創造主の庭
少女は痛む足をこらえて懸命に駆けた。
入植が始まる前から人の立ち入りを拒んできた原初の森は、少女の想像よりも遥かに奥深かった。ごつごつとした剥き出しの木の根、隙間なく生い茂った下草に足を取られ、少女は何度もつまずき、地に転がった。どこまでも続く薮をくぐり抜けるたび、密生した小枝に髪を引っ張られ、服も素肌も引っ掻かれた。光のない樹海の奥底からは、さわさわと囁くような風や枝葉や小動物の声、不意に響く切り裂くような鳥の声、そして……酷く間近に聞こえる恐ろしい獣の唸り声が、彼女を脅かし、疲れ切った足を否応なく早めさせた。
泥にまみれ血のにじんだ靴とズボンの裾と袖を、たまたま行き当たった沢の清水で洗った後も、少女はわずかな休息を取ったのみで、なお歩き続けた。――否、もはや自分が入ってきた方向すら見失い、ひたすら進み続けるしか道は残されていなかったのだ。
それでも、彼女が森に踏み込む前に行った準備は、わずか九歳の少女にしてはよくしたものであったろう。彼女は本を読み、地図を読み、おのれの目指すべき地点を定めた。あくまで地図の上のことではあったが、目的地まで最も短く、最も楽に進める道筋を割り出した。野良仕事のための服と、丈夫な靴を選び出し、保存が利く食糧をひそかに選り分けて貯め込み、いつでも出発できるように荷を整えた。そして――父が馬車を駆って出発し、祖父母が母の傍を離れたほんの少しの隙に、すばやく家を抜け出したのだ。
だが、今、彼女が地図を記憶させた端末はもはや動作していない。森に入って一日過ぎたあたりで電源が完全に切れてしまったのだ。普段ならば複数の電源がかわるがわる充電するから、そんなことは絶対に起こらないのに。おそらく、人間の住む場所から離れ過ぎてしまったせいなのだろう。黙って家を出た彼女に捜索がかかった様子すらないのも、端末の位置追跡機能が利用できなくなったせいだろうか。それとも……。
地図は万が一に備えて紙にも印刷してあったが、端末が止まり、自分の位置を見失った後では、何の役にも立たなかった。方角もあやふやなままに進み続け、獣道らしい、わずかに下草の踏み分けられた筋に出たのは、いったいいつの事だったろう。森に入って一晩、二晩と過ぎた、今日の昼間のことだったような気もするが、端末を失った彼女にとって、既に時間の感覚はおぼつかなくなっていた。高く広がる木々の枝葉は、降り注ぐはずの太陽の光を遮ってしまう。ただ、時が過ぎ、これ以上深くならないと思われた闇が何もかも塗り潰すほどに濃くなれば、それでは今が夜なのだと分かる――その繰り返し。
少女は今、夜と思しき真の闇の中を、懐中灯のかぼそい光だけを頼りに獣道をたどっていた。端末とは別に懐中灯を持ってきたのは正しい選択だったのだろうが、それもいつまで電源が保つか。かと言って、獣道を進んでいることにさしたる理由があるわけではない。行く手に何があるかも一切分からない。ただ、全く踏み分けられていない地面よりはましだろうと……あるいは、このまま進めば獣たちが目指す何かにたどり着けるのではないかと、ただそれだけのはかない期待で……。
ぱしゃり。――水音がした。
少女は泥と汗と涙でくしゃくしゃになった顔を上げた。葉の重なりを透かして降る、木漏れ日に似た、かすかな白い光が目に映った。――雲が切れて、月が出たのだ。そして……木々の幹が織りなす格子模様の向こうに、きらきらと帯のように揺れる細かな銀色の輝き。
水があるのだ、と少女は思った。池か、湖か――流れる水音が聞こえないから、川ではない。今のは魚が跳ねた音だろうか。大きな魚がとても大きな水面で飛び跳ねたような。だとしたら――水を汲めるかもしれない!
