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婚約破棄されたら【血染めの契約書】が届きました──それは、貶められた私が再び幸せになるための切り札だったようです。

作者: なおりん

「……婚約を、破棄させてもらうよ」


 風のない庭園。今しがた散った花びらが石畳に落ち、どこか冷たい空気ばかりが漂っていた。


 ラウル・ガルデンはそう言い放つと、わたしの目をまっすぐには見ようとせず、わずかに顔を背ける。先ほどまで当たり前のように隣にいた人が、いつの間にか遠ざかっている気配。それだけで胸が痛んだ。


「え……今、何て……?」


 わたし──リュシア・エルフィードは、言葉の意味を理解するより先に、足元が崩れていくような感覚に襲われた。彼はわたしの婚約者。……いや、つい先刻までは、というべきだろうか。


「君と婚約を続けるのは、どうにも不合理でね。ほかにもっと有利な縁談があるんだ。家の意向もそうだが、僕自身もここで無益に時間を費やすわけにはいかない」


 まるで仕事の打ち切りを通達するような、冷え切った声。いつも淡々としている人だったけれど、婚約破棄という重大事までこんな風にあっさりと進められるとは思いもしなかった。


「待って。そんな急に……わたし、何かした……? 理由を言って」


「理由? あえて挙げるなら、君ではもう釣り合わなくなった。それだけさ。わかるだろう?」


 ラウルは何事もないかのように首を傾げる。まるで、犬を捨てる飼い主のような態度。いや、犬ならまだ拾い手があるかもしれないが、今のわたしは紙くずのように放り出されている気分だ。


「……そんな……」


 言葉がのどにつかえ、うまく出てこない。プロポーズされたときは、それなりに優しい笑みを浮かべてくれたはずなのに。それすらも演技だったのだろうか?


「じゃあ、失礼する。後の話し合いは両家同士できちんとまとめておくつもりだ。君がしがみついても無駄だから、悪あがきはよせよ」


 無慈悲すぎる言葉に、わたしは息を呑む。ラウルは踵を返し、微塵も迷いなくその場を立ち去った。


 庭園から屋敷までの道が、こんなに長く感じるなんて。石畳を踏むたび、靴音がやけに大きく響いた。


 まさか、こんな形で婚約が終わるなんて……。どうして、こんな理不尽が許されるの?


 屋敷に戻ると、玄関先でわたしの母が待っていた。けれど、その表情は気遣いなどなく、むしろあきらめに近い色が浮かんでいる。


「ラウル様が、そう仰るのなら仕方ないわね。あなたのことは、我が家の政略に必要だと思っていたけど……それもここまでよ。今さら取り戻せるとも思えないし」


「お母さま……わたし、そんな話は聞いてない……」


「父さんも同じ気持ちだと思うわ。エルフィード家として、ガルデン家との縁がなくなるのは痛いけど、向こうが断固としているのならどうしようもないでしょう?」


 母はさも面倒だという調子で肩をすくめる。まるで、わたしの心の痛みより、取引が破談に終わった事実のほうが重要だと言わんばかりだ。


「……でも、わたしの気持ちは……」


「気持ち? あなたは家の都合に合わせて婚約したのだから、今さら何を言っても無駄よ。しばらくして落ち着いたら、別の縁談を探さないとね。もしかしたら、どこか余所の小貴族が拾ってくれるかもしれないわ」


 そんな……。わたしは政略の道具なのかもしれないけれど、それにしてもあまりに冷たい。婚約が破棄されたのはつい今しがたで、ショックで頭が真っ白になっているわたしを慰める一言もないというのか。


 父も母も、ラウルがわたしを捨てると言うなら仕方ない、という意識なのだろう。どんな事情があろうと、向こうが優位だと見ていたのかもしれない。


 そうか、わたしはそういう存在だったんだ。改めて思い知らされる。捨てられたわたしに価値などない、と。


 部屋に戻り、重い身体をベッドへ沈める。頭の中はぐちゃぐちゃで、涙すら出てこない。ラウルの冷淡な眼差し、母の冷ややかな言葉──すべてがずんと胸に突き刺さる。


(どうして、わたしばかりこんな仕打ちを受けるの……?)


 婚約破棄の理不尽を突きつけられたわたしには、逃げ道も光も見当たらない。このまま何もできず、ただ婚約を解消されて終わるのだろうか。


 閉じた瞼の裏で、ラウルの横顔がちらつく。彼は少しも情を見せなかった。もっと有利な相手が見つかったら、以前の約束をあっさり切り捨てていいというのか。


(悔しい……どうにかして、この状況を変えたい)


 でも、何をすればいいのかがわからない。家も味方してくれないし、わたし一人にできることなど……。


 暗い天井を見つめながら、わたしはどうしようもない絶望に沈んでいく。こんなにも報われないのは、いったいなぜ。たとえ政略結婚であったとしても、最低限の誇りは守られたはずなのに。


 まるで底のない沼に足を取られたようで、もがいてももがいても出口は見えない。これでわたしの人生は終わってしまうのだろうか。


 理不尽。あまりにも一方的な破棄。


 そんな呟きが頭を駆け巡り、いつしか意識が遠のいていた。どん底のまま眠りに落ちたわたしの胸には、一つだけ『いつかこの仕打ちを見返してやりたい』という微かな想いが宿り始めていた──。




* * *




 翌朝、うっすらと陽の光が差し込むなか、わたしは重苦しい頭を抱えたまま起き上がった。


 昨日の婚約破棄。あれは夢ではなく、紛れもない現実だ。考えれば考えるほど胸が締めつけられ、もう一度布団に潜り込みたくなる。


 けれど、そんな意気消沈の朝に、屋敷の門番がやってきて「リュシアお嬢様あてに差出人不明の荷が届いております」と告げた。それだけでも嫌な予感がしたが、メイドたちがざわめいているのを見て、さらに不安が募る。


「何だろう……ラウルからの嫌がらせの手紙でも……?」


 そんな独り言さえこぼれた。誰かに責められるのではないかと、心臓が苦しくなる。とはいえ断るわけにもいかず、わたしは部屋へ戻り、件の小包を確認することにした。


 部屋に置かれた木箱は手のひらサイズより少し大きく、雑な布で巻かれている。開けてみると、中にはいかにも古めかしい書物。しかも、表紙には真っ赤な染みのようなものが斑点状に広がっていた。


