7 幽霊さんに触れるとき
ドレス騒動から丸1日が経ち、夜会当日となった。わたしはもちろん留守番なので、部屋に引きこもっている。
妹は先ほど迎えに来たサイラス様と一緒に王宮へ向かったようだ。なにやら玄関ホールで揉めていたが、わたしには関係ないので開いていた本から目を離すことはなかった。
ふたりがいなくなり、いつもよりも静かな夜が訪れる。今夜はゆっくり過ごせそうだと用意していたティーカップに口をつけたところで、扉を叩く音が室内に響いた。
「お嬢様、旦那様がお呼びでございます」
「……分かりました、いま行きます」
せっかくゆっくりできる夜だというのに、こんな日に限ってわざわざ呼び出すなんて。わたしにいったい何の用があるというのか。
叔父から直接的な嫌がらせを受けたことはないが、母と浮気していた時点であの人も同類だ。
湧き上がる嫌悪感を胸の奥に沈めて、リビングへと続く扉を開いた。
中に入ると一人掛け用のソファに叔父が座っており、その隣に母が立っていた。
パイプ煙草を吹かしながら叔父がこちらに視線を向ける。わたしを目に留めてにこりと笑ったので、何とも言えない嫌な予感が背筋を這い上がった。
「なにか……ご用でしょうか」
「ノアン、おまえにいい知らせがある。こちらに来なさい」
本当はこれ以上近づきたくなかったが、隣にいた母が鋭い視線で睨んできたので仕方なく歩き出す。少しだけ距離を空けて二人の前に立った。
叔父はパイプ煙草を机に置き、相変わらずにこにこと笑みを浮かべて口を開く。
「おまえの婚姻が決まった」
「こん、……いん?」
「アストール侯爵家の次男だ。少し変わった趣味の持ち主だが、今後分家の爵位を継ぐ予定だそうだから、家柄も問題ないだろう?」
アストール侯爵家の次男、有名すぎて知らない人はいないだろう。過剰なまでの加虐嗜好をお持ちの方で、お付き合いをした女性は廃人のようになってしまうらしい。どこまでが本当かは分からないが、あそこに嫁ぐくらいなら死んだ方がマシだとさえ言われている。
「い、いやです」
冷静な思考とは裏腹に、わたしの声は自分でも分かるほど震えていた。
「ノアン、おまえに拒否権はない。これはもう決まったことなんだ。あの家と繋がりができれば、うちにも利益がある。兄さんが大切にしていたモントリス家を支えると思って、大人しく従ってくれ」
「そうよ、ノアン。婚約を破棄されたあなたをもらってくれるというのだから、感謝しないといけないわ」
叔父の言葉を後押しするように母も続く。
この人にとって、わたしはもう家族ですらないのか。娘をあの家に嫁がせるなど、普通の母親であれば容認できるはずがない。分かってはいたが、ここまで嫌われていたなんて……
指先が冷たくなり、全身から血の気が引いていくのが分かった。
「もうすぐ迎えが来るから、ここで待っていなさい」
「迎え?」
「ああ、今夜中に引き渡す約束をしている。向こうの家に着いたら、すぐに婚姻を結ぶと言っていたぞ。よかったな」
あまりのことに、言葉が出ない。今からアストール家へ嫁ぐ……? 嘘でしょう?
