4 叶うことのない
「幽霊さん……」
湯船に顎までつかりながら、ぽつりと呟く。
あのあとまっすぐ屋敷に戻ったのだが、幽霊さんはいなかった。まだ日が沈む前と言うこともあり、この時間は基本わたしの前には姿を現さない。
そもそも昼間わたしに声をかけてきたのも初めてのことだ。
数日前の夜のおしゃべりで彼は言っていた。自分は死んでいる人間だから、線引きはしないといけないと。でないと、きっと死んでいることを忘れてしまうと。
だからおしゃべりするのは、夜の1時間だけだと。
朝はもちろんわたしを起こしてくれるが、おはようの挨拶をしたあとはすぐに消えてしまう。そのためゆっくり会話をするのは、本当に夜だけだった。
「どうして、今日は昼間に会いに来たのかしら……」
もしかして記憶が戻ったとか? 天国に行けるめどが立ち、最後の挨拶をしにきたのだろうか。庭園で会った際に収穫はなかったと言っていたから、その可能性は低いとは思うのだけれど。
「そう言えば……わたしに触れようとしてきたのも初めてだわ」
唇に添えられた指先が脳裏に蘇る。視覚からの情報で脳が錯覚したのだろうか。実際に触れてはいないのに、彼の熱を感じた気がした。本当に、不思議な感覚だった。
「はぁ……」
自然とこぼれた溜め息は、浴室の湿った空気に溶けていく。
なんだか胸がもやもやするし、クリスのことも考えなくてはいけない。もう一度溜め息を追加して、湯船から上がった。
部屋に戻り、いつものように窓を開ける。
昼間は様子がおかしかったし、今夜は来てくれるだろうか。そう不安を感じていたわたしの目に、夜の闇の中では目立ってしまう金色の髪が飛び込んだ。
『昼間はすみませんでした!!』
直立した状態から腰を90度前に折り曲げた態勢は、それはそれは見事なお辞儀と言えるだろう。あまりにも至近距離で深々と頭を下げているので、わたしの目と鼻の先に金糸のようなサラサラの髪があった。
きっと透けていなかったら、もっと美しく光り輝いて見えただろうなと思う。
『本当にごめん。あのタイミングで口を挟むなんて最低すぎた』
もう一度頭を下げて、気まずそうに視線を逸らす。先ほどからずっと、わたしと目を合わせようとしてくれない。
「幽霊さん」
声をかけると、小さく肩を揺らしておずおずとこちらを見てきた。
「昼間のことは気にしていません。それよりも、あなたがここにいてくれて安心しました」
『え……?』
「様子がおかしかったので、天国に行く準備が整ってしまったのかと」
わたしの言葉に、幽霊さんは驚いたような顔をする。
『それはどういう意味……いや、そうだね。俺がいなくなると朝が大変か』
「それもありますが、わたしはあなたとおしゃべりするこの時間が好きなのです。あなたと話すのはとても楽しいので」
素直に思っていたことを伝えると、目の前の幽霊は青い瞳を見開いて動きを止める。しばらく時間が止まってしまったかのように動かなかった彼だが、突然両手で頭を抱えると大きな溜め息を吐きだした。
『はああぁ……なんで俺、きみと出会う前に死んじゃったんだろ』
「え?」
『幽霊になってからじゃ、なにもできないじゃないか……いますぐ生き返りたい』
「あの、幽霊さん……?」
ぶつぶつと一人で話し始めた彼の顔を覗き込むように、窓枠に手をかけて身を乗り出した。近づいた距離に、幽霊さんは慌てて両手を伸ばし数歩後ずさる。
『だめ、いま近づいたらなにするか分からない。……って俺、なにもできないんだった』
今度はがっくりと両肩を落とした。なんだか分からないが、忙しくなく変わる表情と態度にくすくすと笑ってしまう。
「面白い方ですね」
『幽霊と話すことが楽しいだなんて言う女の子のほうが、よっぽど面白いと思うよ……』
「そうですか? 相手があなただからだと思いますが」
『……なんなのこの子。無自覚なの? 俺試されてるの?』
「試す?」
『ああうん、なんでもないです……』
困ったように眉を寄せながら、また溜め息を吐いていた。
彼は本当に、表情が豊かだ。態度や口調も砕けていて、あまり貴族らしくはない。庶民だが貴族のように優雅に振る舞うクリスとは、正反対だなと思った。
わたしの考えを読んだわけではないと思うが、幽霊さんはちょうど頭に思い浮かべた人物について尋ねてくる。
『そう言えば、昼間の銀髪の彼とはどうなったの?』
「クリスですか? 夜会のことでしたら、まだ返事はしていません」
『そっか、でも行くんでしょ?』
「いえ、お断りしようと思っています」
わたしの返答に幽霊さんはまたしても驚いた顔をして、今度は一歩こちらに近づいた。
『どうして?』
「サイラス様との婚約が解消されてからまだ日が浅いですし、ドレスまで作っていただいて夜会に出席したら、クリスとは元々そういう仲だったのではと思われてしまいます」
『たしかにそれもそうか』
頷きながら納得している幽霊さんを見ながら、わたしは言葉を続けた。
「クリスの申し出はありがたいですが、わたしはまだ誰かとそういう関係になるのは考えられなくて」
この先公爵家へと嫁ぎ、サイラス様の妻になると思っていた。だから今まで他人に恋愛感情を抱くことはなかったし、そういう感情を殺してきた。
この歳になって解放されても、正直どうしたらいいか分からない。
『そっか……きみにはまだたくさん時間がある。ゆっくり考えてみればいいと思うよ』
そう言ってほほ笑んだので、私も笑顔で頷き返した。
『それにしても……王宮か』
「王宮がどうかしましたか?」
