも似た不快な感覚が、足下まで来ているのが分かる。

 私は――何を思っているのだろう。

 自分の考えている事もよく分からない。その中で、少年言葉だけが、ぐるぐると回ってる。

 自分は何も出来ない、と。

 友達と喧嘩するし、私との約束も守れない、と。

 僕は……『悪い子』なんだ、と。

 そんな事ない、と言いたかった。

 何も出来ないなんて事は妄言だ、と。

 友達と喧嘩をするのは、仕方のない事だし、私の言うことはよく聞いてくれていた。

 なのに、どうして自分の事を『悪い子』だというのだろう。

 あなたは『いい子だ』、と。

 だから、自分を『悪い子』だと言う必要なんてない。

 何処にも行く必要はない。

 あなたは『いい子だ』、と――。

 心の奥底がざわつく。

 どうして自分の事を『悪い子』だというのか――

 ――ああ、そうか。

 私が、言ったんだ、きっと。

 私が、あの子の気持ちを理解していなかった。それなのに、理解している気になって、怒って、そして彼が出て行った。

 それだけの事だったんだ。

 それだけの。

 では――。

 ふと、疑問が浮かんだ。

 本当にいけなかったのは、私なのだろうか。

 ――違う。

 そんな事は無い。

 気持ちを理解してあげていなかった事は、私の悪い所だ。だけど、それでも怒らなくてはいけない時はある。

 悪いことをする人は、やっぱり『悪い子』なのだから。

 それを本人に言うのは、私の義務だから。

「……ごめんなさい」

 少年の肩がびくりと震える。私がこんな事を言うとは思っていなかったのだろう。

 見開かれて丸くなった彼の瞳をじっと見据えて、私はゆっくりと続けた。

「あなたが自分の事をそんな風に思っていたなんて、気づかなかった。お母さん――少し、天狗っていたのかもね。いつも側に居るから、自分の子供だから、って貴方の事を何でも分かっている気でいた。本当に、ごめんなさい――」

 深く深く、頭を下げる。

 少年は相変わらず戸惑っていた。そこには、先ほど感じていた刺すような視線はもう無い。目の前の出来事にあっけにとられ、上手く言葉も出せずにいる、一人の子供だった。

「で、でも、お母さんは言ったもん! 僕に『悪い子』だって。『悪い子』は要らないんでしょう?」

「そうね、確かにそう言ったわ。けど、よく考えてみなさい。お母さんはどうして貴方を『悪い子』なんて言ったのかしら?」

「どうして……?」

「そう。それにね、もし貴方が『悪い子』だとしても、居なくなったらお母さんは悲しいな」

「『悪い子』……なのに?」

「そうだよ。貴方はお母さんの子供なんだから、居なくなったら悲しくなるの」

「……」

「それに『悪い子』って言われたら、『いい子』になればいいのよ。あなたの悪いところを直せばいいの」

「……」

「だから、お母さんと一緒に『いい子』になろ?」

 そっと手をさしのべる。

 少年は、うつむいたまま首を振った。

「……だめ、だよ。僕は『いい子』になんかなれない」

「そんな事ないわよ。貴方は元々『いい子』なんだから」

「けど……僕には分からないよ。どうしたらお母さんは喜んでくれるんだろうって、ずっと考えてた。だけど、どれもうまく行かなくて。だから――やったんだ。そしたら『悪い子』だって。僕は『いい子』なんかじゃないよ。『悪い子』なんだ」

