AI
「夕焼けが綺麗だね、アイ」
「……はい」
この世界にアンドロイドが普及して早数十年、今や上流階級のみならず一般家庭までもが一家に1台と言う時代になった。
とはいう僕も一人暮らしでこのアンドロイドを一台買い、『アイ』という名前を与えてから十年もの間二人で共に過ごしてきた。
しかし去年とある重い病を患った僕は診断から数日で寝たきりとなっていたもののそれから数ヶ月で終活に入る。
最後の時くらいは家にいたいという僕の希望で一ヶ月前から久方ぶりの我が家にいるのだが、とうとう今日が余命最後の日である。
そして今、一人と一台だけが我が家に住んでいる。
「アイ、僕はもうじき死ぬ。それを覆せないのは己が一番わかっているし、君だって馬鹿じゃあないからよくわかっているだろう」
「もちろんです」
いつもの冷静な声でアイは話す。思えば初めてみた時も冷静で無表情な顔をしていた。
人間と完全に一致する様に肉はついてはいたものの、まるで表情筋が無いのではないかとでもいう様に住み始めてからの幾星霜、あまり多くの表情を見せてこなかった気がする。
「だから最期は笑って送ってほしい、それだけでどこか救われる様な気がするんだ。少し難しいかもしれないけど」
「いいえ、そんなことありません。私は高性能なんですから、きっとできます」
フフ、と少し笑うと私は脳裏に響く心臓の音に耳を傾けていた。
すると様々な記憶が頭中を駆け巡った。
アイと初めて会った時、初入社した日、大学受験の日、高校の文化祭の日、そして小中学生の普遍的な日常の数々。
そして最後に見えた記憶は、幼年期のとある休日の旅行先である。
淡く、澄んでいて、優しい陽光が降り注ぐ砂浜。そこは昔家族と訪れた海岸の景色。
辺りには誰もおらず、たださざなみが大きく大地を揺らす。
三人称視点で動く世界、小さな『僕』は両親に手を引かれて車へと歩いていった。
二人の影が粗い砂へと溶けだして消えていった。
先に車に両親が乗る。小さい私は最後に海を一望してから乗った。そしてふと運転席と助手席にいる両親を見てみると、二人は黒い人型の靄となってこちらを覗いていた。その靄が何かをこちらに言おうとした時
「ご主……」
その声で微睡から脳を揺すり起こし、ゆっくりと目を開く。
正に目の前には天井と、私の顔を覗き見るアイの顔がみえる。
「ご主人様、起きていらっしゃいますか」
また冷静そうな顔を浮かべて私にそう言った。
「私はご主人様に買われてから、本当は毎日が彩られたように楽しかったのです。でも私だけが楽しくしていてもいいのかとご主人様の寂しそうな顔を見るたびに思うのです」
そしてとうとうアイは目元を少し下げて悲しそうな顔をつくりだした。
ふと心臓が妙に鼓動を遅めたが、それにはあまり気を留めなかった。
「君が悲しむ必要なんてない、君といて本当に幸せだったのは僕の方だ。どんな過去の痛みも苦しみも君がたまに見せる微笑みだけでどこかに消えていってしまう。不思議なものだ。本来なら機械になんて抱かないはずの感情をいつの間にか僕は抱いていたんだ」
アイはその言葉で目を見開いて、横たわる僕をじっと強く見つめる。
なんだか変な気分だ。ふわふわする。色々出し切ったような……そんな感覚。
だけども最後には伝えておきたい。むず痒い言葉を。
「アイ……好きだ………愛してる」
また僕はその時、脳裏に雲海と晴朗の空が浮かんだ。
決して見る事のないはずの光景、それはいつかどこかで見たはずの走馬灯なのかもしれない。
それが流れゆくと次に浮かんだのはアイとの記憶である。
彼女がここに来てからの十年間のその記憶。
鮮やかで繊細で全てが明るいその記憶の景色は、僕を深く常闇の世界へと誘った。
「……ずるいですよご主人様。あんまりです」
私に涙なんて出せないし心などはない。だって機械だから。
あるのは人間の感情を模倣した紛い物。いわば表情のパターン表のみのはず。
私はそれすらできない。高性能なんかじゃない。
「言うだけ言って勝手にいってしまわれるだなんて……貴方は本当に酷い方ですね」
なにか、機械音ではない軋んだ音が聞こえた気がした。
本当に、人間として出会うことがなかったのが悔やまれる。
アイは口角を上げ、横たわる真っ白い綺麗な屍に優しい微笑みを見せて、その唇に自身の口元を重ねる。
そのまま、自らの電源をゆっくり落とした。
S県S町のはずれ、とある民家の一室はそれきり、今も長い沈黙と静寂に包まれている。