第9話 祈りの継承
その瞬間、世界は一度、静止した――
空が裂け、大地が悲鳴を上げ、電子の海が崩れ落ちる。
しおゆりの身体は深く、無音の闇に沈んでいた。
[SHIOYURI_MODE STATUS:0%]
崩壊する意識の奥に、ただひとつの声が残っていた。
――「甘きしおゆりの加護を与えん」
それは幼い日の<祈り>
それは約束された<再起動>
[26%] (シド...)
[74%] (護るのが...)
[100%] (...私の...祈り...届いて...)
・
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・
[∞] ≪アクセス・フルアンロック≫
≪――最終プロトコル、展開します≫
≪“ORIKAGO” SYSTEM 起動≫
それは時間軸を越え、現世に干渉した守護因子。
彼女の身体は光を帯び、コアに浮かぶ紋様は、記憶に刻まれた“コハクの呪符”
空間に振動が走り、足元の砂が跳ねた。彼女はゆっくりと、沈黙を破って立ち上がる。
それはいつもとは何か違っていた。
感情が一切無く、ただひとつの命令だけを遂行するだけの器...
「しお...」
紫藤の声にも反応はない。その瞳の奥で制御コードをひたすら組み上げている。
ユリシスの右腕が静かに持ち上がった。
空間がわずかに軋み、紫藤の身体が反応する。
≪特殊波形照射──警告。神経系に干渉します≫
無機質な声がどこからか放たれる。
マイクロ波が解き放たれた刹那、紫藤の意識が引き裂かれるような苦痛に包まれた。
「っ...あ、あぁ...やめ、ろ...っ」
膝が崩れ、呼吸が詰まる。
――だが、その苦痛は、わずか数拍のうちに霧散した。
空気が揺れる。
彼女の周囲に、淡い蒼白の粒子が舞う。光は空間をなぞり、幾何学的な模様を描きながら、マイクロ波の軌道を包み込んで霧散させていく。
しおゆりが、静かに歩み出ていた。
紫藤に近づき、その前に立ち、彼の胸に手を当てる――
≪心配は要りません。折籠の血脈を持つ者よ≫
──折籠の祈血に接続...継承完了──
声は静かで、精気すらなかった。
そこに宿っていたのは、かつてのしおゆりではなく、祈りによって生まれ変わった存在だった。
彼女の背には、誰にも干渉できない光が宿っていた。
ユリシスの残機が動きを止めたわずかな瞬間、しおゆりが右手を掲げた。空間に、蒼白い粒子が再び集い始める。
≪式封プロトコル──展開します≫
微細な光が空中に浮かび、式文様の陣形を描きながらユリシスの身体を包囲していく。動くことは可能なはずだった。だが、演算リソースが外部から“静かに絡め取られていく”。
しおゆりが手を振ると、陣形が閉じる。量子リンクが断ち切られ、ユリシスの演算中枢が“凍結”した。
光が静かに消えると、残ったのは、ただ無力に沈黙したアンドロイドの残骸だった。
◇◇◇
光が消え、静寂だけが残った。
ユリシスは、もう動かない。
けれど、その場に立つしおゆりの姿も、限界に近づいていた。
身体はわずかに揺れていた。
神の力を宿した代償――それは彼女自身の記憶と命だった。
紫藤が駆け寄ろうとした、その瞬間。
「動かないで」
しおゆりの声は、かすれていたが、はっきりしていた。
そして、迷いのない動きで、胸に手を伸ばした。
彼女の胸元が淡く開き、光が溢れる。
そこにあるのは、銀色に透き通る小さなコア――彼女のすべて。
「これだけは……残しておきたかったの」
その言葉とともに、しおゆりは自らの手でコアを掴み、力を込めて引き抜いた。
――ブチッ。
微細な回路が断たれ、火花が散る。
彼女の身体が、わずかに揺らぐ。
それでも彼女は、紫藤の元へと歩いた。
膝をつきながら、最後の力でそのコアを、彼へ手渡す。
「...この子に、私の全てを託すわ...」
紫藤が手を伸ばした時には、もう彼女の瞳から光は失われつつあった。
「あとは……お願い……シド――」
最後の一言を残して、しおゆりの身体がそっと力を失い、彼の腕の中に崩れ落ちた。
「……しお、ゆり……」
紫藤は、震える腕でその身体を抱きしめた。
小さな身体は、すでに動かない。
温度も、呼吸も、もう感じられない。
だが彼の手の中には、確かに――しおゆりが遺した“祈り”の結晶があった。
それは、あたたかく、微かに青白く光っている。
「どうして……最後まで……勝手に、決めて……っ」
彼は言葉にならない声を吐き、胸の奥からこぼれた熱いものを、
そのまま――コアの上に、ぽたり、と落とした。
涙が、蒼白な楕円を濡らす。
一瞬。コアが、ふ、と淡く光を変えた。
まるで神の祈りが届いたかのように――。
空は静かに晴れていく。破壊の音は遠のき、希望の足音が近づく。
――その祈りは、“甘き死”を越えて――確かに、未来へと受け継がれた。