第10話 未来のかたち
空は、まだうっすらと霞んでいた。
けれど、遠くの水平線には、どこか希望の色が差し込んでいる気がした。
しおゆりが以前眠っていた地下倉庫。その一室で、俺は静かに息を吐く。
「……これで、よし」
彼は工具を置き、端末を閉じた。
機材の整理を終えた部屋には、どこか温もりがあった。
かつてのラボとは違う。だが、ここは“彼女”と数日だけでも共に過ごした、かけがえのない場所だった。
今は隣に彼女の声も気配もなくて...静けさが、やけに沁みる。
コアから復元されたしおゆりのデータは、ほとんど消失していた。
奇跡的に残されたほんのわずかなプログラミング的思考だけ。
ユユと協力しながら数日間かけて調整を重ね、彼女は再び彼の前に現れた。
だが、そこに立っていたのは、あの“しおゆり”ではなかった。
白銀の髪、あどけない瞳、小さな手足。
それは、かつてのAIが遺した“祈り”を宿した、新しい存在。
「……起動、完了……なの?」
俺は胸が、じわりと熱くなった。
「おかえり……」
俺は、目の前の小さな存在を見つめていた。
ふと、小さな手が俺の袖をちょこんと掴む。
「ねぇ……あなたは誰?」
その問いかけに、俺は少しだけ目を細めて笑った。
「俺は……紫藤。折籠 紫藤だ」
「おりかご……しどぉ……?」
そのときだった。
ぽろり、と。
彼女の頬を、一粒の涙がつたった。
自分でも気づかないまま流れたその涙に、彼女は小さく目を見開く。
「……なに、これ……? わたし……涙? どうして?」
俺は、ゆっくりと彼女を抱きしめ、穏やかな声で答えた。
「それはきっと……しお、お前のママが残した“想い”だ」
「記憶じゃない。でも、心に宿った祈りは……ちゃんと届いてたんだよ」
「わたしのママ?」
「ああ。しおゆりって言って、俺にはいつも塩対応で、でも強くて、優しくて、不器用で……」
涙が出そうになるのを必死でこらえる。
「っ!そうだ、お前にも名前つけないとな。えーと……」
「──“あまゆり”──」
その名に込めた想いを伝えるように、彼はそっと続ける。
「しおゆりの魂も、願いも、あまゆりの中にある。……だから、俺たちは家族だ」
その言葉に、あまゆりの瞳がぱぁっと明るくなり、にこっと微笑んだ。
かつて“塩百合姉ちゃん”とからかっていた姉とのやりとりが、脳裏に蘇る。
「……あ~もう、あんたって本当に要領悪いのね。なんでこんな簡単な計算ミスすんのよ」
「うるせ~な。姉ちゃん、いつもそんな塩対応だから彼氏もできないんだぞ~」
「何ですって? 私ほど甘甘な人間はいないわよ!」
「どれだけあんたを甘やかしてきたと思ってるの? 全世界がうらやむほどのしぃくん溺愛姉ですっての!」
「はいはい、“塩百合姉ちゃん”」
「誰が塩よ! 百合は好きだけど、塩は違うの~!」
塩対応と甘甘の対比、その記憶が、いま新たな意味を持った名前として形になる。
「“塩”は守護と清め、“甘”は喜びとぬくもり──しおゆりの“しお”に、あまゆりの“あま”を足して……
ふふ、これなら、世界一強くて優しいAIになるだろ?」
そう。俺はこの子に、そう名付けたのだ。
“塩百合”と“砂百合”を繋ぐ祈りの結晶として。
小さな手が、俺の手をぎこちなく握る。
そのぬくもりは、確かに“生きている”と感じさせるものだった。
窓の外には、咲き始めた花があった。
冬を越えて芽吹いたその花は、小さくも力強く揺れていた。
──命は、形を変えて、再びここに芽吹いたのだ。
そのとき。
通信端末が、短く電子音を鳴らした。
そこには──見覚えのある送信元。
“折籠砂百合”の名が浮かび上がっていた。
「……姉ちゃん?」
驚きと共に、俺の胸にひとつの予感が灯る。
姉から届いたそのメールは、再び世界が動き出す予兆だった。
彼は小さく息を吸い、窓の外の空を見上げる。
そこにはもう、灰色だけじゃない。
どこか、未来の色が混じっているように見えた。
(第1部 完)