少女は疲れを忘れた。懐中灯で足元を照らすことも忘れ、きらめく水面に向かって一散に駆けた。木々を避け、根を越え、籔を振り払い、あとほんの少し、森の縁をなす木立ちの向こうに広がる岸辺を目指して、ただただ一目散に――
〈下がれ〉
少女は稲妻に撃たれたように立ちすくんだ。
それはまさしく彼女の頭頂から足の裏まで貫くような――存在そのものをその場に縫い止めるような声だった。声、確かに強烈な意思の込められた声だが、決して空気を通して耳に届いたものではない。……そう、消し飛ばされそうな圧力は未知のものだが、脳共振と呼ばれる、個人用端末と音声や手動入力を介さずにやりとりする時の感覚に少しだけ似ている……。
ざばり。
大きな水音が耳に届いた。魚……いや、違う。魚の跳ねた音とは明らかに違う。森に棲む獣たち、中でも最も大きな獣が水を撥ねかせば、きっとあんな音が。
〈――下がれと言うたが聞こえなんだか? 人の子よ――〉
声が、再び彼女に向かって放たれた。押し寄せる波のように全身を浸したのは、ただ、冷え冷えとした恐怖。
(あ……ああ……あ……)
未だそれは木立ちの向こう、遠目とは言え、幹の狭間から否応なしに目に入ってしまう。月光に輝く水面の一角が、激しく割れてきらきらと砕けたのが。その中心、円を描いて周囲に散った波が静まり、夜空よりも森の樹陰よりも黒々とした場所に――月光を映して白くこぼれる水をまとい、闇色の水面に半ば身を沈めた、黒い影。
〈ここは我が仮庵の一つ。人族は元より、我が眷属たる獣らとて、我在る間は畏れて近寄らぬ領域だ。されど、そこにそなたが如き人の姿を見ようとは、はてさて、如何なる事であろうかの――〉
声は――紛れもなく彼女の目の前の影は――彼女に向かって言い放った。およそは人のようでありながら、どこか獣じみた形のその闇の中、何故かぎらぎらと光る三つの点――毒蛇の目のような黄金色のそれが、本当に彼女を見据えている目だと悟った時、彼女の恐怖は頂点に達した。
「あ……あの……わ、わ、わた……し……」
怯えに突き動かされるように声が出た、だが、まともな言葉にはならなかった。ただ、頭の中をぐるぐると、聞き覚えのある言葉だけが駆けめぐる。
――いい子にしていないと、森の主にさらわれるよ。
――おとなしくお留守番していないと、森の奥から主が来て、おまえをさらって行ってしまうよ――。
それは子供をおとなしくさせるために大人が使うただのおどかし言葉だと、大きくなった彼女はもう知っていたはずだった。が……今、そこに存在する、人に似て人でない、獣に似て獣でない……それよりもずっと恐ろしいもの。まさか、本当に……。
(……母さんが……言ってた……)
涙がこぼれた。腰と足から力が抜け、少女は、糸の切れた人形のようにかくりと地面に崩れ落ちた。
〈――どうした?〉
少女の異変を見て取ったのか、声の主はどこか訝しげに問うた。
「……か……かあさん……が……」
声が出たのは、恐怖のためか、それとも悲しみのためか……それは少女自身にも解らなかった。ただ、涙とともに、押し流されるように言葉がこぼれた。
「かあさんが……母さんが……病気で……妹を産んだ時から、ずっと、具合がわるくって……」
〈……〉
