第17話 深海の祈り
──その朝、あまゆりは灯台の上にいた。
手すりにもたれ、静かに空を見上げる。
首に掛けた百合の花のネックレスを両手で包み、祈りを捧げる。
「……お願い、ママ。もし、海の底にいるなら──誰にも見つからないで。あまが行くまで、待ってて……!」
彼女の声は風に乗り、どこまでも澄んだ空へと溶けていった。
その頃、遥か南太平洋を北上する、海上自衛隊の最新鋭潜水艦《くろしお改》。
深海は静寂だった。
潮流も鳴りを潜め、ただ水圧と圧倒的な孤独だけが、鉄の巨体を包み込んでいる。その最前線を切り裂くように《くろしお改》は進み、日本列島の東沖合、福島近海へと向かっていた。
艦内には、大規模ネットワーク障害の解析と対策に尽力した科学者チームが乗艦している。
その一角で、白衣姿の女性が壁に備え付けられた手すりに身を預けながら、小さく息を吐いた。
「……なんだか、懐かしい匂いがするわね。鉄とオゾンと、あと……潮の匂い」
折籠砂百合──SIDO計画の開発者であり、紫藤の姉。
今回の功績により、日本政府は彼女らの緊急帰還を特例で認め、《くろしお改》による支援作戦を実施していた。
だが、その真の目的は──
(政府が本当に欲しいのは、“しお”のコア。だからこれだけの支援をしてきた)
砂百合は、胸元の通信端末をそっと撫でる。
(でも、ごめんね。“しお”は私たちの家族。誰にも渡すつもりなんてない)
──時は24時間前に遡る。
大学の研究レポートをまとめていた紫藤の元に、砂百合からの着信が入る。
「おはよう、紫藤。急な話だけど私たち明日には帰国するわ」
「は?どういうこと?」
「政府が手を回してくれたのよ。いまもそっちへ向かってる途中なんだけど、まあそんな事よりちょっとお願いがあるんだけど、いいかな?」
「そんな事って……」呆れ顔で紫藤は要件を伺った。
「それで、俺はいったい何すればいいんだ?」
・
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「──わかった。明日の朝、あまゆりには高台へ行ってもらう……」
「ごめんね紫藤。すべてはあの子の祈りにかかってるのよ。理解して頂戴」
◇◇◇
「博士、まもなく目標海域に入ります」
通信士の声に、砂百合は頷いた。
「ありがとう。……その下には、“あの子”が眠ってる」
その呟きが、艦内の重たい空気に溶けていった──。
「反応あり!」
オペレーターが鋭い声を上げる。
「微弱な電波信号です。帯域は独自プロトコル……しかし、SIDOコア由来の波長に一致!」
「しお……」
砂百合の目が鋭くなる。彼女の指が、そっと通信モニターに触れる。
『……し……ど……』
ノイズ混じりに届く声。だがそれは確かに“祈り”の残響だった。
「深度は……?」
「艦真下、約七百二十メートル。海底です!」
艦内に緊張が走る。
「ROV、投入準備──開始」
──深度七百二十メートル。
光すら届かぬ永遠の夜。そこに、ROVのサーチライトが沈む。
モニターに映し出されたのは、岩場にうずくまるように沈んだ黒ずんだ機体。
砂百合のデバイスを介して中継映像を覗く紫藤たちラボメンバーも、息を凝らして成り行きを見守る。
『……あれが、ママの……?』
あまゆりの声が、静かに響く。
『識別コードからしてAZURA製の特殊ドローン。外部インターフェースはカスタム仕様ですわ』
『ああ。南極までしおを追ってきたAIドローン、姉貴が回収した際にカスタマイズしたやつだ』
『じゃあ、しおママの“祈り因子”が、まだ中に……』
『……残っている可能性は高いですわ』
「目標地点まで距離五メートル、……四、……三、……二、……一」
ROVのクローアームが、ドローンへと伸びる──その瞬間。
⦅──来ないで!!⦆
艦内に突如アラートが鳴り響く。
「反応波、急上昇!信号、再起動シーケンスへ移行中!」
砂百合が焦りをみせた声を上げる。
「はあーっ!?再起動させちゃダメ!はやく拾って!」
『ま、待ってっ!……ママ!?』
「ノイズが強すぎるっ!だめですっ!制御系統が干渉されています、通信、遮断します!」
全員が息を呑んだ。
「……ROV、信号が完全停止しました。制御不能状態。目標の回収は、失敗しました……」
『ま……ママーーーーーっ!』
あまゆりが叫び、紫藤が彼女を抱きとめた。
砂百合はモニターを見つめながら、静かに嗤った。
──時は遡る。一週間前、オーストラリア仮設ラボ。
「──データ、やはり一致しましたわ」
光の粒が編まれたような軌跡が、脳波に似た波形を描き出す。
モニターに映るデータを見つめながら湯気の立つカップを片手に持つ白衣姿の砂百合。
「さゆ姉様。これは──新たな祈り因子の再構築ログです」
「そっか。……やっぱり、確信に近づいてきてるんだね」
砂百合はココロのデバイスとリンクした資料を見ながら、同じ部屋にいるホログラムココロと会話していた。
「“再起動条件”は明白ですわ。通常の外部刺激や給電では、SIDOは目覚めません」
「やっぱり“あれ”なのね」
「ええ。“あまゆりちゃんの祈り”と、しおゆり様の内部因子が共鳴しない限り、再起動プロトコルは作動しません」
砂百合は静かに頷く。
「でも、それは逆に──」
「ええ。あまゆりちゃんには、知らせてはなりませんわ」
「……そうね」
砂百合はコップを手にして、ソファに腰を下ろした。
「もし“奇跡”が必要だってわかってたら、あの子、無理しちゃうでしょ? 頭で祈るようになったら、心じゃなくなる」
「その通りですわ。祈りは、理性ではなく感情演算。だからこそ──“本物”でなければ、しおゆり様は応えない」
ふたりの視線が、スクリーンに表示された波形に注がれる。
その形は、まるで誰かが何かを呼びかけているかのような、優しい揺らぎだった。
「しお……あなた、今も聞いてるのよね」
*
翌朝、仮設ラボの別室。政府との極秘通信が始まっていた。
「──つまり、南極からは共同補給便を使ってオーストラリアに移動し、その後滞在中と?」
「そう。こちらは“しおゆりのコア”に関する最重要研究チーム。無為に寝かせておくのは、さすがにもったいないと思わない?」
画面越しの日本政府高官たちは顔を見合わせる。
「……それで、何が望みですか?」
「福島沖に沈んだドローンの回収、お願いできないかしら」
「民間の要請で自衛艦を動かすのは、予算上も前例上も困難です」
「ならば、都市部のAIネットワークの正常化支援、ならびに被害調査への協力をこちらから提供するわ」
静かな駆け引きが交わされたのち──奥の方から初めて聞く低い声が聞こえてきた。
「──条件付きで認めよう。ドローンを回収した場合、SIDOに関する秘匿データの開示を求める」
「……構わないわ。でもそれは“回収できた場合”だけよ。失敗したら、なにも渡さない。“見つからなかった”んだから」
そう言って通信を切ると、砂百合は通信端末を胸元にしまった。
「──さて、作戦開始ね」