【1章】春風はスパイスと共に②
春の風がまだ冷たさを残す、昼下がりの学食。
人いきれとざわめきの中に、ほんのわずかな季節の境目が漂っていた。
そんな空気の中で、ひときわ目を引く女性がいた。
まるで春そのもののように――どこか柔らかく、明るい気配をまとっている。
そう感じたのも束の間、
その女性が、鋭い視線をこちらに向けた。
「今日ここのカレーを食べないと、私、昼も夜も気力ゼロ……誰か、心の優しい男の子はいないかなぁ~?」
冗談めかした口調とは裏腹に、
その目はまるで獲物を見定める猫のようだった。
けれど同時に、甘えるように人の足元へすり寄ってくる――
そんな不思議なやわらかさも漂わせていた。
僕は一瞬だけ迷い、けれど気づけば、足が前に出ていた。
「あの……よかったら、僕が払います。
後ろ、詰まってるみたいですし……」
彼女は少し驚いたあと、ふっと口元を緩めて笑った。
「えっ、いいの? 知らない女の子にごはん奢っちゃうなんて……
お兄さん、見た目と違って案外大胆なんだ?」
(ほっとけ……)
心の中でそうつぶやいた僕は、目をそらしながら答える。
「ち、違います……! そっちがこっち見て話しかけてきたんじゃないですか」
「それに……困ってそうだったので、放っておけなくて」
彼女は数秒だけ考え込んだあと、ぱっと明るく笑った。
「ありがと、恩に着るよ、メガネくん!」
「……安直すぎでしょ」
「私は三年の望月澪。で、君は?」
「……一年の、朝比奈晴人です」
会計を済ませたあと、澪先輩はカレー皿をトレーに乗せたまま、僕を振り返る。
「ごめんね。ちょっと急に金欠でさ。返すの、ちょっとだけ遅れてもいい?」
「……別に構いませんよ。
むしろ……戻ってこない前提で渡してますから」
そんな卑屈な返しにも、彼女は全く気にした様子もなく、むしろ嬉しそうに笑っていた。
「じゃあ、お礼に。美人のお姉さんが、一緒にお昼食べてあげようか?」
「えっ……いや……」
突然の提案に戸惑いながら、僕は思わず彼女の顔をまじまじと見てしまった。
自分で「美人」と言い切るその顔立ちは、
たしかに他の誰とも違っていた。
まるで淡い海のような、あるいは透き通った空のような――
どこか掴みどころがない色と、静かな存在感。
美人というより、異質な透明さを感じさせた。
「私じゃ、不満?」
そう言って、わずかに口を尖らせる仕草は、
綺麗な先輩の印象とは違って、どこか可愛らしく見えた。
「……いえ。ただ、誰かと一緒に食事をするなんて、想定してなかったので。
つまらないと思いますけど、どうぞご自由に」
我ながら、ひねくれた返しだと思う。
けれど彼女は気にした風もなく、むしろ楽しそうに微笑んだ。
「なら決まり! ご飯はさ、誰かと一緒に食べた方が、ずっと美味しいよ」
無邪気なその笑顔に、僕は――
ほんの少しだけ、心を奪われた気がした。
まさかこの出会いが、
僕と彼女の運命を変えることになるなんて、
このときの僕はまだ、知る由もなかった。