その笑顔に(隆太視点)
月曜日の朝7時45分。
そろそろ家を出ようとカバンを持った瞬間、ポケットに入れていたスマホが鳴った。
相手をみると相沢さんだった。
俺は自転車だから少しゆっくり目に家を出るけど、相沢さんは20分ほど前に徒歩で家を出ているはずだが……。
LINEの交換はしたが、電話がかかってくるのは初めてかもしれない。
少し緊張しながら通話ボタンを押した。
「はい」
『滝本さん、まだ家ですか?』
耳元すぐ横から流れてくる相沢さんの声に心臓がドクリと大きく動いた。
すぐ横に相沢さんがいるみたいだ。
……いや、もちろんいないんだけど。それくらい声が近くてドキドキしてしまう。
相沢さんはどうやら駅のホームにいるようだ。後ろのアナウンスで分かる。
俺は喉の奥でなんとなく声を整えて声を出す。
「はい、まだ家にいます」
『あの私、家に忘れ物をしてしまって。仕事用じゃないバインダーを持ってきてしまいました。リビングに赤色のバインダーがあると思うので持ってきて貰ってよいですか?!』
「わかりました」
『すいませんが会社の……えーっと、三階の給湯室にお願いしてもいいですか?!』
「持って行きます」
『お手数ですけどよろしくお願いします。あっ、部屋にはドカドカと入って頂いて全然問題ないので!』
電話を切り、俺は一度靴を脱いでリビングに入った。
すると、あった……赤色のバインダーだ。
失礼します、と中を確認すると仕事用のデザインラフが書いてあるのが見えた。
これで問題ないだろう。俺はそれをカバンに入れた。
相沢さんはどうやら本当にバインダーが好きなようで、俺が提案したiPadが入るバインダーの他にも数個のバインダーを愛用していた。
このバインダーは左側にクリアファイルがあり、そこに書いた紙をストックできる。
そして右側に紙を挟んで書けるようになっていて、確かに使いやすそうに見えた。
電車に乗って会社に到着、そしてバインダーを持って三階の給湯室に向かった。
三階は会議室が多いフロアで、朝一番の状態では誰もいない。
俺たちはまだ結婚したことをみんなに伝えてないので、会社での接触は避けている状態だ。
一番奥の給湯室に入ると、相沢さんは俺の姿を見てパアアアと笑顔になった。
……めちゃくちゃかわいい。
会社でこの笑顔が見られる時点で朝から最高に嬉しいが、冷静な表情でバインダーを渡した。
「これで大丈夫ですか?」
「これですーーー。すいません、本当に助かりました。見てください。これ最近買い足した同じバインダーなんですけど……」
相沢さんが中をチラリと見せてくれたが、漫画のネームが山のように詰まっていた。
パタンと閉じてため息をつく。
「学びました。漫画用は赤。仕事用は黒。変えます。どうして同じ色にしてしまったのか分かりません」
「お役に立てて良かったです」
「中に入ってる書類、朝9時の打ち合わせに必要だったんです。何だか悪い予感がして駅のホームで確認したら漫画のネームが出てきて小さく悲鳴をあげてしまいました。LINEだと気が付いて貰えないかも……と思って電話してしまいました。朝からすいません! 滝本さんが持ってきてくれなかったら電車で家に戻ってまた坂上って……たぶん遅刻でした。本当に助かってしまいました、ありがとうございます!」
相沢さんは俺に向かって大きく頭を下げて顔を上げた。
そして「えへへ」とほほ笑み、後ろから紙袋を出してきた。
「これお礼に……。来る途中に買ってきたんです。お願いしてしまったので買ってきました」
「え、すいません。ありがとうございます」
受け取って中を開けると、会社の最寄り駅の反対側にある店のコーヒーと、個別包装してあるパウンドケーキだった。
相沢さんはバインダーを抱き寄せて目を細めた。
「この前、このお店の前を通ったら、滝本さんがこのお店でこのセットを買っているのを見たんです。私、このお店でいつもカフェラテは買うんですけど、パウンドケーキを買ったことは無かったんです。へえ~と思ってこの前買ってみたんです。そしたらこれ、すっごく美味しいんですね。同じ会社で働いてて、同じ店に通っているのに、買う商品が違うのって面白いなあと思いました」
「そう、なんです。わりと好きで。はい。買っていますね」
俺は正直挙動不審になりつつ頷いた。
この店は駅と会社の間にはない。反対側の西口にあるんだけど、パウンドケーキが美味しくてたまに買っていた。
まさか買っているところを見られていたなんて。
でも気にしてもらえて……それに同じ商品を食べてくれたなんて嬉しい。
口元がニヤニヤするのをなんとか押さえてお礼を言う。
「わざわざ買って頂いてすいません、ありがとうございました」
「こちらこそ持ってきて頂いてすいませんでした。本当に助かってしまいました」
そう言って相沢さんは再びパアアと笑顔を見せた。
ああ、すごくかわいいな。
会社でこんな表情が見られるなんて結婚して本当に良かった。
給湯室は狭くて、ふたりでいるとそれだけでいっぱいになる。
会社の人とふたりになると、気を使ってどちらかが出るくらい狭いが……相沢さんとふたりなら、ずっとここに居たい。
居たいが、朝から会議ならそろそろ準備だろう。
俺は相沢さんに先に出るように促した。相沢さんは「そうですね、準備しないと。では!」とエレベーターに乗り込んで、閉じていく扉の隙間から俺に小さく手を振ってくれた。
俺は冷静な表情を作って頭を下げて見送って……そのまま壁にへばりついた。
……ぐっ……。
なんだこれ、バインダー持ってきたくらいで、朝からどんなご褒美だ。
営業は四階なので、俺はコーヒーが入った袋を抱えてフラフラと階段を上った。
袋の中のコーヒーはほわりと温かくて、これを抱えて相沢さんが歩いてたのが嬉しい。
席でそれを一口飲んで気合いを入れた。
相沢さんはいつもカフェラテを買うのか……今度俺も買ってみよう。
そして今日こそ早く終わらせて相沢さんがいるあの家に早く帰ろう。
こんな小さなことでどうしようもなくテンションが上がってしまう自分が嫌いじゃない。