「え……なに、これ……?」


 開いた瞬間、鼻をつくような鉄のようなにおいを感じた気がして、思わず顔をしかめる。それはわずかな残り香かもしれないが、気のせいではないほど生々しい。


「【血染めの契約書】……?」


 その綴じられたページの先頭部分に、かろうじて古い文字が残っている。「血を捧げし者に、破滅を回避する力を授ける」……と、うっすら読める気がしたが、書体が崩れていて正確にはわからない。


 まるで悪い冗談のようなその書物を前に、わたしは言葉を失った。破滅を回避する力──そんな都合のいいことがあるわけない。けれど、こうまで追い込まれた今のわたしには、藁にもすがりたくなる。


「リュシアさま、失礼します」


 コンコン、と扉をノックして入ってきたのは、執事見習いのエルバート・フィオラだった。わたしより少し年下なのに、いつも落ち着いていて頼りになる青年だ。幼いころからエルフィード家に奉公しており、わたしの雑務を含め、あらゆる場面で支えてくれている。


「朝早くから申し訳ありません。先ほどの小包について、お怪我はございませんか。妙なものが届いたと聞いたので、気になって……」


「ええ、今ちょうど見ていたところよ。エルバート、ちょっとこれを見てちょうだい……」


 わたしが箱の中身を見せると、エルバートはわずかに息をのんだ。表紙の赤黒い染みを見て、嫌な予感を抱いたのかもしれない。


「これは……ずいぶん不穏な書物ですね。差出人不明ということは、どなたかがわざと……?」


「さあ、わからないけれど……『破滅を回避する』なんて、まるでわたしの状況を知っているみたい。正直、気味が悪いわ」


 エルバートは真剣な面持ちで書物を手に取り、ぱらぱらとページをめくってみる。血のような染みが目立ち、文字もほとんど判別しづらい。かろうじて読める断片には、呪術めいた文言が並んでいる。


 その瞬間、わたしの耳に微かな声が響いた。


「汝の血を……捧げよ……」


「……なっ……?」


 驚きに息をのみ、思わずエルバートの腕を掴んだ。でも彼は何も聞こえていない様子で、ただ険しい顔をしている。


「リュシアさま? どうかされましたか?」


「い、いえ……ごめんなさい、なんでもない。ちょっとクラッとしただけで……」


 本当のことを言うのが怖かった。彼に「書物が語りかけてきた」などと言えば、気がおかしくなったと思われるかもしれない。


「……しかし、この本は捨てたほうがいい気がします。もし呪われた代物だったら、リュシアさまに何か害が及ぶのでは……」


 エルバートが不安げに提案してくれるが、わたしは首を振った。昨日の出来事を思い出し、婚約破棄による傷と無力感がまた胸を締めつける。


「それは……もう少し考えるわ。今のわたしには、何か変えられる手段が必要なの。たとえこんな怪しい本でも、捨てるには惜しいかもしれない」


「でも……お嬢さまが危険にさらされるのは耐えられません。いっそ、わたしの血を使ってみるとか。もしこの書が血を求めるのなら、リュシアさまの指を傷つける必要もないじゃないですか」


 さらりと差し出されたエルバートの言葉に、胸が熱くなる。そんなにも心配してくれているなんて……。


「だめよ。それじゃあ意味がないんじゃない? わたしが破滅を回避したいのなら、わたし自身の血が必要だと思うの」


 きっぱり断ると、エルバートは少し悔しそうな顔で黙り込んだ。だけど、彼がそこまで献身的だという事実が、わたしの心をほんの少し温かくしてくれる。


(もしこの契約書が本当にわたしを救ってくれるなら……破滅を止められるかもしれない。ラウルに見下されっぱなしで終わるのは、あまりにも悔しい)


 わたしは本の表紙をそっと撫でる。冷たいはずの紙が、なぜか指先に絡みつくような熱を帯びている気がした。


「我の名はロウ=シグラーテ。あなたの血を捧げれば、望む力を得られるのだ」


 まただ。女性の低く透き通った声が、わたしの脳裏に直接響いてくる。エルバートの目には何も映っていないようだから、これはわたしだけに聞こえる『呼び声』なのだろう。


 恐ろしさがないわけではない。むしろ、これが本当に呪術だとしたら、代償がある可能性も否定できない。でも、昨日のように踏みつけられ、何もできないまま泣き寝入りして終わるのが嫌でたまらない。


「エルバート……ありがとう。わたしを気遣ってくれて。でも、これはわたし自身の問題だから。絶対に、わたしが自分で乗り越えないと意味がないの」


「……はい。お嬢さまがそうおっしゃるなら、わたしはそれを尊重します。ただ、危険だと思ったら、すぐに止めてください。いつでもお力になりますから」


 彼の真摯な言葉に、小さく微笑む。いまのわたしには、その優しさだけが心の支え。でも、この契約書にすがることが、果たして正しいのかどうか──まだわからない。


 そっとエルバートを退室させて、一人になったわたしは、小さく息をつく。指先の小さな痛みを怖がらずに済むなら、きっとわたしは前へ進めるはずだ。


「……破滅なんか、してたまるもんですか」


 重苦しい決意が胸を締めつける一方で、妙な昂揚も生まれていた。──本当に、この書がわたしに力を与えてくれるなら、どんな代償だろうと構わない。


(ラウルの言いなりになど、もう絶対にならない。わたしは、わたしの力で未来を変えてやる)


 そう呟いて、わたしは書物を両手で抱え込む。血を捧げる手段は、このあと考えよう。エルバートの献身を断ったのだから、わたし自身がやるしかない。


(エルバートは、きっとわたしを守りたいだけ。だからこそ、自分の血を使ってわたしを幸せにしようとまで言ってくれた。でも、そんなのじゃ、わたしが強くなれない)


