07意識
貪り続けていた百合だったが、急激に意識が正常に戻ると口にしていたものを吐き出した。
「おえっ、お゛っええええええええ」
口から出てきたものは血に塗れた肉の塊である。
(私は何をしているんだ)
手と口を真っ赤に染めながら室内を確認する。
部屋には三つの死体。もうすでに原型はとどめていないし随分と食べたようでもはやそれは人だったものとしか言えない。
血の香りが充満している。
むせ返るような鉄っぽい匂いが鼻をつくのに、百合にはその香りがいい匂いに感じられてならない。
(私が……人を食べた)
意識はまだあるがすでにゾンビになってしまったのかと姿見で自身を確認する。
下着姿は血塗られているが、ゾンビのような腐敗した人体ではない。
ミネラルウォーターを遠慮なく使い血を落とせば、そこにはいつも通りな百合の姿がある。
(身体は人間だけど、意識がゾンビになりはじめているのかな、うぅ、なんだなんなんだ私は)
急いで着替え、物資を持って自宅を出た。
室内にはまだ三つの遺体が無残な姿で転がっている。
一度自宅アパートを振り返る。
(もう戻れないな……)
自転車を走らせて仁菜の元を目指す。
(もし仁菜さんのことも肉に見えちゃったらどうしよう)
もしそんなことを思えば、一緒にはいられない。
どうか仁菜に会ってもそうならないようにと願いながら、仁菜はペダルをこいだ。
いつの間にか暗くなっていて、百合はマンションの前に立ち尽くしていた。
ベランダに仁菜の姿はない。帰りを待ってくれているはずの人がいなくて心がざわつく。
地下駐車場へ行ってみるもそこに仁菜はいない。
扉には鍵がかけられたままノックをしても反応はなかった。
大声で仁菜のことを呼んでみようとも思ったが、さっきみたいに誰かに気付かれて襲われることになるのも嫌だった。
(もしかしてさっきみたいなやつらがまだいたのかな)
嫌な動悸がする。
もし複数の男たちに襲われたら女性一人など立ち向かう術などないだろう。
百合ももし食い殺すことができなければどうなっていたかは想像に容易い。
嫌な想像をかきけすために、百合は最初にマンションに入ったときと同様に跳んだ。
あのときは無我夢中だったが、今は(もしかしたら)という疑惑があった。
(私はもう人間じゃない)
いとも容易くマンション二階までジャンプすることができた。
その後は壁をよじ登って五階の仁菜の部屋まで行く。
常人ならばできないことが、今はできる。
噛まれた日から、自分の身体がどうにかなっていることはわかっていた。
この異常な脚力も、壁をよじ登れるフィジカルも、そして人を食ってしまったあの感覚も。
もはや人間ではない。
「仁菜さーん」
ベランダから室内を覗き込み小声で仁菜を呼ぶ。
返事はなく、恐る恐る室内へと足を運ぶが室内はきたときと変わりはない。
頭の中に嫌な景色が浮かぶ。
誰かに襲われずとも、もしかしたらまた自殺をしているのではないか。
戻るにしては随分と時間がたっている。
どこにも仁菜はいなくて、百合は残った浴室のドアを開けた。
仁菜はいた。
しかし、周りには薬剤のシートが散乱し手首からは血を流して倒れている仁菜がいた。
「仁菜さん!」
考えるよりも先に仁菜を抱き上げた。
意識はないが、胸に手をあてれば鼓動を鳴らしている。
「ちょっとちょっと、ねぇ、なんで、どうして!」
自分の服を引き裂いて手首にまきつける。
仁菜の身体を抱き上げるとそのまま寝室のベッドへと運んだ。
「仁菜さん! ねぇ、仁菜さん生きてる!?」
「ぅ……」
死んではいない。
だが、か細い声で唸り声をあげる仁菜からは生命力を感じない。
身体は冷え切っているし、顔も青白い。
必死に身体を摩り、なんとか意識を戻そうと仁菜に声をかけ続ける。
「仁菜さん死なないで。お願い生きて」
「さ」
「なに、仁菜さんしっかりして」
「さむい……」
仁菜の反応に百合は周りにあった掛布団やらかけられそうなものを仁菜に被せた。
手を握ればまだ冷たい。
「寒、い……」
「今温めてあげるからね、仁菜さん死んだら嫌だよ」
百合も布団に潜りこむと仁菜を抱きしめつつ、身体をさすった。
仁菜も少しずつ反応を示すと赤子のように身体を丸めて百合に身体を預けた。
「百合さん戻ってきたんだね」
「戻ってくるよ、当たり前でしょう」
「彼氏みたいになっちゃったかと思ったの。私のせいで、また誰かが死んじゃったかもって思ったら不安になっちゃって。
私のせいで人が死ぬ。私のわがままで……」
すすり泣く声が聞こえてきて、小さく震える仁菜の頭を撫でた。
「大丈夫だから、私は死なないから」
「でも、でも」
「本当に、私は死なないから。大丈夫だから」
「うん……」
仁菜の腕が百合の服に潜り込む。
左の胸に手を押し付けると、その鼓動を手のひらごしに感じている。
「ちゃんと動いてるでしょ、死んでないからね」
「うん、うん、ごめんね」
「私こそ遅れてごめんね」
「……本当はね百合さんに逢えて嬉しかった。まだ生きてる人がいたんだって」
「私も同じ気持ちだよ」
「もう私みたいなのは皆死んじゃって、私にも死しか残っていないって思ってた」
「そんなことはないよ。大丈夫だよ」
仁菜の頭部に顔を埋める。
こんな荒廃した世界なのに、仁菜の髪はいい匂いがした。
そして美味しそうな匂いではないことに百合は胸のうちで安堵していた。