11 後悔先に立たずと言うけれど
無事に本日最後の授業を終え、わたしは学園の敷地内にある停留所で帰りの馬車を待っていた。卒業生は午後の授業はほとんどないため、比較的早めに帰ることができる。
上を向くと、そこには雲一つない澄み渡った青い空。日差しの眩しさに目を細めたわたしの頬を、心地よいとは言えない風が乱暴にくすぐっていった。
今日は随分と風が強い。
可憐な花をつけた木々たちも騒がしく揺れている。枝から解放された桃色の花びらが、空へ駆け出すように舞い踊っていた。
花びらと戯れた風はやがてわたしの元へ辿り着き、薄茶色の長い髪を空へとさらっていく。今日は結っていなかったため風の誘いのままに髪は宙へと舞い上がり、わたしの視界を覆った。
慌てて手で避ける。戻ってきた視界の端に人影が映り込み、そちらに顔を向けると珍しい人物が立っていた。
「……サイラス様」
エランド公爵家の長男で、元婚約者。わたしとの婚約を勝手に破棄したことで公爵様のお怒りを買い、廃嫡され次期公爵という華々しい肩書はなくなってしまった。
顔を見るのはいつぶりだろうか。懐かしい、という感想が出るほどではないが、それなりに久しく感じてしまう。
「ノアン、久しぶりだな」
同じ感想を持ったのか、そう言葉をかけられた。
「お久しぶりですね、サイラス様。なにかご用ですか?」
「用……というほどでもないんだが……」
歯切れ悪く言葉を紡ぎ、気まずそうにわたしを見る。そして、強い風にかき消されそうなほどの小さな声で言った。
「いろいろと、すまなかった」
全く予想していなかった言葉に、少しだけ目を見開いて問いかける。
「それは何に対しての謝罪ですか?」
いろいろ、と前置きしていたが、なにを指すのかはよく分からない。該当するのは婚約を破棄したことについてだろうが、わたしにとってあれは人生の転機とも言えるため、むしろ感謝するべき出来事になってしまった。
舞踏会の夜、サイラス様に婚約を破棄されて帰路についていなければ、きっとあの太陽のような人には出会えなかっただろう。
わたしの質問に、サイラス様は躊躇いがちに答える。
「その……婚約を勝手に破棄したこともだが、それ以上におまえのことを呆けているだとか、ぼんやりしてて何考えてるか分からないだとか……そういうことを言った記憶があったから……」
「はぁ」
たしかに言っていた気がする。事実であるがゆえに聞き流していたので、あまり頭には残っていないが。
それにもう、そんなことはどうでもいいのだ。サイラス様に謝罪をされても、何を言われても、まったく心に響かない。無関係な他人と話をしているようで、だんだんとこの会話も面倒になってきた。
「今なら分かるんだ。あのおおらかなところがおまえの良さだって。強引なシエンナと違って、僕のペースに合わせてくれていたおまえにどうして気づけなかったんだろうな」
「あの……、なにを仰っているのですか?」
会話の意図が掴めない。いったい何が言いたいのかと呆然と見返すと、さらに意味の分からないことを口走った。
「婚約を破棄したことを後悔している」
「……失礼ですが、サイラス様は妹とのことを真実の愛だと仰っていました。じきに結婚されるのですよね? 真実の愛が実ることになにかご不満が?」
ゆっくり諭すように言葉を紡ぐと、サイラス様は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
「あの時はそうだと思っていたんだ。でも今なら分かる。シエンナとの愛は真実の愛なんかじゃなかった」
「それは無責任すぎませんか?」
「分かっている、どんなに身勝手なことを言っているかも。だから僕は責任をとって、父の言うとおりにシエンナと結婚する。あいつがどう思おうと」
意外だ。サイラス様は自分がしたことを理解しているらしい。彼は他人に流されやすいという欠点はあるが、公爵家の長男ということもあり元々責任感は強い方だった。
そんなサイラス様を壊したのが妹なのだ。まあ、簡単に壊された方も悪いのだが。
「妹はどうしていますか?」
「あいつはずっと部屋に閉じこもっている。たまに様子を見に行くんだが酷いありさまだよ。夜会でのことが心の傷になったらしく、眠ると悪夢を見るのだと怯えていた。睡眠不足に加え食事もほとんどとらないから、今度医者に診せる予定だ」
「そう、……だったのですね」
わたしの動揺を表すように、木々がざわざわと揺らめく。思っていた以上の状況に言葉が出ない。
しかし痛む心はあるものの、すべては自分の行動が招いた結果だ。妹のことはもう忘れるようにラウからも言われているし、あとの対応は公爵家に任せるしかないだろう。
顔色を悪くしたわたしに、サイラス様はいつものよく通る声で言う。
「今日は確かめに来たんだ」
「確かめる?」
「ああ。おまえと別れてから、胸の奥がもやもやとして仕方がないんだ」
「……はい?」
わたしはあなたとの会話で、胃の中がむかむかして仕方がないのですが。そう口から出そうになったがなんとか飲み込んだ。