 わたしの破滅を阻止するのは、わたし自身。決して人任せにはできない。恐怖と希望が入り混じる中、耳の奥ではロウ=シグラーテの声が再びささやきかけていた。


「汝の血を……その身に刻むならば、破滅を回避する道は開かれる。覚悟はあるか……?」


 わたしは、力なく笑う。覚悟なんて、もう決めるしかない。捨てられるのを待つより、この手でしがみついてみせる。


 それが正しいかどうかはわからない。でも、この暗い部屋に差し込む光すら、まるでわたしを急き立てるように感じた。わたしは震える指先で契約書を開き、目を閉じる。心臓が高鳴り、まるで何か大きな運命を背負い込んだような圧迫感が襲ってくる。


(破滅なんかしたくない。こんな形で終わるなんて嫌)


 弱々しい決意だとわかっている。でも、今のわたしにとっては、これしか道がない。破滅を回避する切り札──そう書いてあった以上、本当にそうならば賭ける価値があるはずだ。偽りなら、そのときは……。


「……絶対に破滅なんかしない……」


 声にならない声でそう誓うと、契約書の赤黒い染みが、いっそう濃く見える気がした。まるで手招きされているようで、背筋が寒い。


 けれど、不思議と後戻りはしたくなかった。わたしはゆっくりと手を伸ばし、紙の表面に触れる。ロウの声が遠くでかすかに響き、まるで「ようこそ」と迎えているかのようだった。




* * *




 翌日、まだ早朝というには少し明るくなりかけた時間。


 わたしは人目を忍ぶように屋敷裏の小さな物置へ向かった。ここなら誰も来ない。昨夜から眠れぬまま悩み、ついに『契約』を試してみると決めたのだ。


 胸の奥は不安に揺れている。もしこれが本物の呪術なら、いずれ恐ろしい代償が来るかもしれない。でも──すでに踏みにじられたわたしに、もう失うものなど残っていない気がする。


 古びた扉をそっと開け、埃まみれの棚をかき分けるようにして奥のスペースへ。ここでなら、血を捧げる儀式をしても気づかれないだろう。


 薄暗い空間のなかで、例の【血染めの契約書】をそっと取り出した。赤黒い染みのついた表紙が、まるで生き物のように静かな圧力を放っている気がする。


「……わたしの血で、本当に破滅を回避できるの?」


 つぶやいてみても、返ってくるのはわずかな沈黙だけ。だけど、次の瞬間、頭の奥に微かな声が響いた。


「汝が望むなら……。破滅を退け、道を拓いてやろう」


 やはり聞こえる。この女性的な、けれど冷ややかに澄んだ声。やはりロウ=シグラーテという精霊が宿っているのかもしれない。わたしは短刀を握る手に力を込め、小さく呼吸を整えた。


(痛みで怯んでどうするの。あの屈辱をもう繰り返さないためにも、ここで一歩踏み出さなきゃ)


 指先に短刀を当てる。薄く皮膚を裂いたときの鋭い痛みに息が詰まったが、すぐに小さな雫が滲んできた。その赤は契約書と同じ色合いを帯びている。


「……破滅なんて、絶対にいや」


 震える手のひらから滴る血を紙の上に垂らすと、じわりと吸い込まれるように見えて、思わずぞくりとした。まるで契約書自体が血を求めているみたいだ。


「汝の運命は、いま大きく揺らぐ……」


 また声が聞こえた。わたしは恐る恐る本を閉じ、背を預けるように柱に寄りかかる。さっきまで心臓が暴れるほどの恐怖だったのに、不思議と高揚感がゆっくりと胸に広がっていく。


(これで本当に破滅を回避できるなら……。いや、少なくともラウルに報いを与えられたら、どんなに痛快だろう)


 想像だけで血が沸き立つようだ。苦しさも少し和らぎ、むしろ「この力は本物かもしれない」と思いたくなってくる。代償が怖くないわけじゃない。でも、何もしなければあの日のように踏みにじられるだけだ。わたしは必死で自分に言い聞かせた。


「……リュシアさま?」


 後ろから声をかけられて、はっと振り返る。そこにはエルバートが立っていた。少し息を弾ませているのは、わたしのあとを追ってきたのだろう。


「あ、エルバート……。どうしてここに……?」


「申し訳ありません。お姿が見えなかったので、どこかへ行かれたかと。まさか物置にいらっしゃるとは思わず……失礼ですが、もしかして、例の書を使われたのでは……?」


 わたしが隠し持っていた契約書を見て、エルバートが眉をひそめる。彼の不安そうな表情を見た途端、なぜだろう、わたしはさっき感じていた『力の実感』が急に罪悪感に変わる気がした。


「ごめんなさい。エルバートには心配かけたくないから、言わずにやってしまったわ」


「いえ、リュシアさまのお考えは尊重します。……ですが、もしものことがあれば、本当に怖い。あまり血を扱うような行為は……」


 エルバートの言葉は優しく、そして強い意志をはらんでいる。身分差を弁えながらも、真剣にわたしの身を案じているのが伝わってくる。


「でも、わたし……。どうしても、何か掴まないといけないの。あの日のままで終わってたまるものですか。ラウルに踏みにじられて、そのまま黙っているなんて……」


 声がうわずってしまう。あの惨めさを思い出すだけで、心がちぎれそうになる。エルバートは苦しげに息をつき、そっとわたしの手を取った。先ほど指を切ったばかりでまだ血の跡が残っているのを見て、一瞬息を呑む。


「こんなに傷を……リュシアさま、ご自身を傷つけるなんて、やはりわたしには耐えられません。何もないとは言い切れないでしょう?」


「……ええ、わからないわ。もしかすると、この書は本当に恐ろしい契約なのかもしれない。でも、それを承知で試したの。代償を考えると、怖いけど……いまは後戻りしたくない」


 震える声でそう告げると、エルバートは目を伏せて唇を噛んだ。説得したいのかもしれない。でも、わたしの強い決意を感じて言葉にできないのだろう。彼の沈黙が、こんなにも切ない。


「エルバートが心配してくれるのは嬉しいわ。でも、もう大丈夫。……わたし、自分の力で立ち上がる。だから、あまり手出ししないで。あなたにまで代償を背負わせたくないし」