「待ってください! わたしはまだ学生です! せめて卒業までのあと三か月はっ――」
「安心しろ。学園には向こうの家から通わせてもらえるらしいぞ。まあ……あの屋敷から出られたらの話だが」
先ほどまでの人の良さそうな笑顔はいつの間にか消え、叔父の顔には醜悪な人間が見せる下卑た笑みが浮かんでいた。隣にいる母も似たような顔でわたしを見ている。
無意識に身体が後ずさる。今すぐこの場から逃げなければと、頭の中で警鐘が鳴り響いた。
そんなわたしの様子に気付いたのか、叔父は部屋の入口付近に控えていた使用人に向かって、冷たい言葉を投げる。
「逃げないように手足を縛って、口も塞いでおけ」
叔父の命令に使用人は無言で頷く。素早くわたしのところまで歩いてきて、乱暴に腕を掴んだ。
「いやっ、離して……!」
「大人しくしろ」
そのまま組み伏せられ、後ろ手に縛られる。抵抗してはみたが大人の男性の力になすすべもなく、あっと言うに足の自由と声も奪われてしまった。
いくらなんでも手際がよすぎる。この使用人は叔父が屋敷に来た時に共に連れてきた人だが、その時から少し変わった空気をまとっているとは思っていた。まさかとは思うが、ただの使用人ではないのかもしれない。
「やっぱりシエンナがいない時にしてよかったわぁ。こんな刺激的なところ、あの子には見せられないもの」
「そうだな、今日は本当にいい機会だった」
床に転がされたままのわたしの耳に、ふたりの会話が届く。
恐らくだがこの婚姻の話は以前から決まっており、わたしが逃げないように当日まで隠していたのだろう。サイラス様との婚約が破棄されるよりも前から、すでに話が出ていた可能性も考えられる。
意外なほど冷静に回っている思考とは裏腹に、身体は小さく震えだした。これはきっと、寒さのせいではない。
こんなことになるなら、卒業まで待たずにすぐ家を出ればよかった。アストールの屋敷に入ったら、きっと二度と外には出られない。
想像した未来に吐き気が込み上げ――
「旦那さま大変です! お客さまがっ」
リビングの外から、焦りを滲ませたようなメイドの声が聞こえた。
「おお、もう来たか。アストール家の使者だろう?」
「そっそれが――きゃあっ!」
メイドの悲鳴と共に、扉が乱暴に開け放たれた。そのまま複数の靴音が部屋の中に流れ込んでくる。
床に倒れたままのわたしの視線をソファの足が遮っており、ここからでは何が起きているのかよく見えない。
「なっなんだ君たちは……!」
動揺を含んだ声で叔父が問いかけると、今度は聞き覚えのない低めの男性の声が室内に響いた。
「我々は王宮直轄の騎士団だ。モントリス伯爵と伯爵夫人だな? お前たちふたりを、前モントリス伯爵殺人の容疑で捕縛する。抵抗する者には剣の使用を許可されている。命が惜しければ大人しくしていただこうか」
え? いま……、なんて?
耳にした言葉を頭の中で繰り返す。殺人の容疑? それは、まさか……
「はっ、なにを根拠にっ――」
「根拠ならある」
今度は別の声が室内に響く。その声を、わたしは知っていた。もう二度と、絶対に、耳にすることはないと思っていた、その声を――
「事故当時、御者をしていた男があなた達の所業について洗いざらい話してくれた。この屋敷に証拠が残っていることも知っている。現在騎士団が捜索中だが、じきに見つかるだろう。観念することだ」
声の主を確かめたくて、必死に床の上でもがいた。少しだけ位置がずれたことで、ちょうど入口付近の状況が目に入る。
「しっ知らない! 私たちは無関係だ! それになんなんだ君は、偉そうに――」
「控えろ」
黒髪の騎士服を着た男が、叔父の声を遮った。
「我が国の第一王子であらせられる、ライベル殿下の御前だぞ」
「ら……ライベル殿下!?」
視界の端に、明るい金色の髪が映る。空と同じ色の青い瞳がわたしを捉えて、……一瞬で歪んだ。
「ジーク、あとは任せた。とっとと終わらせろ」
「はっ」
黒髪の騎士に指示を出し、ライベル殿下と呼ばれた金髪の男がこちらに向かって歩いてくる。
室内には悲鳴や叫び声が響き渡っていたが、今のわたしの耳にはなにひとつ届かなかった。ただただ、すぐそばに迫った青い瞳を見つめ返す。