続きを待っている気配を感じ取って、少女は懸命に言葉を繋げた。
「……し、しばらくは、平気だっていって、みんなと一緒に働いてたんだけど……。このあいだ……たおれて……。……このあたりのお医者様じゃ、なおせない……って……」
戸の陰に隠れ、大人たちの話を立ち聞きして、そうと知った時の悲しみと絶望の深さ。それこそが、絶対に人間が入ってはいけないのだと聞かされた森に入ろうと、彼女に決意させた一番大きな原因だった……。
〈――妙だの〉
ぱしゃり。
彼女の言葉が途切れたのに応ずるように、〈主〉が呟き、同時に軽い水音が起こった。〈主〉が姿を現した時とは違う、むしろ一番最初に聞こえた水音に似た、長いものを水面に打ちつけたような音――尻尾みたいだ、と彼女は半ば痺れた頭で思った。
〈そなたら人族の医術は、随分進んでいると思うたが。仮にそなたの近所の医師には治せずとも、遠隔通信で医師の判断を仰ぐなり、都会に連れて行って直接診せるなり、何らかの手は打てなんだのか? すれば、おおかたの病などたちどころに癒えように――〉
「は、はい……。けど……」
心が痛くなる記憶が次々に蘇る。寝台に横たわる蒼白になった母の顔、見た事もないほど難しい表情をした父の顔、何かを覚悟したような祖父の顔、おろおろとした祖母の顔……。
「う、うちは……すごく、田舎の……開拓農場で……十何キロも先まで……うちの家族のほかは、まだ、誰も……住んで、なくて……。薬も、遠くのお医者様の診断を聞いて……いろいろ試したけど、どれも全然効き目がなくて……。お医者様も、直接見てみなければ、わからないって……。で、でも、うちから、都会のお医者様のとこまでは……ものすごく……遠いんです……」
必死で言葉を紡ぐうちに悲しみが高まり、ついに涙声となって堰を切った。
「なのに……なのに母さん、もうとても病気が重くて、とってもお医者様のところへ連れていくなんて無理だ、って! だから……父さんが馬車で、お者様を連れてくるって出かけたけど……もう……間に合うか……」
もう言葉にならない。流れ出るのは涙だけ。
〈――なるほど〉
ぱしゃり。
しばらくして〈主〉の呟いた声は、少しだけ考え込んだように聞こえた。
〈――されば、娘。そなた、いったい何ゆえ我が領域に迷い込んだ? 否、そもそもこの森は、野に程近き端山を除き、そなたら人族の立ち入りを禁じた筈。そなたは人間、慣れぬ森に入り、行き迷ったは分からぬでもないが、そも、何の訳あって森に入ろうと思うた?〉
「は、い……それ……は……」
未だ半分しゃくりあげながらだったが、少女は精一杯、訊かれたことに答えようと試みた。
「ソマを……ソマを……、探しに……来たんです……」
〈ソマ、だと?〉
訝しげな〈主〉の言葉に、少女はますます説明する義務を感じる。
「はい……。ソマっていう、霊草……伝説の、薬草だって……。それを搾って飲めば……どんな病気も、怪我も、すぐに治る……って……」
〈……〉
「この森の……まんなかの……岩山のふもとに生えてるって……私の読んだ本に、書いてあって……?」
そこまで口に出したところで、彼女を大胆不敵な考えが捉えた。――〈主〉が本当にこの森の主だとしたら、もしかして――!?