 その言葉に、エルバートの瞳が揺れ動いた。わずかに苦笑のような表情を浮かべる。けれど、その奥には諦めではなく、「わたしはいつでも傍にいる」という意志が感じられた。


「わかりました。リュシアさまがそこまで仰るのなら、わたしは遠くからでも見守ります。……ただ、くれぐれもお気を付けください」


「ありがとう、エルバート……」


 彼の温かな声は、揺れる心をほんの少しだけ和らげてくれる。破滅を予感する恐怖の海のなかで、彼の存在はわずかな灯火のようだ。だけど、わたしはもうこの書と契約してしまった──そう思うと、どこか後戻りできない背徳的な興奮もある。


 ふと、胸の奥でロウの声が響く。


「汝は、さらなる血を捧げれば、その渇きを満たせるのだ。破滅を防ぎ、汝の望みを叶えるために──」


 わたしの耳だけに届くその声に、エルバートは気づかない。静かに見守るだけ。そんな彼の優しさは時折わたしを緩めようとするけれど、心の根底には『見返したい』という苦々しい感情が渦巻いている。


(この書の力が本物なら、ラウルを後悔させることも、エルフィード家を見返すこともできるかもしれない。でも、本当に大丈夫なの……? いつか恐ろしい代償を払うのでは……)


 疑心と期待。両方が心を交互に支配する。どちらにしても、わたしはもう契約を始めた。このまま破滅してしまうかもしれない──そんな不安が込み上げるたび、胸がざわつく。


 そして同時に、それ以上の『負けたくない』という意思がわたしを動かす。逆に破滅さえも選べるほど、もう後がない覚悟だ。そんな危うい感情が、わたしの目を妖しく光らせるのを自覚する。


 エルバートの視線が痛いほど胸に刺さる。彼は何も言わず、わたしの手をかすかに握りしめるだけ。


 やがて、わたしはそっとその手を振りほどき、書物を抱えて物置を出た。


 代償など怖くない。いや、怖いけど、怯んでいられない。わたしはこの力を使ってでも、理不尽から這い上がる。それがいまのわたしにできる唯一のことだから──。




* * *




 翌朝。光が差し込む寝室で目を覚ましたわたしは、まず机の上に置いた【血染めの契約書】へ視線を向けた。


 胸の奥には不安が渦巻く。でも、エルバートの忠告を振り切るかたちで、わたしはこの書を本格的に使うと決めている。代償や危険があるかもしれない。けれど、わたしがラウルを見返すには、その危うい力を頼るしかない気がするのだ。


「……さらなる血が必要、か」


 ロウ=シグラーテ。女性の声で囁くその存在は、昨夜も微睡むわたしの耳元にささやいた。「もっと血を捧げれば、おまえの破滅は遠のくだろう」と。まるで理性を奪う魔性の甘い誘いに思えるけれど、それでもわたしは縋りたかった。


 小刀を取り出し、震える指先でそっと肌をかすめる。すぐに小さな傷ができて、鮮やかな滴が流れた。思わず痛みに息を呑んでから、書のページに指を近づける。吸い寄せられるように血が落ちると、なぜか頭が熱くなるほど高揚感が広がった。


(……これで、本当にわたしは破滅を避けられるの? それとも……)


 不安と期待がせめぎ合う。そのとき、まるで身体が軽くなったような錯覚に陥った。ひょっとすると、これこそ契約の加護なのかもしれない。


 正直、何か超常的なパワーが身体を駆けめぐるとか、そういう実感は薄い。だけど妙な自信がこみ上げてきて、「もう怖いものなんてない」と思えそうになる。


 服を整え、久しぶりに鏡を真剣に覗き込む。


 わたしはいつも地味と言われてきたし、婚約破棄を告げられてからはなおさら落ち込んでいた。けれど、今日はがらりと雰囲気を変えてみようと決意した。衣装部屋で、少し華やかな色のドレスを手に取り、髪も丁寧に結い上げてみる。


(わたしが変わってみせる。そうすれば、きっと周囲は──)


 まるで、自分が別人になったみたい。目に見えるほど違うことはないはずなのに、ドキドキとした昂揚感が背中を押してくれる。


 廊下へ出たとき、通りかかったメイドたちが少し驚いたような顔をした。「お嬢さま、なんだか今日は印象が……?」なんて口走っている。たったこれだけで嬉しくなる自分が情けないけれど、それでも婚約破棄後の暗澹たる気分とは比べものにならない前向きさだ。


 正午ごろには、わたしは街へ出かける支度を整えた。知り合いの貴婦人と顔を合わせたり、いくつかの商店を回るついでに、ラウルの噂を探るつもり。


 昨日の自分ならそんな気力さえなかった。だが今は行動あるのみ、そう思えるのは契約書の加護なのだろう。


「リュシアさま、お出かけでしょうか」


 屋敷の玄関でエルバートが控えている。彼は相変わらず、わたしを案じる眼差しを隠せない様子だ。けれど、わたしが少し華やかなドレスを身にまとった姿を見て、驚きと喜びが入り混じったような笑みを浮かべている。


「ええ、少し外の空気を吸ってこようと思って。家に閉じこもっていても仕方ないし、いまのわたしにできることを探したいの」


「わたしが馬車を用意いたします。……ですが、無理はなさらないでくださいね。もし何かあれば、すぐお呼びを」


 エルバートの声には微かな戸惑いも混じる。あの血の契約をわたしがさらに使うのではと心配なのだろう。実際、今朝も指を傷つけてしまったし……。だけどわたしは微笑んでうなずくだけにした。


「ありがとう。あなたの優しさには感謝してるわ。けれど、あまり心配しすぎないで。破滅するかしないかは、わたしが決めるから」


 その言葉に、彼の瞳が苦しげに揺れる。けれど、何も言い返さない。わたしはそれを、後ろめたさと同時に『彼に迷惑をかけずに済んだ』という安堵で受け止めた。


 馬車に乗り込んだわたしは、想像以上に落ち着いた心境で街へ向かった。これまでなら人目を気にして俯きがちだったけれど、今日は背筋を伸ばせる。その一挙手一投足に確かな自信が湧いてくる。


(ラウルに捨てられた女、なんてもう言わせたくない。わたしはもっと優秀で、もっと誇り高い存在でいられるはず……)


