9 本当のキスはさよならのあとで
ずっと落ち着いてくれない心臓に手をあてて、ぎこちないしぐさで隣を向く。
ばっちりと合った青い瞳から、不自然に顔を背けてしまった。
「ノアン、どうかした? もしかして怪我とかしてる?」
「い、いえっ、大丈夫です。恐れながら……その、今さら緊張してしまって」
屋敷から連れ出され、今は王宮へと向かっているらしい。ふかふかとした座り心地の良い座席は、さすが王族専用の馬車だと思った。
そんな特別仕様の馬車なので中はそこそこ広いのだが、ライベル殿下はわたしのすぐ隣に腰かけて、やたらと熱のこもった視線を送ってきている。
幽霊の殿下とお別れした日、あの時のわたしの言動からして、こちらの気持ちは完全に知られているだろう。もう二度と会えないと思っていたからこそあんな無茶な要求をしたのに、まさか現実の世界で再会できるとは……
嬉しいような恥ずかしいような複雑な気分だ。
「俺が幽霊だった頃と同じように、気さくに接してくれると嬉しいな」
「気さく……ですか? 殿下にそのような態度は――」
「……幽霊さんの次は、殿下、か」
睫毛を伏せ、少しだけ悲しそうな顔をする。なにか気に障るようなことを言ってしまったかと心配になったが、ライベル殿下はすぐに言葉を続けた。
「俺とノアンの関係についてもはっきりさせたいところだけど、まずはこれまでのことについて説明させてもらおうかな」
そう言って王宮に着くまでの短い時間で、彼が体験した不思議な出来事の全てを話してくれた。
どうして殿下が幽霊になったのか、そして叔父や母が何をしたのか。明かされた事実に怒りや悲しみやらの様々な感情が湧き上がり、こぼれた涙が頬を伝っていく。涙なんて流したのは、父が死んだ日以来だった。
殿下は懐からハンカチを取り出し、わたしに差し出す。ためらいながらも受け取ると、そっと肩を抱き寄せられた。
「がんばったね」
その言葉に、さらに涙があふれていく。
そう、がんばったのだ。誰にも助けは求めなかったけれど、ずっとひとりで耐えてきた。そしてそんなわたしを、父はずっと見ていたのだ。
「ライベル殿下を巻き込んでしまい、本当に申し訳ありません」
「気にしないで。悪いことばかりじゃなかったから」
「……と言いますと?」
「ほら、こうしてノアンに会えた。きみを助けることができたのが俺で、本当によかったと思ってる」
その言い方はいろいろと誤解してしまいそうになるのだが、絶対にありえないので心の中で首を振る。だって彼のような王子様が、わたしみたいな可愛げのない人間を女として見てくれるはずがないのだ。
「きみの叔父は身分剥奪の上、処刑される可能性が高い。母親も二度と日の当たる生活はできないだろう。今後、ノアンはモントリス家の唯一の跡取りになる」
処刑という言葉が頭の中に響いた。叔父がやったことを考えれば当然の末路だろう。
母については多少思うところはあるが、わたしをアストール家に嫁がせると言った時の顔を思い出せば、惜しむ気持ちも湧いてこない。
そしてこの状況に至っては、たしかに家を継ぐのはわたししかいない。もとより父の遺言書も叔父と母が偽装したものらしく、実際は領地にいる親戚の息子を養子にして、爵位を継がせる予定だったようだ。
わたしはサイラス様に嫁ぐので、妹に婿を取らせることも考えたようだが、父も思うところがあったのだろう。もしかしたら妹が自分の子供ではないことに、父も気がついていたのかもしれない。
「俺は今後臣籍降下して爵位を賜る予定だけど、ノアンのお婿さんになるのもいいかなって思ってるんだよね」
「……え?」
さらりと言われた言葉に、思わず空色の瞳をまじまじと見つめ返す。わたしの視線に気づくと、殿下はにこりと笑い返してさらによく分からないことを言い始めた。
「これでも領地の運営や管理についてはある程度知識があるし、ノアンの役に立てると思うんだ。まだまだ勉強することも多いとは思うけれど」
「……あの……ご冗談、ですよね?」
言われたことが理解できず、首を傾げながら問いかけた。いや、理解はできているのだが、到底信じられないのだ。
わたしの婿になる? この国の第一王子である、ライベル殿下が? これを冗談以外のなんと捉えればいいというの?