「あ、あの……。もしかして……知らないですか……? ソマが……ソマが、どこに、あるのか……?」
消え入りそうになりながらも、問いを発した彼女に、与えられた答えは。
〈……知らぬ〉
再び涙が溢れるのを彼女は感じた。
〈我はこの森、この星の全て。されど……ソマなるものがこの森に存在するとは初耳だ〉
ぴしゃり、小さな水音が立つ。少女の視界の中、涙でぼやけた黒い影が……背を向ける。
〈おおかた、人族が禁じられた森の中に想像を巡らせ、あることなきこと書き立てたのであろ。仮にこの森に伝説の薬草なるものが存在したとして、如何にして人族がそれを知った? 考えてもみるがよい〉
「そんな……」
そう呟いたはずの声は、濁って、もはや彼女自身にすらはっきりとは聞き取れなかった。
〈無駄足であったな、娘。――この上要らぬ怪我をせぬよう、疾く、人族の領域に帰るがよい――〉
深く項垂れた少女に、果たしてその言葉は届いたかどうか。――今度こそ這い上がる道もない絶望に、少女はもはや声もなく啜り泣いていた。
(お母さん……)
――たった一つの望みを託したソマは、幻。
(じゃあ、母さんは……母さんは……今ごろ……)
――帰らなければ。もうここにいる理由がないのならば、母さんの、みんなの傍にいてあげなくては。たとえ、どんな結果を突き付けられることになっても――
力のない手足をまるで枯枝を転がすように動かして、少女は立ち上がり、振り返り、歩き出そうとした――その時。
〈――待て〉
ぴしゃっという鋭い水音とともに放たれた声が、再び彼女の動きを止めた。
〈霊草ソマとか言うたか。……そなた、それが如何なる物か知っているのか?〉
突然の問いに戸惑いながら、彼女は痺れたような頭を探って言葉を組み上げた。
「……わかりません」
正直な答えに、返ってきたのは明らかに呆れたような気配。
〈……形も知らずに見つけようと思うたのか? それは無謀にも程があるというものであろ〉
「えっと、でも……ほんとに、分からないんです。……いろいろな本を見たけど、本ごとにいろいろな話が書いてあって……」
ソマについて調べた時の混乱した記憶が蘇り、彼女は俯いた。
「葉っぱのない灌木みたいとか……キノコみたいって書いてあるのも、ありました。……でも……わ、私が見た本には、綺麗な花の絵が描いてあって……」
少女の記憶に刻まれた絵が浮かび上がる。先端が紅く根元が薄黄色の、繊細な花弁を何枚もこぼれそうなほどに突き出した――美しい花。
〈ふむ……〉
軽く〈主〉が唸り、彼女はますます身を小さくした。
――だが。
〈聞くがよい、娘〉
〈主〉の言葉に、少女は弾かれるように顔を上げた。
〈我はソマだの、伝説の薬草だのという話は知らぬ。されど、先程そなたが思い浮かべた花ならば、我にも見覚えがある〉
「え……!?」
すぐには言われた事が理解できない。だが、それは……!
〈彼所を見よ。飛び抜けて高い木があろ?〉
水面の影がどこか指し示したらしい気配に、少女は素直に頭をめぐらせた。池に沿って左手側に回り込んだ斜め前方の森の中に、確かに他の木に比べて頭一つ高くそびえる木が見えた。
〈あの木の根方を先達て通った時、そなたの思い浮かべたような花が咲いていたのを見た。獣の通る道筋ゆえ、そなたの足元より道も通じていよう。疾く行って、母御の元へ持ち帰ったがよい〉
「あ……」
――言葉が出ない。今度は、嬉しさで。
「あっ……ありがとうございます!」
〈礼など要らぬ。それより……〉
夜目にも鮮やかな紅茶の色の、解けかけた二本のお下げを撥ねかし、ぴょこんと頭を下げた少女を煩わしげに遮って、〈主〉は言うべき言葉を続けた。
〈その花、我も長らく生きたが、咲いた所は初めて見た。一度摘み取れば、次はそなたの生きているうちには咲かぬであろ。ゆめゆめ、失わぬようにせよ〉
「は……はい……」