 馬車を降り、広場を歩いていると、「あれ、エルフィードの令嬢じゃない?」とか「結構堂々としているわね」といった囁きが耳に入る。


 見られている緊張はあるが、妙に嫌な気分はしない。むしろ、「注目されるのも悪くないわ」と思える。


 貴婦人たちが集うサロンに顔を出すと、何人かがわたしを遠巻きに見ながら、「噂によると、ラウル様との縁談が破断になったらしいけど……」などとひそひそ話す声が聞こえた。


 しかし、わたしは気にせず、にこやかに会釈を返す。昨日までの沈んだ表情とは正反対だからか、相手も戸惑いながら挨拶を返してきた。


「リュシアさま、なんだかいつもより……お元気そうですね」


「ええ、おかげさまで。……少しは外の空気を吸って変わろうと思ったの」


 本当は血染めの契約書にすがっているだけ。だけど彼女たちは事情を知らない。わたしの堂々たる態度を見て、意外そうに頷く。


あんなに悲嘆に暮れていたかと思ったら、すぐに立ち直るなんて」と感心されると、わたし自身も「ああ、効いてるんだ」と思えてくる。


(こうやって周囲の注目を集めるのも、契約の効果なのかしら……。でも、どうでもいい。ラウルを見返せるなら、わたしはこの調子で前へ進む)


 その後いくつかの商店を回っていると、新しい噂が耳に入る。


 どうやら、ガルデン家の財政が大きく揺らぎつつあるらしい。別の縁談相手の家にも借金が絡んでいて、ラウルはあまりよい形で結婚できないとか……。真偽はわからないけれど、わたしの胸に小さな勝ち誇りが灯る。


(あの人が困っているのなら、いい気味だ、という気持ちが湧いてきても仕方ないでしょ。あれだけ一方的に捨てておいて……)


 顔を上げると、ガラス越しに映った自分の姿がしっかりして見えた。


 鏡に映るわたしは、以前の地味な面影とは違って堂々としている──そう感じると、胸が熱くなり、同時にゾクッとした怖さも同居する。


 こんなに自分が変わってしまって、大丈夫だろうか? と不意に思う。破滅への恐怖がわずかに首をもたげるが、すぐに振り払った。


「……お嬢さま」


 後ろからエルバートが声をかける。買い物の袋を持ちながら、わたしの動向を見守っているのだろう。彼は笑みを浮かべる──けれど、その笑みにほんの少し影が差しているのを、わたしは見逃さなかった。


「どうしたの、エルバート?」


「いえ、いつもと違って本当に活発に動いておられるなと。リュシアさまの笑顔が増えた気がして、それは嬉しいんです。でも……」


「でも?」


「……いえ、すみません。余計なことでした。わたしはただ、ご無理なさらないで、と申し上げたいだけです」


 きっと、血の契約が進んでいるのではと心配なのだろう。気にかけてくれる気持ちはありがたいけれど、わたしはもう止まれない。どんな代償が潜んでいようと、行動しなければ何も変わらないから。


「ありがとう。あなたは優しいわね、エルバート。でも、大丈夫。わたしは自分の信じる道を行くだけよ」


 そう言って足を踏み出す。彼の表情に、言いたいことを飲み込むような苦悩が見えたが、わたしはそれを振り返ることなく先へ進んだ。


(ラウルが困窮しているなら、これからもっとわたしの笑顔を見せつけてやる。エルフィード家がどう思おうと、わたしが本当の自信を手にしたなら、きっと破棄されたまま終わるわけにはいかない)


 そのときロウの声が頭のなかで小さくささやいた。


「汝は血を重ねるほど、深い力を得る。だが、その先にある破滅──それは汝が自分で退けねばならぬ」


 破滅の予感と、強大な力への期待が、再びわたしの心を激しくかき混ぜる。大丈夫、わたしなら大丈夫──そう自分を奮い立たせる一方、いつか代償を払う時が来るのではという不安が頭をもたげる。


(それでも、このままじゃ終わりたくないから)


 鏡に映る、堂々とした自分がいる。今のわたしは地味で暗い令嬢じゃない。周囲が少しずつ「あれ? 彼女ってもっとすごい人なのかも」と思っているのがわかるから。


 こうして一歩踏み出したことで、わたしは確かに変わり始めた。それがまやかしの魔力であっても構わない。


 代償という闇に怯えながらも、自分を見失わないように進むしかないのだから。




* * *




 翌日、わたしは屋敷の庭でささやかな読書を装いながら、ひそかに人目を窺っていた。ここ数日、妙に使用人たちの視線が気になる。


 どうやら噂を聞きつけたのか、「リュシアお嬢様は以前よりずっと活気づいている」と話しているようだ。嘲笑ではなく、どこか尊敬の念さえ感じるようになったのは、やはり契約書の力だと信じたくなる。


 もっとも、その『力』とやらは、いまだ実感を伴うものではない。ただ、血を捧げるたびにロウ=シグラーテが囁く甘美な誘いに、わたしの心は高揚と不安の境界を彷徨っている。


「汝はすでに破滅から遠ざかっている。このまま進めば、あの者を容易く屈服させられよう」


 書の表紙をそっと撫でる。今は光の下では開くまいと決めたが、ロウの声が耳の奥をくすぐるように響くから厄介だ。まるでわたしの背後に寄り添う幻影のように、「さらなる血を捧げよ」と囁き続ける。


「……本当に、屈服なんてできるの?」


 小さく呟いた瞬間、庭の奥からエルバートが姿を見せた。彼はわたしを見つけると、一瞬表情を柔らかくし、すぐに少し引き締まった面持ちに変わる。その視線には、わたしの身を案じる色がありありと浮かんでいた。


「リュシアさま。よろしければお茶をご用意いたしますが……いかがでしょう」


「ええ、お願い。……ところで、何か良くない噂でも耳にしたの? さっきから浮かない顔をしているわね」


 わたしがそう問いかけると、エルバートはわずかに苦い表情をつくり、言い淀む様子を見せる。結局、意を決したように言った。


「ガルデン家の縁談が大きく揺らいでいるそうです。ラウル様の新しい婚約話がうまく進まず、財政難も深刻化していると。……ご存じかもしれませんが、あまり良い話ではないようです」