「僕は……おまえが好きだったのかもしれない。シエンナを受け入れたのは……きっと、僕に全く興味を示さないおまえに対する当て付けだったんだ」
いやいやいや、いきなり何を言い出すんだこの人は。少しは見直したと思ったのに今のでまた氷点下だ。心なしか肌を撫でる風も冷たく感じる。このままでは木枯らしが吹きかねない。
他人に流されやすいという性格は把握していたが、まさか思い込みまで激しかったとは。
「ノアン、おまえは本当に僕に対して愛はなかったのか? あれは演技だったんじゃないかって……そう思いたい自分がいるんだ。いまは第一王子と婚約したようだが、それも無理やり――っ」
早口で捲し立てるサイラス様の言葉を遮るように、突風が吹いた。今まで遊んでいたどの風よりも、いっそう強く。
空へと舞い上げられた髪はそのままに、捲り上がりそうになった制服のスカートを手で押さえた。
運の悪いことに、風の強さにバランスを崩し身体が後ろに傾く。
「やっ――」
「ノアン!」
そのまま仰向けで地面に吸い込まれていくわたしの目の前で、サイラス様がこちらに手を伸ばすのが見えた。あの手を取ってはいけないと、受け身を取ることも忘れ固く目を閉じる。
そのまま地面に打ち付けられるのを待つだけだったのだが、何故か衝撃は来ず、やわらかいものがわたしの背中を包み込んだ。
「ふう、間に合ってよかった」
聞き覚えのある声に上を見上げると、わたしだけの空がそこにあった。日差しで顔は陰っていたが、その双眸に宿る青は少しも曇っていない。
上からわたしの顔を覗き込んだその人は、目尻を垂らして優しいほほ笑みを浮かべた。
「おまたせ、ノアン」
「……ラウ?」
どうやら地面に沈む前に、ラウが背中から抱き込むようにして助けてくれたらしい。後ろから伸ばされた両腕がわたしの腰をしっかりと抱いていた。
距離の近さに、彼がつけている香水の香りが鼻腔をくすぐる。匂いに関しては幽霊のときに感じることができなかったせいか、やたらとわたしの羞恥心を刺激した。
思わず頬を染めて問いかける。
「どうしてあなたがここに? 帰りは迎えに来られないと言っていた気が――」
「ああ、それね。思っていたよりも早く公務が片付いたから、きちゃった」
目を眇めて、おちゃめな表情でにこりと笑う。それからわたしの身体をくるりと反転し、彼の正面へと向き直らせた。
「今日は風が強いね。朝はそうでもなかったから、油断してたよ。ほら、たくさん花びらついてる」
「ひゃっ」
唐突に首筋を撫でられて変な声が出てしまった。そのまま彼の指は首の後ろへと移動していく。
「ら、ラウ……くすぐったいです」
「もう少し我慢して」
「んっ」
今度はうなじの辺りをひと撫でされる。またしても声が漏れてしまい、さらに顔が赤くなっていくのが分かった。
「こんなところにも隠れてた」
そう言って開いた手の中には数枚の花びらが。どうやら先ほどの突風で入り込んでしまっていたらしい。
いったいどうして首の裏側に花びらが隠れているのが分かったのか疑問に思うところだが、彼の行動に頭が混乱していたのか、その思考に至ることはなかった。
「言ってくだされば自分で取ったのに」
「せっかくのきみに触れる機会を逃すのがもったいなくて」
「あなたに触れられるのは嫌ではないので、わざわざ理由を作る必要はありませんよ? それに――」
おもむろに右手を伸ばし、金色の髪に指を滑らす。そのまま耳をそっとひと撫でして手を離した。
「わたしもラウにたくさん触れたいです」
金色の髪に引っかかっていた花びらを指でつまみ、顔の前で示しながら、彼に負けないくらいのいたずらな笑みを浮かべた。途端にラウの耳が真っ赤に染まり、そのまま抱き寄せられる。
「どうしよう、いますぐキスしたい」
「いま!?」
「うん、いま。ダメ?」
「だ、だめです」
「じゃあこれで我慢する」
わたしの右手を掴み、持っていた桃色の花びらに口づけた。拒否したのは自分なのに、花びらを羨ましく思ってしまう。
ラウは満足したのか、身体を離して右手を差し出した。
「それじゃあ帰ろうか」
「はい」
彼からキスをもらった花びらは、こっそりポケットにしまった。なんとなく捨てられなかったのだ。
手を取って歩き出したところで、わたしはすっかり存在を消し去っていた人物のことを思い出す。
「あ……そう言えばサイラス様は――」
「彼なら途中までそこにいたけど、急に顔を真っ赤にして走り去って行ったよ?」
先ほどまでサイラス様が立っていたところには誰もいない。話の途中だった気がするが、ラウとの会話に夢中できれいに忘れていた。いなくなったことにすら気が付かないほどに。
「大事な話でもしてた?」
「……いえ、大した内容ではありません。今のわたしには、特に」
「ふうん」
ラウにはそれ以上追及されなかったので、サイラス様と何を話していたのかまでは言わなかった。
吹き荒れる風に乱れる髪を押さえながら、馬車に乗り込む。ラウは当たり前のようにわたしの隣に腰かけて、少し神妙な面持ちで口を開いた。