「そんな事――」

 ――まただ。

 さっき言ったばかりなのに。

 もう彼の事を知った風に居るのはやめにしよう、と言ったばかりなのに。

「……だから、僕はここに居ない方がいいんだ」

 私はどれだけ無知なんだろう。

 彼は悪いことをしたのではなくて、最初から、私の事を思って。

 それは結果的に悪いことなのかもしれないけど、それを怒ってしまった私はもっと悪いのかもしれない。

 彼は、強い子だと思っていた。

 良くできる子だと思っていた。

 でもそれは全部、私があの子に期待下からであって。彼はそれをどもまでも義務として受け止めていて。

 ――なんだ。

 私じゃないか。

 本当に謝らないといけないのは、私じゃないか。

 だったら――連れて帰らないといけない。

 泣いて謝ってでも、あの子に帰ってきて貰わないといけない。

 そう思って顔を上げて。

「ごめんなさい――」

 少年が踵を返して駆けだしたのは、ほぼ同時だった。

 街灯もついていない薄暗い路地を、小さな身体が駆け抜けていく。

 ――あの子に帰ってきて貰わないといけない。

 私が取るべき行動は一つだった。

 追いかけて、捕まえないと。

「まって!」

 疲労が貯まって腫れ上がった足をもう一度振り上げる。大きく息を吸い込むと、肺がずきりと痛んだが、気にしてなどいられなかった。

 動きの鈍くなった四肢にもう一度カツを入れて、私は走り出した。

 早く捕まえて、謝らないと。

 私が悪かったんだって。

 だから、どこにも行かないで欲しい、と。

 前を走る子供の背中が徐々に近づいてくる。小柄で、自分の身長の半分くらいの小さな背中。

 こんなに小さな背中で、これまで何を背負ってきたのだろう。今の私には想像もつかない。

 だから、早く捕まえて抱きしめてあげないと。

 今までありがとう、と頭を撫でてあげないと。

 それくらいしか、今の私には出来ないけど――それこそが重要なはずだから。

 ゆっくりと近づいてくる彼の背中。

 私はそれに向かって手を広げて――


 瞬間、あり得ない光景が眼前に踊った。


 先ほどまであった静寂が、いつの間にか喧噪に変わっている。気分が悪くなる程の雑音に混じって、肌を引き裂くようなスリップ音がそこにあった。

「あ……」

 まるで時間が止まったかのように思えた。

 そこは横断歩道の真ん中で――

 一歩先を進む少年に向かって、一台の車が突進していた。

 あらゆる思考が停止し、真っ白になって頭を埋め尽くしていく。

 これは一体なんなのだろう。

 視界に映っているあらゆる情報が、頭の中で認識されない。「理解する」という動作が拒否され、代わって朧気な映像のみが緩やかに流れていく。

 少年を追いかける私――

 路地を抜けた先の、大きなバス通り――

 横断歩道を駆ける子供の姿――

 これは交通事故だと――漠然とした言葉が浮かんでいた。

「――!!」

 なんて発したんだろう。自分でも訳の分からない叫び声を上げて、次の瞬間私は動いていた。

 なんてこんな事に――

 どうして――

 あらゆる言葉が、真っ白な思考に弾かれていく。五感の感覚さえ曖昧になり、私の動きは全て反射レベルでの動作に支配されていった。

 視界の端に、少年の引きつった顔が映る。

 私は、たった一人の子供すら満足に守れないのだろうか――。

 手を伸ばせば届く距離なのに、それでも私は守れないのだろうか――


 やっぱり私は、最低な親なのかもしれない。


 こんなにも無力で、自分勝手で――

 お願いします神様――どうか、私の子供を……



*



 必要ないんだと、思っていた。

 自分のように、何も出来なくて――いや出来たとしても、人に迷惑を掛ける事ばかりで。

 だから、『悪い子』というのは、まさしく自分の事だと思っていた。

 そして『悪い子』は、必要ないんだ、と。

「……そうですよね。神様」

 こんな状況になっているのは、むしろ必然だと。

 後ろでに見えるお母さんの姿――そして、右手の大きな自動車の像が、今自分の身に何が起こっているのかを十二分に示していた。

 僕は今、死のうとしている。

 客観的に見れば交通事故なのだろうが、この車に当たってしまえば、自分は100%死ぬという事を、少年は直感的に理解していた。

 神様が最初に言っていた『運命』というものが、まさにこの事であるというのも、同時に理解していた。

 やっぱり、僕は死ぬべきなんだよ。

 僕は『いい子』じゃなかった。だってほら、こうして僕は終わろうとしている。

 神様の言っていたとおり、僕は終わるんだ――。

 ストップモーションに近い世界の中で、少年は母親に向かって振り返った。

 彼女の表情は今や言葉で表せないほどの焦りと驚愕に満ちていて、少年の心を深く抉った。

 どうしてそんなに慌てているんだろう。

 『悪い子』が――世界に必要のない子供が死ぬだけの事なのに。

「お母さん――」

 だからもう終わらせよう。これ以上、誰かに迷惑をかけたくない。僕が居なくなれば、きっとお母さんも気づいてくれるはずだ。僕は居なくなるべき存在だったんだって。だから――

 さようなら。

 そう言おうとした唇は、けれど動かなかった。

「――」

 さようなら。

 もう一度言おうとして、また失敗する。

 なんで。

 僕は災いの子供。

 僕は、世界にとって邪魔な存在。

 分かっている。そんな事分かっている――けれど、目の前におかれた撃鉄を引くことが出来ない。

 さようなら。

 その一言で、終わらせることができるというのに。

 不自然に静止した時間を動かすことが出来るのに。

 そのたった一言を口にする事が出来なかった。

「お主も、分からんやつじゃな」

 穏やかな風が吹いた。

「かみ……さま……?」

 誰も居ない場所に、ふっと人影が浮かび上がる。見間違う事は無い、それは『神様』となのる老人だった。

「もう少し、自分に素直になってみたらどうじゃ」

「どういう……意味ですか」

「わかっとるじゃろう……泣いて悔やみながら死を選ぶ人間が、何処にいると思う」

 ……泣いて?