『あそこにはまだ行ってなかったな、と思って』
王城の敷地内に入ることができるのは、特別な人間に限られる。可能性は低いだろうが、手がかりがないとも限らない。
『明日は王宮に行ってみるよ。せっかくだし、噂の第一王子様の顔でも見てこよう』
第一王子のライベル殿下が帰国したことは、もう市井でも噂になっているようだった。学園内でもその名前をちらほらと聞いている。
「幽霊さんなら王族のお部屋も覗き放題ですしね。明日の夜は王宮内の話を聞かせてください」
『うん。国家機密に触れない程度に、覗いてくることにするよ』
冗談を言うように、幽霊さんはカラカラと笑う。
そのあとは軽く談笑をして、本日の秘密のおしゃべりは解散となった。
◆◇◆
翌日の昼休み、わたしはクリスに会いに行った。
昨日、会話の途中で帰ってしまったことを詫びつつ、幽霊さんにも話した理由を説明しながら丁寧にお断りすると、残念そうな顔をしながらも納得してくれた。
彼の気持ちについてはあえて言葉にしなかったが、夜会を断ったことで十分に伝わったようだった。これからも良いお友達でいてほしいと言われたので、彼の言葉に甘えることにした。
今日は妹の嫌がらせも気にならないほど、わたしは気分が良い。
今夜は幽霊さんが王宮内での話をしてくれるはずだ。わたしも一応女子なので、やはり漠然とした憧れのようなものがある。王城の敷地内にはまだ一度も入ったことがないので、ずっと気になっていたのだ。
いつものように湯浴みを済ませ、るんるんとした気分で窓を開けたが、金色の髪は見当たらない。どうやら今日は私の方が早かったらしい。
珍しいなと思いつつも、窓枠に肘をついて夜空を見上げた。雲ひとつない黒い空に、星が点々と煌めいている。
温かい風が頬を撫でていくのが心地よい。いまは比較的気温が高めだが、この先寒い季節になったら窓を開けたままおしゃべりするのは無理だな、なんて考える。
「そのときは部屋の中に招き入れてお話しようかしら。椅子を2脚とお茶も用意して。妹が入ってきたら、きっと気味悪がられるわね」
想像しながら、ひとりでくすりと笑う。幽霊さんには無事に天国に行ってほしいと思いながら、そんな先のことまで考えている自分がおかしかった。
正直会えなくなったら寂しいと思い始めているのだから、それも仕方ないと納得する。
そんなことを考えながら待っていたが、30分経っても幽霊さんは現れなかった。なにかあったのかと心配になりながらも、わたしにはどうすることもできない。
窓を開けたまま読書に耽っていたが、さらに1時間ほどが経過しても、結局幽霊さんは現れなかった。
その日はあきらめて、窓を閉めてベッドに入る。彼と出会ってから、夜にやってこなかったのは初めてだ。この秘密の時間が当たり前になっていたし、ずっと続くような錯覚をしていた。
もしかしたら、王宮で彼の記憶に関するなにかを見つけたのかもしれない。それはとても喜ばしいことだ。
でもなぜか、わたしの胸には不安が募っていくばかりだった。
◆◇◆
『ノアン、起きて』
微かに聞こえた声に、もそりと身体を動かす。
「ん……」
『朝だよ、そろそろ起きないと遅刻してしまうよ』
「遅刻……?」
ぼんやりとした思考が徐々に鮮明になっていく。薄っすらと目を開けると、金色の髪が飛び込んできた。そこでようやく状況を理解する。
「あっ……!」
思わずがばりと勢いよく起き上がる。わたしの顔を覗き込んでいた幽霊さんに頭突きをお見舞いする形になってしまったが、彼に触れることはできないので、最悪の事態は回避できた。
「幽霊さん! よかった、まだいらしたのですね」
ほっと胸を撫で下ろしながら言うと、彼は苦笑を漏らす。
『昨夜はごめんね。待たせちゃったかな?』
「……いえ、30分ほどであきらめたので、気にされないでください」
本を開いていた時間を含めると、合計して1時間半は待っていたが、それは言わなくてもいいだろう。実はベッドに入った後も不安でなかなか寝付けず、いつもより睡眠時間が短い。
そのせいでなかなか起きられず、彼に頭突きをプレゼントしてしまったのだ。
「あ……わたしったら失礼でしたね」
『ん? なにが?』
「まだいらしたなんて……まるであなたが天国に行っていなかったことが、嬉しいみたいな言い方……」
それは実のところ本心なのだが、幽霊さんの前で言っていいことではないだろう。彼は天国に行くために、記憶を思い出そうとしているのだから。
『……ノアンは、俺がいなくなったら寂しい?』
ベッドに上半身だけ起こした状態で俯いたわたしに、控えめに尋ねる。
その質問は、卑怯だ。はいと言えば、彼はずっとここにいてくれるのだろうか。
「…………」
どうにも答えられず黙り込んでしまう。これでは肯定しているようなものではないか。
視界の端で彼がベッドに腰かけたのが見えたので、ゆっくり顔を上げた。青い空色の瞳が優し気に細められ、伸びてきた手がわたしの頭を撫でる。
『……ごめんね、いじわるな質問だった』
実際に触れてなどいないのに、本当にそこに彼がいるような錯覚に陥る。これが現実だったら……そんなこと絶対にありえないのに、優しい手の感触を想像してしまった。
『ノアン、そろそろ支度しないと本当に遅刻してしまうよ』
「あ……!」
時計を見上げ、慌ててベッドから立ち上がる。もう少しあのままでいたかったと思いながら、着替えに向かった。
幽霊さんは苦笑を浮かべて、窓の外へと消えていく。その半透明な後ろ姿を見て、わたしは決して叶わない恋を自覚した。