〈さらに言うておく。この湖は我が眷属も、我を憚って気儘には入らぬ禁域だ。周囲の森とて、そなたら人族の立ち入りはならぬと約定が交わされてある筈。何の理由があれ、今ひとたび足を踏み入れたならば、そなたであろうと決して許さぬ。そなた以外の人であれば、況してや、言わずと知れたこと〉
「はい……」
しゅんとした少女にはもはや興味を失ったように、〈主〉は夜空を照らす月に向かって視線を逸らした。
〈……さ、疾く、参るがよい。母御のことが心配ではなかったのか?〉
「はい……」
少女はなおも戸惑ったようにその場に留まっていたが――やがて、ぴょこんともう一度頭を下げて、森の中へと一散に駆け出した。
少女が完全に森の奥に姿を消したのを見届けると、彼は、水底を歩いて岸に向かった。
水深が浅くなるにつれて、月光の下、夜気の中にその姿が露わになる。――人に似たすらりとした体躯。その背後に太く長々と伸び出た、鰐か蜥蜴の類に似た尾。おどろに背にかかる夜空の色の鬣の間からは、牛に似た、三日月の形をした一対の角が天を衝く。黒を基調に白の輪郭が対照の妙をなす硬質の装甲状の表皮は、今は一面に水をかぶって白々とした光沢を見せている。
彼は、岸辺で軽く体と尻尾を振るって水を落とすと、池に面した樹木の下、獣の皮を敷いて作った座所に戻る。足を組んで座し、両目を閉じる。
――まったく、どんな病気も怪我も治す霊草ソマとは、また面倒なことを。
遺伝子から生物を設計する基本方式を意識に浮かべる。何度も行っていることだから、まるで普通の人間が整数の四則演算を思い浮かべるように、たやすく頭に式が浮かぶ。
基本式が浮かべば、次はそこに代入する変数が要る。
記憶を呼び起こす。一人の人間が、あるいは一個の生物が保有するには膨大すぎる情報が彼の意識に映ずる。――だが、記憶の整理と検索のシステムは、永い年月の間に絶えず改良し続けてきている。そのシステムを使い、少女から読み取ったソマという植物の性質と像を鍵に、参考になるデータを記憶から拾い出していく。伝承に語られるさまざまな植物の効能、外観、およびそうした伝承の生まれた背景。
それらを参考に、ソマが備えているはずの性質の詳細を決定する……のだが。
――最大の難点は、母親の病気の正体が分からぬことか。
少女の言葉と記憶から得られた情報は、少女の母の病状を診断するには不足過ぎる。どんな薬物を投与すれば回復に役立つか、さすがの彼にも特定できない。だが、あの少女が求めているものは「どんな病気も怪我も治す霊草」。適当に効きそうな成分を含んだ植物を与え、効かなければ改めて……などというやり方は不可能だ。
彼は方針を変更することにした。
植物の細胞に、医療用微小機械の機能をもった特殊な細胞を合成する機能を持たせる。この微小機械が生体内に入ると、自律的に病状を診断し、最適な治療を行う。宿主が健康体に戻れば機能を停止して分解される。その一方で、常に彼と通信して動作状況を伝達するように設計しておけば、万が一微小機械の動作に問題があった時も、彼の指示で改良し、あるいは機能を停止させる事ができる。
これで要求される基本性質は出揃った。彼は、個々の性質を発現させる遺伝子暗号を求める作業に移る。求めた暗号を基本式に代入し、検算して矛盾する部分を訂正し、生物としての「ソマ」を表現するプログラムを組み上げていく。
成立した遺伝子式を、彼はさらに模擬演算を行って確認・修正した後、近辺で最も高い樹木の根元の、ある植物に適用した。
我はこの森、この惑星。――あの少女にそう告げたのは虚妄ではない。
この星に生きる一切のもの――地球と異なるこの惑星にあって、地球に類似した生態系を構成する一切の生物、それは、すべて彼より発したもの。
彼の肉体は元よりほぼ人の造りし物、方法さえ心得ていれば、いくらでも己の意思のままに変異させることができた。それを利用して進化を積み重ねた彼は、やがて故郷たる太陽系を飛び出し、気の向くままに外宇宙を彷徨った。