「本気なんだけどな」
苦笑を浮かべながら肩を竦める殿下を見て、慌てて言葉を紡ぐ。
「ま、待ってください! うちはしがない伯爵家です。特別由緒正しい家だとか、そういうわけでもありません。あなたのような王族を迎えるようなところではないのです。ましてや婿だなんて……」
「俺は生きていく基盤が整っているなら、身分は気にしないよ? 贅沢とかする気はないし」
全力で否定したわたしの言葉など気にした様子もなく、殿下は畳みかけるように続ける。
「俺、隣国では身分を隠して、庶民として学園に通ってたんだ。寮生活だったから大抵のことは自分でできるし、ノアンに迷惑をかけない自信はある。ああ、それとも……相手が俺じゃ嫌だったかな?」
茫然としながらも、妙に納得する。彼のまとう雰囲気はとても親しみやすさがあって、いい意味で王族らしくはなかった。表情も豊かだし、人を見下すような態度をとることもない。
幽霊だった間は少し軽すぎるところもあったが、あの時は記憶がなかったこともあり、素の部分が大きく出ていたのだろう。
不安げに顔を覗き込んできたので、わたしは反射的に首を振った。
「違います! 嫌だなんて……わたしだって幽霊さんがいなくなってから、何度もあなたを思い出して……ずっと、お会いしたいと――」
つい本音を漏らすと、彼は目尻を下げて優しくほほ笑んだ。その甘い表情に心臓がキュッと締め付けられる。
「うん、俺もずっと会いたかった。本当はもっと早く迎えに行きたかったのだけど、こっちもいろいろと片付けなくちゃいけないことがあって……遅くなってごめん」
申し訳なさそうに謝って、彼は事情を説明してくれた。
どうやら帰城した当日に父と入れ替わってしまったらしく、もろもろの手続きやら、その他にやるべきことが山積みだったらしい。合わせて馬車事故について調べ直したりドレスも用意したりと、身体に戻ってからは相当忙しい日々を送っていたようだ。
ライベル殿下は巻き込まれただけであるし、むしろ謝るのはこちらの方だろう、と思いながらも浮かんだ疑問を口にする。
「……では、あのドレスは本当に殿下がわたしに?」
「もちろん。きみに似合うとびきりのドレスを用意したのに、会場にいたのが妹さんだったからびっくりしたよ」
そう言えばすっかり忘れていたが、妹はわたし宛てに届いたドレスを着て夜会に行ったのだった。殿下がここにいるということは、会場でふたりは会わなかったのだろうか。
「妹とはお会いに?」
「あー……うん。まあ、ね」
なんとも歯切れ悪く頷いた。なにかあったのかと青い瞳を見つめ返すと、彼は不自然に視線を逸らして、妹に関する別の話を始める。
「妹さんのことなのだけど、恐らくもうノアンと暮らすことはないと思う」
「……どういう意味ですか?」
「実はエランド公爵に連絡を取って、息子の婚約破棄について知っているか尋ねてみたんだよ」
エランド公爵は、サイラス様のお父上である。どうやらサイラス様がわたしとの婚約を破棄したことを、公爵様は知らなかったようだ。ライベル殿下から連絡を受けて、大変驚いていたらしい。
そして息子の勝手な行動にお怒りになり、サイラス様は廃嫡されることが決まり爵位は次男が継ぐことになった。
さらにモントリス家の事情を説明し叔父と母が捕まるだろうと話すと、サイラス様は責任をとる形で妹と結婚することが決まった。サイラス様が学園を卒業するまでの三か月間はこのまま王都で過ごすようだが、そのあとは領地に帰して慎ましく生活させると言っていたそうだ。
妹は学園を中退することになるが、ここまで大ごとになってしまっては、もうわたしにはどうすることもできない。
「今後モントリス家は、本当にノアンひとりになる。だから俺に、きみの手助けをさせてほしい」
「お気持ちはありがたいのですが……今すぐには決められません」
「分かってる。でもどう転んでも、俺はきみをあきらめないよ? 婿がだめなら、ノアンをお嫁さんにするから」
強引なのは嫌い、と言っていたのは気のせいだろうか。むしろその前に、はっきりさせないといけないことがある。
「ライベル殿下は……わたしのことをどう思っていらっしゃるのですか?」
「……あれ、言ってなかったか」
しまった、とでも言うような顔で気まずそうに頭を掻いて、わたしに向き直った。
「幽霊のときからずっとノアンが好きだった。これからも毎朝きみの隣でおはようを言いたいから、俺と結婚を前提にお付き合いしてくれませんか?」
彼は真面目な顔で言うけれど、わたしはくすりと笑ってしまう。だって――
「覚えていますか? わたしがこの先も毎朝起こしてほしいと言ったら、あなたは素性の知れない男を受け入れたらいけない、と返したのですよ」
「あ、あのときは俺はもう死んだと思ってたから……!」
「ふふ、分かっています。わたしも殿下のことをお慕いしております」
そう返すと、彼はなぜか少し不満そうな顔をする。
「俺のことはラウって呼んでほしいな。隣国ではその名前で生活してたから、そっちのほうが慣れてるんだ」
「ラウ、様?」
「様はいらない」
「……わかりました、ラウ」
信じられないが、殿下とは幽霊の頃から両想いだったようだ。お互いに叶わないと分かっていて恋をしていたなんて、わたし達は似たもの同士ということか。
希望通りに名前を呼ぶと、相変わらず一瞬で女性を魅了してしまいそうな艶のある笑みを浮かべて、わたしに一歩近づいた。
「ねえノアン。あの日の続き、してもいい?」
「あの日の続き?」
「うん、嫌だったら拒んで」
真昼の空と同じ色の瞳が近づいてくる。なにをされるのか、思い至った答えにわたしはそっと目を閉じた。
唇に感じた確かな熱に、全身が震える。
あの日、幽霊の彼とお別れした日、感じることのできなかった熱が今はここにある。
もう遮るものはなにもない。
わたし達の恋は、さよならのあとに始まるのだ。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
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