「そう……」


 思わず唇がかすかにほころんだ。こんなふうに嬉しくなるのは、嫌な人間かもしれない。でも、ラウルを逆境に追いやる『天罰』のようなものだと思えば、胸がすっとする。


 もしかするとラウルを逆境も、血の契約の効果なのかもしれない。


 エルバートが困ったように視線を落とす。彼はラウルを哀れんでいるわけではないだろうが、わたしの感情を察しているのかもしれない。


「ラウル様が焦っている、という話も聞きました。周囲への顔が立たず、自ら破棄した婚約を惜しんでいるという噂まで……」


「後悔しているのかしら? ふふ、あの人が今さら」


 自分がこれほど薄情な笑みを浮かべるなんて、少し前までは想像できなかった。


 でも、彼がわたしを捨てた理不尽を思えば、こんな感情が湧いても仕方ない。むしろ痛快に思う自分がいるのが怖くもあるけれど、契約書の力が背中を押してくれていると思えば、もう止まらない。


「リュシアさま……。どうか、お気を確かに」


「大丈夫よ、エルバート。わたしはちゃんと理性を保ってる。破滅に落ちないために、気を張っているわ」


 それでも彼の心配は消えないだろう。そんな想いが読み取れる。わたしはあえてその話題から目を逸らすように立ち上がった。


「わたし、少し街へ出てくるわ。家に閉じこもっていたら、何も進まない」


「……かしこまりました。馬車を用意いたします」


 エルバートの低く柔らかな声を聞きながら、胸がきゅっと締まる。


 この人はどこまでわたしに尽くしてくれるのだろう。身分の差を越えて心を配ってくれる姿勢が、痛いほど伝わる。


 だけど今は、その優しさに甘えすぎるわけにはいかない。契約書に選んだのは自分の血。エルバートに代償を押し付けるのは、彼への裏切りだと思えてしまうから。


「ありがとう、エルバート。……それから、もしラウルがさらに窮地に陥ったら、その情報があればすぐ教えて」


「はい……。承知いたしました」


 馬車へ乗り込みながら、わたしはちらりと契約書の表紙を鞄の中に確認する。まだ血の跡は乾ききっていない。ロウの声が脳裏で小さく囁く。


「これが最終段階である。汝がさらなる血を捧げるならば、破滅から逃れ、彼を屈服させる運命もより確固たるものとなろう」


 ──自分で呼んだくせに、わたしはこの声が冷たく厳かに響くたび、少し身震いする。だが、「最終段階」なんて言葉に誘惑されている自分を感じる。もっと、もっと血を捧げれば、絶対の力を手に入れられるのかもしれない。


 ラウルが今さら後悔していると聞いただけでも溜飲が下がるのに、もし本当に屈服させられたら、どんな気分だろう。わたしは後ろめたさと興奮の入り混じった感情を振り払いつつ、馬車が走り出す振動を感じた。


(破滅か、屈服か……。そういう二択なの? だけど、わたしはもう選んでしまった以上、後戻りできない)


 車窓から外の景色を見つめながら、心のなかで呟く。今回も外に出れば自然と人目につくだろう。それがいつか評判を上げる糸口になって、ラウルの追い詰められた姿をさらに鮮明に見るきっかけになるかもしれない。


 エルバートが馬車を止めると、わたしはひと息ついてから扉を開けた。降り立った先は、華やかな市街地。


 ここで顔見知りとすれ違えば、きっと「あら、エルフィードの令嬢。婚約破棄されたと聞いたけど、意外と元気なのね」などと噂が立つだろう。それすら好都合だ。


「リュシアさま、くれぐれもお気をつけて……」


「ええ、ありがとう。あなたの守りなんて要らないくらい、わたしは平気よ」


 そう言い放ったものの、エルバートを傷つけた気がして心が痛む。でも、自分でやれることは自分でやらないといけない。そうじゃないと、契約の力を満たしきれずに破滅を招いてしまう──そんな焦燥感がわたしを急き立てるのだ。


 街行く人の視線が、やはり少し刺さる。けれど、わたしは胸を張って歩く。


 ラウルの焦りを想像すると、心が落ち着くわけではないけれど、確かな優越感がこみ上げてくる。破滅への恐怖と、勝利への欲望。その二つがわたしを突き動かしているのが自分でもわかる。


(もう一度、血を捧げたら……あの声が言う『最終段階』が来るのかもしれない。そうしたら、本当にわたしは幸せになれる? でも、その先に何が……)


 自問自答の果てに、軽い眩暈を覚える。けれど、後戻りはできない。わたしが求めているのはラウルへの復讐だけではなく、自分が踏みにじられたままで終わりたくないという切実な願い。もし破滅を回避できるのなら、その代償だって……。


「……わたしは、破滅なんてしない」


 静かに呟いて、市街の喧騒へ足を踏み出す。その姿は、自分でも驚くほど堂々としていた──まるで魔法を纏ったかのように堂々と。




* * *




 それから数日後。わたしはある華やかな夜会の知らせを聞き、少し意図的に顔を出すことにした。


 由緒ある伯爵家が主催する社交の場で、噂好きの貴族たちが集まるらしい。そこにラウルが姿を見せるとも聞いた。もし彼が本当に焦っているなら、こういう場に出て何とか立て直そうとするかもしれない。