 頬に手を当てると、確かに涙の跡があった。

「……神様。僕は分かりません。だって僕は、お母さんに喜んで貰おうって思って。それだけなのに」

「まだ言うか……じゃが、これ以上締めてやるのも、ワシの趣味じゃないの」

 一つ咳払いを入れて、

「少年よ、確かにお主は母親のためを思って行動していたのかもしれない。しかし、それで彼女が本当に喜んでくれるかどうか、考えたことがあるか?」

「それは……」

「お主も分かっておるじゃろう。誰かに迷惑を掛けてしまえば、それがどれだけ良いことであっても、彼女は喜んでくれないと」

「でも……」

「ええい、いい加減にせんか! お主だけが母親の事を考えておると思ったら大間違いじゃぞ! お主の母親も、お主の事を十二分に考えておる。その事がわからんのか!」

「あ……」


 ――お母さんはどうして貴方を『悪い子』なんて言ったのかしら?


 僕は。


 ――貴方は元々『いい子』なんだから。


 僕は……。


 ――それにね、もし貴方が『悪い子』だとしても、居なくなったらお母さんは悲しいな。


「……ってる……」

「なんじゃ?」

「――知ってるよ! そんな事してもお母さんは喜ばないって! 僕は悪い事をしてるんだって、分かってるよ! でも……でも……かまってほしかったんだもん! 相手に……なって、ほしかった……んだもん」

 鼻の頭が熱い。

 目の奥から色々な物がはき出されていくような気がした。

 僕は泣いているんだろう。でもよかった。本当は自分が悪いなんて、とっくに分かっていた。けれど、それを認めてしまいたくなかった。

 認めてしまったら、自分自身が一人になってしまうような気がしたから。

 いつも側に居てくれたお母さんが、離れていってしまう気がしたから。

「……ごめん、なさい」

 僕が悪かったです、と。



*



 それから後の事はあまり良く覚えていない。

 涙で何重にもぼやけた神様の像がうっすらと微笑んだように見えて――。幾つかの単語を耳にしたような気がしたけど、意味は分からなかった。

 頭の中に強烈な白が浸食してきて、次第に何も考えられなくなっていった。

 気づいた時には何もかもが終わっていて、呆然とする少年を現実に引き戻したのは、泣きじゃくる女性の声と、暖かな感触だった。

「……おかあ、さん?」

 自然と言葉が漏れていた。

 少年をきつく抱き寄せて、頬をすり寄せてくる。顔を見ることは出来ないが、その女性が母親であることは、すぐに分かった。

「お母さん……あの、僕……」

 しゃべろうとして、より強く抱きしめられた。胸が押されて息が苦しくなる。僕は逃れるように身体をひねって、ほとんど吐息のような囁きが耳を打った。

「――無事でよかった」

「あ……」

 ――本当に、無事でよかった。

 心配、してくれてるの?

 ハンマーで強く殴られたような気分だった。心では理解していても、言葉にして突きつけられると、その重みは歴然だった。

 頭の内側がじんと痺れていく。

 ――僕は今まで何をやっていたんだろう。

 かまってもらえないと、相手にしてもらえないと、勝手に思って、一人で焦って、結果的に迷惑をかけてしまった。

 何をやっていたんだろう……。

 一番迷惑を掛けてはいけない人に迷惑をかけてしまった。喜んで欲しかったのに、泣かせてしまった。

 ――お前は、『災いの子供』だ。

 そうだろう。今となっては反論する言葉もない。僕は『災いの子供』なのかもしれない。  だけど、そこから脱する術を少年はもう会得していた。

 謝らないと……。

 誰のためでもない――その人のために。

 僕は――謝らないといけない。

「あの……お母さん――」

「なに……?」

「――ごめんなさい」

 言ってしまえば、こんなに呆気ないのに――僕は今までなんで言わなかったんだろう。

 こんなに呆気ない事なのに――

「……一緒にかえろうね」

 暖かい手が、少年の髪を何度も撫でる。

 僕は黙ってうなずいて、それから目を閉じた。

 もう少しだけ、このまま抱きしめて貰いたかった――。



《END》

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