「こんばんは、お嬢さん」
わたしの前に膝を突いて、その人は初めて会った時と同じ言葉を紡いだ。そのまま口を塞いでいた布を外してくれる。
夢を見ているのだろうか。彼は死んでいて、天国に行ったはずで……それなのに今は透けていないし、足もつま先まではっきりと見える。
「あれ、俺のこと見えてるよね?」
混乱しすぎて声を出せずにいると、彼は首を傾げながら近くにいた騎士を呼び、わたしの両手足を縛っていた縄を剣で切り裂いた。
身体は自由になったのに、思考はうまく回らない。床に座り込んだまま、もう一度目の前の青い瞳を見上げた。
「ごめん、怖かったよね。やっぱり俺が直接迎えに行けばよか――」
言葉を遮るようにおもむろに右手を伸ばし、ぺたりと頬に触れた。彼は驚いた顔をして、動きを止める。
今度は左手を伸ばし、反対側の頬にも触れる。それから顔の輪郭を辿るように、ぺたぺたと両手で何度も触れた。
「……さわれる」
ぽつりと言葉を漏らすと、わたしの手の中で彼はふくざつそうな顔をしながら僅かに頬を赤くした。
「ノアン、そんなに触られると俺……ああもう我慢できない!」
「え――」
急に両手で抱き寄せられ、胸の中にすっぽりと閉じ込められる。もちろん透けていないので、反対側は見えない。
彼の背中の向こう側で母の叫び声が聞こえた気がしたが、見えないので気のせいだと思うことにした。
「こうやってずっと触れたかった……ノアン、迎えに来たよ」
「迎え?」
腕の中で顔を上げると、青い瞳とぶつかる。
「君みたいな素敵な女の子は、王子様が放っておかないって言ったでしょう?」
「おうじ、さ……まっ!?」
状況を思い出し、がばっと勢いよく両手を突っ張って、彼から距離を取ろうとする。しかし背中に回された長い腕は、わたしを離そうとはしてくれなかった。
逃れようともがいてみるも、やっぱり全然離してくれなくて。冷や汗が背中を伝っていく。
「なんで逃げようとするの?」
「だ、だって殿下って……申し訳ありません、わたしったら過ぎたことをっ!」
幽霊さんがどうしてここにいるのかは分からない。だけれど彼が生きていて、そしてこの国の第一王子であるライベル殿下だという事実は、もう間違えようがない。
さっきは混乱していて無意識にべたべたと触れてしまったが、王族に対してあのような行為は不敬すぎる。謝って済むことではないが、今のわたしには謝ることしかできない。もしくは――
「わたしも不敬罪で連行してください!」
室内にはまだ騎士が残っている。叔父や母と同じように、失礼なことを仕出かしたわたしも捕まるべきだろう。そんなふうに考えて真剣に訴えてみたが、幽霊さん……もといライベル殿下はあきれた声を漏らした。
「……この子はいったいなにを言い出すのかな?」
「ですからっ――」
「分かった。そしたら幽霊だった俺を誘惑した罪で、きみを王宮に連行します。いいね?」
「王宮に!?」
「そう。この屋敷はしばらく使えなくなるから、ノアンは王宮で保護するよ」
わたしが行くところは牢屋で、決して王宮ではないはず。
だがたしかに、先ほど屋敷には騎士団の捜査が入ったと言っていた。叔父と母の罪は本当なのだろうか。ふたりが父を殺したというのは……
顔色を変えたわたしを見て、彼は安心させるように優しい声で言う。
「ノアン、詳しい説明はあとでするから、いまは俺を信じて一緒に来てくれないかな?」
「はい……」
どちらにしろここにはいられない。それならば大人しく従うしかないだろう。
差し出された手を取っていいものか迷っていると、ライベル殿下は眉を寄せて困ったような顔をする。
「強引なのは嫌いだけど、手を離したらきみは逃げてしまいそうだから許してね」
そう言ってわたしの手を自ら掴んで、屋敷の外へと連れ出した。庭には複数の馬車が並んでおり、その中にある王家の紋章が刻まれた、他より少し豪華な馬車が目に留まる。
「ノアンは俺と同じ馬車ね」
反論する間もなく、王家の紋章がついた一台に乗せられる。
一瞬だけ見えた夜空は、彼と別れた日と同じように星たちが煌めいていた。