 だからこそ、わたしも行く意味がある。血染めの契約書を握りしめて、代償に怯えながらも強気で臨む。そして、あの男の手のひら返しを、きっぱりとはね除けてみせたい。


 夜会の会場に到着すると、煌びやかな衣装の男女が行き交うなか、わたしは背筋を伸ばして歩を進めた。


 闇色のドレスに淡い宝石を合わせ、先日よりもさらに洗練された装いを選んでいる。


 周囲が振り返る視線を感じる。これも契約書の力なのだろう。もはや高揚と落胆が入り交じり、どんな感情なのか自分でも区別が付かない。


 会場の奥、湧き立つ人波の先で、ラウルの姿を見つけた。少し痩せたように見えるのは気のせいではないはず。


 視線が交わると、彼は苦しげな顔をして一瞬戸惑う。けれど、すぐに決意したような様子で、近寄ってきた。


「リュシア……いや、エルフィード令嬢。少し話があるんだ」


 掴むように呼び止めるラウル。その声には、以前の傲慢さはない。わたしは冷ややかに微笑み、彼の呼びかけを待つ。


「今さら何の話? わたしと婚約したことは、あなたにはただの幻だったみたいだけど」


 皮肉を込めて言い放つと、ラウルはわずかに目を伏せてため息をつく。背後ではほかの貴族たちが何ごとかと注目しているのを感じる。いいわ、注目されるのも悪くない。


「……確かに、あのときは君を捨てるような形になった。でも、今はわが家の事情が複雑で……いや、正直に言おう。力を貸してほしいんだ。改めて、一緒に……」


「ふふ、ずいぶん勝手ね。あなたがガルデン家を救うために、今さらわたしを巻き込みたいと?」


 ラウルは苦しげに唇を結ぶ。彼の周囲にはほかにも貴族夫人や若い令嬢たちが見ている。こんな場で必死に懇願する姿は、さぞみじめに映るだろう。


「……悪いが、もう一度結婚を検討してくれないだろうか。政略だとか、いろいろ吹っ切って、まずは支え合う形で……」


「今さら、遅いわよ」


 わたしは一瞬で言い返した。まるで心が氷のように冷えて、言葉がするすると出てくる。


「あなたに捨てられた時、わたしはどんな思いをしたか覚えてる? あなたはもっと有利な縁談があると言って、わたしを紙くずのように捨てた。それで今、自分が困ったからって『助けて』? ……申し訳ないけれど、わたしには構ってる余裕なんてないの」


 その言葉に、ラウルの顔が見る見る青ざめていく。周囲の視線も痛いほど集中し、誰もが「婚約破棄の張本人が恥をかいている」と気づいているらしい。


「……お願いだ、少し考えてくれないか。君だって、今この場で俺を拒絶するなら……」


「拒絶するわ。それがどうかした?」


 わたしは血染めの契約書を鞄のなかで握りしめる。ロウの声が頭の奥で囁く。「汝の破滅は遠のき、彼を従わせる瞬間が来たのだ」と。あの冷淡な響きが、背筋を支えてくれるような気がする。


 わたしはぐっと息を飲んで、周囲の貴族たちに向き直った。まるで舞台に立つ女優のような気分。みんなが期待と好奇心をもってこちらを見ている。


「わたしはもう二度と、あなたに縋ったりなんかしない。あなたの家がどうなろうと、今さら関係ないでしょう? わたしをあっさり捨てたのはどこの誰だったか、思い出してほしいものね」


 その瞬間、ざわざわと波紋が広がる。貴族夫人の何人かが口元を押さえて驚き、若い令嬢たちが小声で「すごい……」と囁いている。


 ラウルはそれでも食い下がろうとするが、声にならないらしい。何度か口を動かすだけで、しぼんだ風船のように項垂れる。


「……そ、そんな……俺は……」


「もういいわ」


 ピシャリと遮ってやる。わたしは視線を逸らして踵を返す。


 あれだけ情けない姿をさらしているラウルに、少しも同情する気にはなれなかった。それよりも、心のなかで溢れるのは、徹底的な快感と高揚だ。


(これが契約書の力なのね。あのラウルにこんなにも言い返せるなんて)


 廊下へと出ると、控えていたエルバートが目を丸くしてこちらを見ている。どうやらすべてのやり取りを見ていたようだ。いつになく胸がざわついた表情で、言葉を失っている。


「エルバート、手を貸してくれる? 外の空気を吸いたいわ」


「……はい。もちろんです」


 彼は小さく微笑みを返し、わたしの腕を支えるようにそっと誘導してくれた。会場を後にして人気の少ない庭へ出ると、夜風が頬を撫でる。さっきまで身体を満たしていた興奮が薄れ、少しだけ現実感が戻ってくる。


 そっと息を吐くわたしを見て、エルバートが微かな声で囁いた。


「リュシアさま、あんなにはっきりラウル様を拒絶して……。すごかったですね。……いえ、今のあなたは、本当に……」


 わたしはその視線に気づいて振り向くと、そこにあったのは戸惑いと──それから、もっと強い感情。まるで彼が何かを自覚したような、切なく揺れる瞳がこちらを映している。


「ねえ、エルバート……何か言いたいなら言って」


「……いえ。わたしは、あなたが眩しくて……。これ以上、身分なんて気にしている場合ではないのかもしれない、と……そんな気がしてしまったんです」


「身分? ……どういう意味?」


 胸がドキリとする。けれど彼は口を閉ざし、視線を落とした。今はまだ言葉にならないようだ。その沈黙がかえって、彼の心を濃密に感じさせる。


 再び吹き抜けた夜風が、わたしの指先と鞄のなかをかすかに撫でていく。契約書を握る手が熱い。破滅への恐怖は、いまは薄れている。むしろ、わたしは絶対の力を手にして勝ち誇った気がする。


(……このままなら、わたしは本当に破滅を避けられるのだろうか。いや、さらに血を捧げれば、もっと大きな力を……)


 胸に浮かぶそんな思惑を、エルバートは知る由もない。彼はただ、わたしを心配してくれる存在。だけど、その温かなまなざしが、もしかするとわたしを破滅から救う『もう一つの力』なのかもしれない──そう思いつつ、わたしは彼に弱く微笑んだ。


「……ありがとう、エルバート。あなたがいてくれたおかげで、わたし、もっと強くなれた気がするの」


 ラウルを拒絶できた高揚と、エルバートへの募る想い。ふたつの感情が胸を駆け巡り、わたしは複雑な熱を抱えながらも確かな確信を得ていた。


 破滅の影はまだそこにあるかもしれないけれど、いまのわたしは怖いものなし──そんな気さえしてくる。


 復讐を果たしたその瞬間、契約書の呪縛がいっそう強まったかのように、わたしの心をぎゅっと掴んで離さない。どこへ行き着くかはわからない。それでも、わたしはもう後戻りできないのだ。