しかし、地球を故郷とする彼が、いつかは根無し草の生活に飽きるのも自然の成り行きだった。
こうして、彼は手頃な恒星系の手頃な惑星――今は人族によってアリアケ系のシメノエと呼ばれている――に根を下ろした。惑星の軌道を変化させ、衛星を作り、水をもたらし、大気を改造し――そうして地球そっくりの快適な環境を整えた彼は、さらに自身が落ち着いて休息できるよう、体の一部の情報に手を加えて、多種多様な生物を生み出した。地球の生態系を参考に、この惑星独特の条件や彼自身の好みも考慮に入れて、地球型生命による生態系を設計し、構築したのだ。
それゆえ、この惑星固有の植物や動物や微生物は、それぞれが個体であるのと同時に、今なお彼という個体の一部でもある。微弱な電磁波や、ホルモンに相当する化学物質、あるいは素粒子、量子すら使って、緊密に結び合い、影響しあい、調和の取れた全体を――彼という一個の生命体を構成している。だからこそ、今は一本の木や草や、果ては一頭の動物となっているものも、彼の意思一つで、またいくらでも別のものに変異させられる――つい今しがた、あの少女のために「ソマ」を創り出したように。
――だが、人族だけは。
彼が自分自身の休息のために生みだしたこの惑星の生態系は、彼と似たような理由――好奇心と探究心――から太陽系外へ広がった地球人類の子孫にとっても、たいそう魅力的なものだったらしい。最初のうちはそれと気づかなかったにしても、突然軌道が変わり、衛星ができ、地球型生命の生存に適した環境となった惑星は、近隣の星系に移民していた人類の興味をどうしようもなく引き付けた。
こうして地球の末裔たちは、何も知らずにこの惑星を探査に訪れた。その時、彼が彼らに警告を発していなければ、彼らは勝手にこの惑星に侵入し、何もかも自分たちのものだと思い込んだだろう。彼が構築した生態系も、あるいは野放図に破壊されていたかもしれない。
だが、彼は探索者たちに接触し、交渉の末に、故郷を同じくする彼らの侵入を許した。自らの分身たる生き物たちに過度の干渉を行わないこと、そして、一定の領域を彼らに分け与える代わりに、残る領域に対しては不可侵を守ることを約束させて。
彼らはその条件を受け入れた。
彼らは惑星に入植した。軌道樹と軌道環を建造し、宇宙太陽光発電を行い、個人や組織に普及した端末を利用して、惑星のほぼ全域を覆う総合情報網を構築した。だが、どうしても進んだ技術が必要な部分以外では、地球というたった一つの惑星を他の生き物と分け合って暮らした祖先の時代に倣うことを選んだのだ。自らの手で、あるいは家畜化したこの星の生き物を使って、原野を、森を切り拓き、水を引き、家を建て、畑を耕して生きることを。
それこそが人族。何もかも彼が意のままにしたこの惑星において、唯一、彼でなく、彼の意に沿わず、それぞれの意思をもって生きる者たち……。
彼が意識の焦点を転ずると、あの少女の姿が脳裏に映じた。
水辺の木の下に座しているこの体は、ただ彼が直截に自己を表現するために使用している肉体に過ぎない。現在少女の周囲にある、樹木も、草も、土中の微生物も、あるいは植物の作り出す物陰からそっと様子を窺う獣たちも、全ては彼であるのだから、その肉体を通して光学的・視覚的情報を得るなど簡単なこと。
少女は息を切らしながら高木の根元に歩み寄る。痛ましいほど疲れ切ったその顔が、ふと、何かを見つけたように輝き……やがて、木の根の間から生えた美しい花の傍にふわりと膝をつくと、両の掌の中にそっと包み込んだ。
その様子を見届けて、彼は視覚情報を閉じる。ソマの作出は久しぶりの経験だったから、早いうちに記憶を整理して、新たな実験への準備を整えておきたい。――だが、その前に。
――その娘に手を出してはならぬ、と彼は眷属の全てに命を下す。――手を出さず、危険に踏み込ませることもなく、無事に人の世界へ帰すように、と――。
――この時、わずか一月余り後に再びこの少女に会うことになろうとは、さすがの彼にも想像できなかった。
