5 初恋にさよならを
幽霊さんが王宮に行った日から数日が経つ。
夜のおしゃべりで、彼は王宮内の様子をおもしろおかしく話してくれた。
メイドが失敗して珈琲を絨毯にこぼしたのだが、部屋の模様替えをしたと言って家具で隠していただとか。
第二王子であるエイデン殿下の飼われている猫がいなくなって、従者や使用人たちが総出で探したのだが、見つかったのは殿下のベッドの下だったとか。
意外な王宮内の日常に、なんとなく親しみが湧いてしまった。
しかし、肝心のライベル殿下は見つからなかったと言っていた。バローナ商会が王宮に呼ばれたことから考えて、殿下が帰国されたのは事実だと思われるが、お目にかかることはできなかったらしい。
少し残念に思ったが、会えなかったものは仕方がない。
あれから幽霊さんは、また毎晩わたしのもとに来てくれている。昼間は相変わらず記憶探しの旅に出ているようで、会うことはない。王宮内で手掛かりになるようなものは、見つからなかったみたいだ。
だが、あの日から少し変わったことがある。
彼は話の途中で、じっとわたしを見つめることが多くなった。あの透き通った青い瞳で見つめられると、どうにも鼓動が早くなってしまう。
幽霊さんへの恋心を自覚したわたしには、刺激が強すぎる。
絶対に叶うことがないと分かっていても、一緒に過ごす時間が長くなるほど想いは募っていった。
そして、もうひとつ不思議に感じていることがある。最近、彼はやたらとわたしの家のことについて尋ねてくるのだ。
父が亡くなる原因になった馬車事故のことや、その時の母親と叔父の様子など、彼が知っても意味のないことばかり聞いてくる。
答えられることは答えたが、当時はわたし自身も混乱していて、あまりよく覚えていない。
幽霊さんは、嫌なことを思い出させてごめんと言いながらも、わたしから情報を聞き出すことをやめなかった。
馬車事故は、馬が突然暴れ出したことが直接の原因だと聞いている。運悪く開いた扉から父は投げ出され、地面に頭を打ちつけてしまったらしい。
打ちどころが悪かったようで、医院に運ばれた頃には亡くなっていたと聞いている。
馬が暴れた原因は分かっていない。こういう事故はそれほど珍しくはないため、詳しく捜査はされなかったようだ。
事実がどうであれ、わたしには事故について調べる力はない。今はもう、己の現状を受け入れて生きていくしかないのだ。
この先も、ひとりで――
『――ン』
はっと顔を上げると、眩しい金髪が目に入る。
『ノアン、急に黙り込んでどうかした?』
「あ……すみません。少し考えごとをしていました」
窓の外側から、幽霊さんが心配そうにわたしを見ている。せっかく好きな人が目の前に居るというのに、全く会話に集中できなかった。
それはきっと、全部彼のせいで――
「幽霊さん、朝言っていた大事な話というのは?」
今朝わたしを起こした彼は、今夜は大事な話があると一言いい残して姿を消した。神妙な面持ちで口に出された言葉に、今日一日ずっと胸騒ぎが止まなかった。
まさか、もしかして、そう何度も疑問を浮かべては消してを繰り返し、最後にはやっぱりひとつの結論に辿りつく。
このまま夜が来なければいいのにと思った。彼と過ごす秘密の夜があれほど楽しみだったのに、今日はこの時間が訪れるのが怖くて仕方がなかった。
『賢いきみはもう分かっていそうだけど……俺、そろそろ天国に行こうと思うんだ』
予想していた言葉だ、驚きはない。ただただ雨が降り出したかのように、胸の内側が悲しみで濡れていった。
「そうですか。記憶、思い出せたのですね」
わたしの言葉に、幽霊さんは曖昧に笑って返すだけだった。
「安心してください。明日からは、ちゃんと毎朝ひとりで起きてみせますので」
『本当に? 心配だなぁ』
「そ――」
――そう思うなら、ずっとそばにいて
無意識に本音を口にしそうになり、慌てて両手で口元を押さえる。気まずさに視線を逸らすと、彼はふわりと空中を移動してわたしの目の前にやってきた。
そのまま伸ばされた右手が頬に触れる。やっぱり感触はないのに、そこに確かな熱を感じてしまう。錯覚だと分かっていても、その温かさに縋りたくなる。
添えられた手に頬を擦り寄せると、彼は困ったように眉を寄せながら微笑を浮かべた。
『俺は消えると思うけど……きみはとっても素敵な女の子だから、きっと王子様が放っておかないよ』
「なんですか、王子様って……そんなの、いりません」
『はは、手厳しいな』
だって、あなたがいればそれでいい。この屋敷で虐げられながら生きていく人生でも構わない。この先ずっとひとりだっていいから、もう少しだけ……
そんなふうに考えている自分に気づき、恋とは恐ろしいなと思った。過去の偉人が恋に溺れて選択を誤った話は珍しくはないが、今ならその気持ちが分かってしまう。
だから、わたしは口には出さない。彼を引き止めてはいけない。
『ノアン……』
こぼれ落ちそうになる涙を必死で堪えた。泣くな、これは彼にとっては喜ばしいことなんだ。
ずっと幽霊のまま現世をさまようより、天国に行って生まれ変わるほうがいい。魂とはそういうものだと聞いている。本当かは分からないが、ここに留まらせてはいけないことだけは分かる。だから――
「幽霊さん。最後にひとつだけ、わがままを聞いてもらえませんか」
『なんだい?』
「わたし、キスがしてみたいです」
突拍子もない要望に、彼は大きく目を見開く。わたしの頬に添えられたままの右手が、不自然にぴくりと跳ねた気がした。
『……ノアン、そういうのはちゃんと好きな人と――』
「幽霊さん、わたしはあなたとキスがしたいです」
夜空に透ける青い瞳をまっすぐ見る。しばらくなにも言わずに見つめ合って、彼は小さく息を吐き出した。
『目を閉じて』
「いやです」
『どうして』
「目を閉じたら、本当にキスしているのか分かりませんから」
幽霊である彼と接触しているかは、視覚でしか分からない。目を閉じている間に『はい、終わり』なんて言われたら、それを信じるしかない。
まあどちらにしろ……彼に実体はないから、本当に触れることなんてできないのだけれど。
幽霊さんは観念したのか、そのまま顔を近づけてきた。
僅かに伏せられた長い金色の睫毛が、瞳に影を作る。透けていても分かる艶めかしさに、背筋がぞくぞくと震えた。
そのまま唇が寄せられ――
「っ――」
部屋の内側と、外側からと。繋がるのは、このひとつの窓。ここがわたしたちの境界線。
目の前には夜の深い闇にも負けない、晴れた日の空の青。半透明な青い瞳の向こう側で、星たちが静かに輝く。
その真昼の空に浮ぶ星の煌めきを、ずっと見ていた。
さようなら。わたしの、初恋。