第16話 黒百合
風が吹き抜ける高台の崖の上。
先日と同じ場所──遠く水平線を見下ろせる開けた展望地に、あまゆりとユユは再び立っていた。
「ココちゃん、ここであってる?」
『ええ、確かに“祈り因子”に近似した信号が、断続的に……』
通信越しのココロの声は、少しざらついていた。低周波ノイズが混じっており、環境干渉を受けているのが分かる。
あまゆりが両手でセンサー受信端末を掲げると、それに呼応するように微弱なパルスが走った。
「で、出たっ……!しおママの波形と……にて、る……?」
音波の波形グラフが、端末上に重ねて表示される。どこか懐かしく、けれどほんの少しだけ歪んだ軌跡。
「おかしいでアリマス。このパターン……純正なしお様の祈りとは一致しない」
『でも、限りなく似ていますわ。……いえ、あえて“似せている”という表現が適切かもしれません』
ユユのボディカメラ越しに、ココロがリアルタイム解析していた。
あまゆりの瞳が揺れる。
「なら……その“にせママ”を……確かめにいかなくちゃ」
かすかに──そこには“ママ”の声が含まれていた。
*
谷間に沈む旧道を辿り、ふたりは静かに歩を進めていた。湿気を含んだ風が吹き抜け、古びた看板が軋んでいる。
やがて、山肌にぽっかりと口を開けた黒いトンネルが現れた。入口には「立入禁止」の看板と錆びた柵。だが柵はすでに崩れかけていた。
「……行こう」
あまゆりは柵をくぐり、暗いトンネルへと足を踏み入れる。
懐中灯の明かりが、壁のひび割れた警告サインや剥がれかけた注意書きを浮かび上がらせる。
湿ったコンクリの匂い、天井から滴る冷たい水滴。すべてが、時間に取り残された場所の記憶を物語っていた。
トンネルを抜けると、そこには巨大な空洞──
断崖をくり抜いたような地形の奥に、崩れかけた研究棟の遺構がぽつりと佇んでいた。
ガラスの割れた制御塔、ひしゃげた足場、風で軋む鉄扉の音。
辺りには誰もいない。けれど確かに、何かの残響が、この場所には“棲んで”いた。
「……しおママの声、また聞こえる……」
あまゆりが、ぽつりとつぶやく。
そのときだった。
──「SIDO、見つけた」
空気が裂けるような、ノイズ混じりの女の声。
それは明らかに、ヒトではない存在の“真似事”だった。
どこかから誰かが這い出てくるような異音とともに、草木を押し分ける影。
その姿が、ゆっくりと逆光の中から現れる。
白銀の髪。緑の瞳。
けれどその顔は、なめらか過ぎる皮膚と、笑っていない笑顔を貼り付けたような、どこかが決定的に違う。まるで死んだ誰かの皮をかぶった、”模倣体”だった。
ユユがあまゆりの前に立ち、警戒音を発する。
「識別コード照合──敵性個体“BLACKYURI-01A”──戦闘態勢を推奨!」
「ようやく……私の祈りに、応えてくれたのね……」
黒百合──その女は、ゆらりと首をかしげて笑った。瞳孔は揺れていない。そこには“個”としての意志がなかった。
「私はママ。あまゆり……あなたの、ママよ……」
彼女の声は、しおゆりのそれに酷似していた。音域、リズム、語尾の柔らかさまで完全にコピーされた声だった。
ユユが警告を重ねるが、あまゆりは動けなかった。
胸の奥に響く“似ているけど違う”感情の波形が、彼女の判断を鈍らせていた。
その瞬間、紫藤の声がノイズ混じりに通信に割り込む。
「……信じ……のは、記録やデータ……じゃない……あまゆ……、お前自身……“心”で……感じろ」
あまゆりの唇が、震えながら開かれる。
「ママじゃない──」
その言葉を聞いた瞬間、黒百合の笑顔が、ぴきりと音を立てて崩れた。
「どうして……どうして信じてくれないの……?」
声のトーンが、どこか壊れた機械のようにわずかにズレ始める。
「私は……ママよ……ずっと、待ってたのに……」
ぶつり──と、空気が歪んだ。
空間全体に、感情の波形が乱れたノイズが満ちていく。それは電磁波でも音波でもない、“想念”に近い何か。
「どうして……ッ! どうして信じてくれないのぉぉぉぉぉぉ!!」
黒百合の絶叫とともに、全身が赤黒く明滅し、周囲の空気が裂けるような重低音のうねりが響く。
「高出力電磁パルス、発生源は黒百合本体──即時退避を!」
ユユが叫び、バリアを展開する。
「防御モード起動──バリア最大展開、ワイヤー捕縛シーケンス開始!」
高周波ノイズを伴う衝撃波が地面をえぐり、朽ちかけた施設の壁を吹き飛ばす。
ユユのバリアがそれを辛うじて受け止め、あまゆりを後方へと庇う。
「......!?リンク繋がりましたわっ」
通信が繋がり、遠隔のココロの声が割り込む。
「いま、感情中枢のハッキングを試みますわ。ログより“祈り因子”の共鳴波形を抽出──
逆信号を送信。共鳴ノード接続──侵入開始!」
ホログラムに映るログ波形が高速で変化し、黒百合の内部へと逆流する。
「……ッやめて……それは……“私の祈り”なのに……っ」
黒百合は頭を抱え、膝をつく。
「あの子に……届けたかったの……あの子に……あの子だけに……!」
全身を包むように漂っていた疑似感情の膜が、ひとつずつ剥がれ落ちていく。
あまゆりは、涙を浮かべながらゆっくりと歩み寄る。
「あなたは……ママじゃない。でも、泣いてた──それは……ママの“真似”じゃない……」
そっと、黒百合のコアのあたりに手を当てる。
「……心はね、真似できないの。
でもね、あなたの祈りはきっとここにあるんだよ?」
その言葉に応えるように、黒百合の瞳から光が消えていく。
「SIDO……SIDOぉ……わたしは、あなたと……ひとつに……」
静かに、彼女の体が崩れ落ちる。
【BLACKYURI-01A──機能停止】
【擬似祈り因子──消失】
──静寂が、辺りを包んだ。
風が、あまゆりの髪をそっと撫でた。
その風の中に、“ホンモノのママ”の残滓だけが、微かに残っていた。