Ⅰ
そもそもここはどこなのかという疑問が払拭されるのは早かった。私はこの大学という研究機関の人工知能研究の研究室で出来上がった存在だった。この研究室の内容は人工知能に自我を持たせる研究、あらゆる状況に対応するアンドロイドの研究、生身の人間の脳から記憶のエミュレートを行い半永久的に生存させる研究、大きくこの三つだった。
つまりここは人間をはじめから「使える」状態で作ろうとすることを目的とした研究室で、後々知ったことだったけれど、どうやら大学の中でも異端児の集まりだと爪弾きにされていたようである。
それでも研究費用に困窮しなかったのは一重に研究していた学生が総じて優秀だったからに他ならない。天才とは常に後世で評価されるものだと人は言うけれど、実際問題彼らは研究環境の機微は特に気にも留めていない変わり者が多かった。
知名度の高い大学の一研究室。とはいえあくまで研究の主体は学生で、私の性能の向上やら中身やらをいじくりまわすには彼らの知識ではいささか経験という壁が分厚かったようだ。
結局、私の開発担当の責任者をしていた学生がその全責任を背負って専門の研究機関に配属ということで話がまとまった。博士課程を終えた彼はタカシロ ジュンイチと言って、どこにでもいる、というにはすこし物足りない特徴のない青年であった。
曰く、人工知能や記憶エミュレーションの専門機関の日本支部が運よく私に目を付けたことでタカシロは博士課程を修了し大学院を卒業すると同時にその機関の日本支部への配属が確定していたという。単なる研究材料でしかない私にはあまり関係のない話だったけれど、彼は私の生命維持の為にすべてをかなぐり捨てようというほど鬼気迫っていたらしい、と後で同じ研究室に居た女学生がこぼしていた。
エミュレーション、と簡単に言うけれどコンピュータ同士の単なるデータの変換ではなくて生身の人間の脳に直接電極をつなげてそこから無理やりシナプスとデータ回路の変換及び同調を行うというかなり非人道的な発想に基づいている。
研究機関の全脳エミュレートが単なるヘルメットをかぶって嘘発見器のように記憶の齟齬を記録しパズルのピースを繋げるだけのそれならば大学の研究室の理論は、植物状態の人間の頭蓋骨を掻っ捌いて電極をぶっ刺してありとあらゆるデータを吸い取ってしまおうという前代未聞の実験を想定していた。
無論そんな実験に喜んで参加する患者はいない。そんな中、彼が、タカシロが基盤にすべく用意した材料が私のベースとなる女性であるミナヅキ アカリだった。
「G9にも名前が欲しいよね」
タカシロが唐突にそう言った。端的に言えば私はミナヅキ アカリのコピーだ。アカリでいいじゃないかという私の意見は一蹴された。基盤であるデータがミナヅキ アカリであっても私自身は生身のミナヅキ アカリには成りえない。
彼女の享年は三十だったという。私は私になってからまだ数カ月余り、まだ常識だとか教養だとかそういった人間らしさはなく外見も決して彼女似せて作られたわけではない。だからアカリという名前は名乗らせられない、タカシロの意見は断固として変わらなかった。
「キヨハにしよう」
「キヨハ?」
「清い羽で清羽でも、時代を起こす波で起代波でも、充てる漢字はなんでもいいけれど、うん、いい名前じゃない。俺名付けセンスあるかも」
俗に言うキラキラネームだと彼に告げるのはどことなく気が引けた。これが、人が円滑に社会生活を送るための遠慮だとか気づかいだとかなんかそういった感情なのだと思う。自分の研究材料に名前を付けるというのは彼にとってどんな感覚だったのだろう。私はきっとミナヅキ アカリを名乗ってはいけないだけの理由があったのだろう。
そういえば彼はいったいどこからミナヅキ アカリを検体として手に入れてきたのだろう。聞きたいこと自体は沢山あったけれど開発当初の私の本体要領は16GB、それ以上にキャパオーバーが速かった。結局私はいまだにミナヅキ アカリのすべてを知らない。
さて、では私がエミュレーションで手に入れた彼女の情報はというと実に平凡な女性の半生である。一般家庭の次女で、それなりの成績。容姿はさほど悪くない。鏡を見ている記憶、それはあくまで彼女のものだけれど髪を整え薄く化粧をし、微笑む練習をして家をでる。なんてことない女性の生活風景だ。
まるで私自身がミナヅキ アカリなのではないかと錯覚するほど私と彼女の適合率は高くエミュレーションも完璧だった。私の中で彼女は生きていた。周りは、それを望んだのだろうか。いっぺんにデータの移し替えはできないからと私は少しずつ彼女を知っていくことになったが、当時も今も、少なくとも私は彼女になんてなりたくなかった。
◆
「よく来たな、所長のルイ・ウォーカーだ」
「よろしくねー、わたし研究員のマリア。マリア・バイルシュミットよ」
三月の終わり、八王子市にあるという研究施設に移送された私はダンボール箱から取り出され、試運転期間後、最初の再起動をされた。あらかじめ送られていたデータを読み込みなおす。ルイさんはアメリカ、マリアはドイツ人だという。つまり研究所内の公用語は英語になるのか。言語変換機能をオンにして口を開くと二人は嬉しそうに私を見た。