* * *




 夜会から戻って数日後、わたしは自室の机に腰掛け、【血染めの契約書】をじっと見つめていた。


 あれほど強い鼓動と共に感じていたロウ=シグラーテの声が、まるで最初から存在しなかったかのように静まり返っている。


 ここ最近、さらなる力を得るために血を捧げようとページを開いてみても、何の囁きも返ってこないのだ。


「……どうして、急に何も聞こえなくなったの?」


 つぶやいても虚空に響くだけ。焦燥が胸をかき立てる。


 ラウルとの対峙では、まるで圧倒的な魔力に守られているかのような確信を得ていた。破滅を遠ざけ、理不尽を払しょくしたと信じて疑わなかったのに。


 そのとき、控えめなノック音が扉を叩いた。


「リュシアさま。少しお時間をいただけますか」


 エルバートの声だ。いつになく硬い調子に、胸がざわつく。


 わたしは「いいわ、入って」と返事をする。彼は小さく礼をして入室し、手に古い文献を抱えていた。


「実は、わたしなりに【血染めの契約書】について詳しく調べました。お嬢さまを案じるあまり、少し行きすぎたことをしているかもしれませんが……どうか、お許しください」


「調べたって……何を?」


 エルバートは悲しげな目をして文献をわたしへ差し出した。


 その一部を開いて見せると、そこには昔の伝承が断片的に記されている。曰く、【血染めの契約書】なるものは、ただの写本にすぎず、呪術など存在しない──そんな記述が散見される。


「まさか……魔力なんて、本当はなかったということ?」


「はい。いろいろな記録を当たりましたが、実際にその力を示した事例は見当たりませんでした。それどころか、『血を捧げても何も起こらなかった』という報告ばかりで……。ですから、この書物が本物だと断言できる証拠は、どこにも見つからなかったんです」


「……嘘、でしょ……? だって、わたし……あれだけ強くなれた……」


 頭が真っ白になる。まさか、すべては思い込み? わたしが聞いていたロウの声は、何だったの? 手のひらの傷は何を意味したの?


 混乱するわたしに、エルバートはそっと言葉を続ける。


「最初は信じられなかったんです。でも、もしも何かあったときにリュシアさまが破滅に巻き込まれては困りますから、必死に調べました。その結果、この書には──『魔力は存在しない』と結論づけざるを得なかった」


「……そんな。わたしは、ずっと魔力が宿っているんだと……」


 その瞬間、急に肩の力が抜ける。どうしようもない喪失と、同時に奇妙な安堵がこみ上げてくる。


「じゃあ、わたしがあれほどラウルを見返したのも、あの夜会で堂々としていられたのも……けっきょくはわたし自身が……?」


「はい。リュシアさまのお力、つまり、あなたが自分を信じて行動した結果なのだと思います」


 わたしは小さく息を呑んだ。代償に怯えながらも勇気を奮い、復讐を果たした──すべて、自分自身の意志が導いたのだとすれば、どれほどの力が内に眠っていたのだろう。


「……なんだか、拍子抜けするわ。こんなに怖がって、血まで捧げて……でも、偽物だったんだ」


「偽物かもしれません。ですが、それでもリュシア様はラウル様を退け、堂々と立ち上がってみせた。それが事実なら、もはや破滅など遠い話でしょう。むしろ、あなたは──最初からご自分の力で破滅を払っていたのでは?」


 その言葉に、胸がじんと熱くなる。


 わたしは愕然としつつも、思わず笑みが零れた。大きな魔力などどこにもない。代償におびえる必要もなかった。なら、あれほどの恐怖は何だったのだろう。


「……本当にそうなら……こんなに楽なことはないわね。わたし、全部自分で乗り越えちゃったんだ。あのラウルを撃退し、婚約破棄のどん底から抜け出して……」


「そうです。リュシアさまは十分、ご自分の足で未来を掴める方です」


 エルバートが安堵の微笑を浮かべる。身分の差を気にしてきたはずなのに、その瞳に宿る感情は、もう制御しきれないほどに温かい。


「ねえ、エルバート。あなたにはわたしを支えてもらってばかりだね。最初は契約書の力に振り回されていたけど……結局、わたしの理性が壊れなかったのは、あなたがいてくれたからだと思う」


「……そう言っていただけるなら、光栄です。けれど、わたしも守りたいだけでは満足できなくなりました。……その、リュシアさまを、もっと近くで……」


「……うん」


 彼の言葉の続きを、わたしは待たずに頷いた。契約書の呪縛が解けた今、わたしの心にはもう一つの明確な感情が芽生えている。彼を傍に感じていたい──そんな熱が胸を満たす。


「もしあなたが、わたしと一緒にいてくれるなら……たとえ家が反対しても構わない。わたしはもう破滅なんて恐れない。契約書がなくても、自分の力で立っていけるって、そうわかったから」


 エルバートはわたしの手を取り、震える声で答えた。


「身分を超えて、リュシアさまをお守りしていくつもりです。……結婚をお考えいただけるなら、わたしは一生、あなたをお支えしたい」


 少し背伸びをするようにして、わたしは彼を見上げる。


 彼の瞳は揺らぎながらも、確固たる決意を宿している。これほどまでに真摯に想ってもらえるなんて──。


「もちろん、わたしもあなたを受け入れるわ。……もう契約書なんかなくても、絶対に幸せになれる」


 そう告げて、部屋の隅に放置されている【血染めの契約書】を見ると──その契約書は、瞬く間に風化してしまった。


 いったいあの契約書はなんだったのか、ロウとはどのような存在だったのか。


 もうその手がかりを掴むことすら出来ないけれど、もしかすると、あの血染めの契約書がわたしの元に訪れた、それ自体がロウの魔力だったのかもしれない。


 いずれにしても──


 ──破滅を回避していたのは、最初から自分自身。


 その事実に気づいたいま、わたしの未来には光しかないと信じられる。ラウルへの復讐は果たしたし、契約書の恐怖からは解放されたし、そして何よりエルバートという優しい愛を掴んだのだから。


「ありがとう、エルバート。いままで支えてくれて、そして……これからも」


「はい。どこまでも、リュシアさまと共に参ります」


 そう言って微笑む彼と、わたしは固く手を結ぶ。政略や家の都合など関係なく、自分の道を選び取る力がわたしにはある。それを証明するように、扉の向こうから柔らかな光が差し込んでいた。


(了)

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