第2話 孤独な現実
――あの時、姉は何気なく、俺にスマホを差し出した。
「私がつくったGPSアプリ、入れといて。いざってとき用」
その“いざ”が、こんなにも長い別れになるなんて...あの時の俺には、想像もできなかった。
意味もわからずスマホにインストールさせられたそれが、姉・折籠砂百合との最後の会話になった。
あれから半年。東京の空は濁った灰色で、時計の針だけが過去を刻んでいた。姉がいなくなってから、世界は少しずつ壊れ始めた。人も、インフラも、信頼も、音を立てて崩れていく。
大学は休講が続き、SNSは一斉に沈黙し、街には見たこともない無人機が飛び交うようになった。何もかもが変わったようで――けれど、ふとした瞬間に思い出すのは、姉の優しさだった。
朝が苦手だった俺を、布団ごと引き剥がして起こしてくれたこと。誕生日にこっそり手紙を忍ばせてくれたこと。幼いころに両親が死んで、度々怖い夢でうなされていた時、いっしょに寝てくれたこと。俺は、そんな姉の手のひらで生きていた。だから――何かが欠けたまま、ずっと前に進めないでいた。
ある朝。沈黙していたスマホが、突然振動した。
「なんだ...、これ...」
画面に浮かんだのは、見慣れない座標データ。そして“SIDO”という文字――
「...まさか、姉ちゃん...あのアプリ」
あのとき、半ば強制的にインストールされたセキュリティアプリ。
姉が以前、何らかの非常時に備えて仕込んだ通信補助モジュール――
それでも、今になって反応が来るとは思っていなかった。その文字を見た瞬間――胸の奥で、何かが確かに叫んでいた。
俺は、姉が残してくれたバイクに跨がり、座標データの方角へ向かった。ガソリン携行缶と簡易工具。「何かあったら、これを使って逃げなさい」と言い残していた姉の言葉を思い出す。
信号の座標地点は、昔よく訪れた福島の海岸線の近くだった。少し内陸に入った先には、母方の祖父母が住んでいた家がある。
今は誰も住んでいないが、非常時の避難先として使えるよう整備されていた。
「この辺、だよな...」
波が引いた砂の中に、黒い機械の破片のようなものが埋もれていた。
俺は足を止め、無意識のうちにそれを掘り出す。それは、拳ほどのサイズの楕円形コア。
表面には微細な回路が浮かび、中央にうっすらと輝くスリットが入っている。まるで“目”のようにも見えた。
俺はそっとそれに触れる。
ピピ、と微かな電子音が鳴り、砂まみれだった表面に文字が浮かび上がった。
【SIDO SYSTEM ... CORE LOCATED】
【Security Interface & Defense Operator システム起動準備完了――】
「......しおゆり」
俺は、なぜかその名前をぽつりと口にしていた。その名を言った瞬間、胸の奥で何かが脈打つ。懐かしさでも、戸惑いでもない。
ただ――確かに何かが、繋がったような気がした。
「...俺だよ。折籠紫藤。お姉ちゃんの弟。”しぃくん”って呼ばれてた!」
砂浜に響いたのは、機械的な認証音。その電子音が、なぜか懐かしく感じた。
【音声認証一致率:97.2%】
【個人ID:SHIDO ORIKAGO】
【保護対象ステータス:最優先保護対象】
ぴっ...かすかな電子音とともに、端末のディスプレイに文字が浮かぶ。
『しぃくんへ』『心配しないで。この子”しおゆり”があなたを守ってくれるわ』
...まるで、姉の声が今もそこにあるようで。その言葉に、俺は崩れそうになった。壊れた世界の中で、ひとつだけ繋がっていたもの。誰も知らない祈りが、確かにそこにあった。