「検体番号G9-000、タカシロ キヨハを再起動しました。読み込みは正常に終了しました。よろしくお願いいたします」
「驚いたな、聞いていたよりもっと人間らしいじゃないか」
「あはは、でしょう、俺の学生生活のすべてを詰め込んだんですよ」
電源を切られたのが十日前。ジュンイチの顔を見たのも十日ぶりのことだ。久しぶり、という感覚がする。愛おしい、と反応する。これは私ではなくミナヅキ アカリのものだろうと思いながらジュンイチの顔を見上げると彼は優しく私に微笑んだ。
「自我の発達はまだ小学校高学年のレベルだと思うんです。反抗期は来てないですね。登録言語だけが多いのでワードチョイスは年相応とはいかないかもしれないですけど」
「身体の成長状況はどうなってるのかしら」
「一応平均値より少し上で設定してあります。女性器と排卵と月経は人工臓器としては倫理にひっかかるってことで作ってません」
「生体エミュレートには寛大になったけど、日本ではまだできないことも多いわね」
当然のように話しているそれが、世間一般にはあまり受け入れられる話でないことはなんとなくわかるようになった。オンライン機能の付いている私は日常的に膨大な量のデータを受信していて、SNSが発達している現代社会でそもそもアンドロイドという存在はまだあまり実用的ではないし、なんならサブカルチャージャンルにおける一つの設定でしかない。生体エミュレートに寛大、とマリアは言ったけれどそれだってついぞ二、三年以内くらいの話なのだ。
「ほかの研究員を先に紹介しよう、キヨハ、今日からここが君の家だ」
「はい、ルイさん」
「笑うと可愛いじゃないか、娘ができたみたいだ」
「ルイさん、本国に奥さんも子供も残してきてるじゃないの」
「もう成人した息子にこういう可愛さってのはないんだ」
あれから何度かいじくりまわされた私の外見は、高校二年生の少女くらいのなりをしていて、ただその何もかもが若い頃のミナヅキ アカリの生き写しであって私がミナヅキ アカリなのかタカシロ キヨハなのかは私の「自我」のみに支えられた酷く曖昧なものだった。名乗ってはいけない、というラインの上に成り立つ危うい自我。
もう少し反抗という感情を覚えたら髪型を変えようとか、顔を変えたいと要求しても呑んでもらえるだろうか。私はミナヅキ アカリとして望まれたのに、ミナヅキ アカリとして生きることはできない。それは自我が確実に発達していく中で暗澹とした雨雲を広げていくだけだった。
大部屋には男女がそれぞれ二人ずつ。日本支部の研究員はジュンイチも入れて七人だと聞いている。研究規模がそもそも小さめだそうだけど、それでもAI分野のスペシャリストたちには違いない。
「キヨハ、自己紹介しようか」
「はい、タカシロ キヨハです。十一歳です、お世話になります」
「なるほど、自我においては十一歳か」
「みんなも自己紹介を、ショーンから」
スペイン人のショーン、イタリア人のファブリ、ロシア人のエレーヌに、スウェーデン人のスピカ。国籍も年齢もバラバラだけれど、どうやらこれはそもそもの研究機関の大元の責任者が各国の技師の有志団体からスタートしていることが起因しているという。餅は餅屋、国ごとの倫理観も常識も意見も発想も全部混ぜてしまったほうが面白いからという単純な話だ。やろうとしていることはSFやスチームパンクのそれなのに。
「俺の実年齢、キヨハと一番歳近いから!困ったことがあったら俺に言ってね」
「ファブリは何歳なの?」
「十八だよ」
赤いくせ毛の毛先をふわふわと揺らして彼はそう言った。
あくまでわたしは自我がというだけで、きっと数カ月で彼と同い年になるんだろう。それまでにまたミナヅキ アカリになっていく。私はいつまでタカシロ キヨハでいてもいいのだろう。可愛げのない十一歳になってしまったなあって内心自嘲する。求められていた自我の生育ってこういうつまらない思春期の子供じゃなくて人間を半永久的に殺さないAI産業の発達だったと思うけれど。
「ありがとう、きっと相談するから助けてね」
「もちろん、キヨハもきっと天使の一人に違いないからね」
私だけは知っている。大学の研究室やここのみんなと違って本当は、ジュンイチは自我を持たせる研究にもアンドロイドの進歩にも関心があまりにないのだということを。多分だけれど、彼はミナヅキ アカリを作りたいだけだ。ミナヅキ アカリを名乗らせない理由は、最近になって思うのは、私がまだ彼の求めているミナヅキ アカリではないからだ。彼女じゃないものに彼女を語らせたくないのだろう。
正確な情報は何よりの強みだ。その点私は自身が人間でないことに感謝している。記憶も感情も、人の目からは曖昧なすべてが私の中では単なる電気信号でしかなく、元の持ち主のミナヅキ アカリさえ知りえない反応の理由を私は答えることができる。
彼女はタカシロ ジュンイチを愛していた。
それはもう深く、ひどく強く、狂おしく彼を愛していた。自制、の信号が流れてくるたびに不思議に思う。この人はなぜ愛することをこんなにためらっているのだろう。家族のそれとは絶対に違う明確な愛、私が生み出したものではない愛が、私の中で呼吸をし、私の目を介して愛しい人を見つめ、私の心臓を介して音を立てているのだ。ああ、彼女は生きている。今このときも。