「ありがとうございました」
月の光がわずかに差し込む森の端際で、少女は明るくぺこりと紅茶色のお下げ頭を下げた。
〈そなた……何故、また……〉
先夜と同じように沐浴を行っていた彼は、驚きのあまり、咎めるのも忘れてまじまじと少女を凝視した。
三つの黄金色の視線に射すくめられ、少女はやはり総身に怯えが走るのを止められなかった。それでも、あの夜、最初に感じた畏怖よりは、随分と軽いものではあったが。
「あ、あの……二度と来ちゃいけないって言われたのに、また来てしまって……ごめんなさい。……でっ、でも、あの花のおかげで、母さん、とっても元気になったんです! だからどうしてももう一回、ここへ来て、お礼が……言いたくて……」
〈……それはどうでも構わぬが〉
いくらか無愛想に返した彼だったが、純粋な疑問がすぐさまそれを圧倒した。
〈されど、そなた、ようも迷わずここへたどり着いたものよな。先日とて、ここへ行き着いたは偶然だったのであろ? よもや、道を覚えていたなどと〉
「はい、それは……」
どうやらそれほど咎められてないらしいと悟った彼女は明朗な口調に戻る。
「森に入ったら、大きな獣が案内してくれたんです。いきなり目の前に立ち塞がって、とっても怖かったけど、でも、それって、このあいだの帰りと一緒だったから……。だから、ここへ来たいのって一生懸命そのひとに話しました。そしたら……あたしが間違った方へ行こうとしたら、またぬって出てきて正しい方へ行かせてくれたり……近くで怖い声がしたら、追い払ってくれたりして……」
〈ああ……〉
少女の話を聞くうちに原因を悟って、彼はひそかに頭を抱えた。
彼が眷属に与える命令は、多くの場合、無意識への暗示の形を取る。眷属は全て彼の一部ではあるが、それぞれの個体にも、通常の孤立した生物と同程度の意識があり、知性があり、意思がある。それを過度に妨げるのは彼の行動原理に――言い換えれば趣味に――反するのだ。
だが、無意識に指示を刻みつけるこのやり方では、個体ごとに命令の理解に幅が生じる可能性がある。この少女に危害を加えず、危険に踏み込ませもせずに人界へ返せ、という指示は、少し拡大解釈すれば、再び彼女が森に入ってきた時にもそうしろ、となりかねない。
「あの……、やっぱり、また来たこと……怒ってますか……?」
少女は彼の気配をそう感じ取ったらしい。
「……ごめんなさい」
懸命に頭を下げる小さな姿。
――禁忌というものが本当に分かっているのか、この娘は?
――だが。
くくっ、という小さな音を耳にして、少女は顔を上げた。
ざばり。
大きな水音が上がった。月光に輝く水面の一角が、激しく割れてきらきらとこぼれた。
だが、異変はそれで終わらない。ざぶりざぶりと音は続き、水面は尾を引く波に押し分けられ、月光の白と夜の水底の黒とが幾重にも重なり、入り混じり、広がって。
「え……」
水際に全身を現した異形の影に、少女は言葉を失って立ち尽くした。
その時、風が吹いた。
風は湖面を一筋の光となって走り、水辺の草叢をざあっと左右に平伏させ、少女の頬をかすめてたちまち森の中へと駆け抜けた。
少女は思わず目を瞑った。否、瞑ろうとした。
だが。
――人とは、そうでなければ面白くない。
「あ……!」
少女は目を瞠った。
影は、つい今しがたよりも随分と小柄になっていた。それでも少女の父と同じぐらいの背丈はあるだろうか。不思議なことに、角も、尻尾も、ぎらぎら光る三つ目の目も消え失せて、ただの人間――夜のせいか少し肌の色が浅黒いように見えるが、ただの人間の若者のように見える。いつの間にかあまり見慣れない形の衣服すら身につけている。
ほんの数歩の距離からまっすぐに少女を見下ろした若者は――彼は、彼女に向かって片手を差し伸べ、朗々とした声で言った。
「久しぶりにこの目で人の世界が見とうなったわ。案内してもらえへんやろか? 娘」