10 おはようの代わりに
こちらの作品について、たくさんのブクマや評価、そして感想を送っていただきありがとうございます。
後日談を追加で執筆しました。
全部で13000字程度あり、後日談と言うよりはほぼただの続きのような気がします。
本編に比べ、糖度がかなり高めになっておりますのでご注意くださいませ。
「ノアン、朝だよ」
遠くから聞こえる自分の名を呼ぶ声に、意識が覚醒するのを感じる。
「今日から登校再開するんでしょ? そろそろ起きないと――」
夢うつつのまま耳にした言葉に、反射的に身体を起こした。直後にゴツンッという固いものがぶつかり合うような音が聞こえ、同時に頭部を激しい痛みが襲う。
「ぐっ」
「うっ」
ふたつの呻き声がきれいに揃った。
ズキズキと痛みを主張する額を両手で押さえる。
「ご、ごめん。つい幽霊のときの気分で顔を覗き込んでしまった……」
「いえ……寝ぼけていたわたしが悪いです……」
額を擦りながら身体を起こすと、金髪に青い瞳を持つ大好きな人が目に映る。彼はベッドの縁に腰掛けて、同じように額を片手で押さえていた。
叔父と母が捕まり、王宮へと連れてこられてから数日。身の回りのことが落ち着くまで学園は休んでいたのだが、本日から登校を再開することになった。
と言ってもあと2か月ほどで卒業式を迎えるため、必修の授業はほとんど残っていないのだが。
幽霊さん――もといラウと再会を果たしてから、わたしは何故かずっと王宮の客間に寝泊まりしている。
屋敷が使えるまでは宿を利用すると主張したわたしに、彼は満面の笑みでこう言ったのだ。
『宿を使うくらいならうちの客間でいいでしょう? メイドもつけるし、お金もかからないよ?』
いやいや、ただの伯爵令嬢を王宮で囲うなど、世間に知られたら誰もが黙っていないだろう。そう抗議してはみたが、男女の付き合いをするなら世間に隠すのは難しいと思う、と正論で返されてしまった。
全く以てその通りだ。結局まともに反論もできず、わたしはライベル殿下と婚約を交わしたと世間に公表されることになった。
そして彼が言っていたモントリス家の婿になると言う話だが、あれもやはり現実的ではないと白紙になった。第一王子が伯爵家の婿になるというのは、諸々の事情からして難しいらしい。王家の威厳や体裁を保つという面から見ても、仕方のないことだろう。
ラウもそれについては納得したようで、伯爵位は予定通り親戚の息子に譲渡することにした。そして婚約期間を経た上で双方に問題がなければ、わたしが彼の元に嫁ぐという形で落ち着いたのだ。
そんなこんなで丸め込まれてしまったわたしは、今日も王宮の客間で朝を迎えた。昨日までは早い時間に起きる必要はなく、適当に目が覚めた時点でベッドから出ていたのだが、今日はそうもいかない。
メイドに起こしてもらうように頼もうとしたところ、その役は自分が引き受けても構わないかとラウに問われた。どうせ今までさんざん寝顔は見られているし、彼がそうしたいのであればいいかと二つ返事で頷いたのだが……まさか朝から頭をぶつけ合うことになるとは。
「傷になってないか確認してもいいかな?」
いまだにじんじんと痛む額に手を当てていると、彼が不安げに尋ねる。痛い思いをさせてしまったことに罪悪感を感じているのだろう。気が済むのならと、了承を示すためにこくりと頷いた。
彼の長い指先がそっとわたしの前髪をかき分ける。間近に迫った空色の瞳に急に恥ずかしさが込み上げ、つい視線を逸らすように下を向くと、男性的な凹凸のある喉元が目に入った。
朝だからかシャツのボタンは二つほど開いており、襟の隙間から健康的な肌が覗いている。幽霊だったころは透けていたこともあり近づかれてもあまり気にならなかったが、現実の世界で目にしてしまうと破壊力は抜群だ。血の通った艶めかしさに、思わずごくりと唾を飲み込んでしまった。
「少し赤くなってるけど、痣にはなってなさそうだ」
ラウは安心したようにほっと息を吐き出した。それから自分の前髪をかき上げて「俺はどう?」と聞いてくる。こちらも同じように赤く腫れていたが、大事には至らなそうだ。
「わたしと同じような状態ですね」
「そっか。ごめんね、次からは気をつける」
「いえ、こういうのも悪くないと思います」
本音を漏らすと、ラウはきょとんした顔をして首を傾げる。
「悪くない?」
「はい。あなたとおそろいの傷も悪くないな、と」
わたしの返答に彼は盛大に溜め息を吐いて、金色の前髪をくしゃりと握り潰した。
「……きみはまた、そういうことを無自覚に言う」
「いけませんでしたか?」
「だめだね。とてもだめだ。いまの俺はきみに触れるんだから、俺を煽るような言葉は自重するように」
どうやら今の発言は、彼のなにかを刺激してしまったらしい。むしろせっかく触れるようになったのだから好きなだけ触れてくれてもいいのに、と思ったが口に出すのはやめておいた。……少々身の危険を感じたので。
「このままノアンともう少し戯れていたいけど、そろそろ時間が厳しいかな?」
時計を見上げ、慌ててベッドから降りる。ラウはくすくすと笑いながら、部屋から出ていった。
そのあとは支度を済ませてふたりで朝食をとり、わたしは学園へと向かった。……のだが、今日は暇なんだと言ってラウが馬車に同乗したので、結局学園に着くまで心臓が落ち着かなかったのは言うまでもない。
◆◇◆
昼休みになり、わたしは学園の食堂へと向かう。父が亡くなってからは毎日のように利用していたので、ここのランチを食べられるのもあと少しかと思うと感慨深い。
本日はパスタのセットを手に取って、いつもの窓際の席に座る。周りから好奇の視線が飛んできたが、朝からずっと似たようなまなざしを浴び続け、さすがに慣れてしまった。
そう、いまのわたしは第一王子であるライベル殿下の婚約者という扱いなのだ。
朝は王家の紋章つきの馬車で登校し、さらに殿下が直接見送るというパフォーマンス付き。皆どういう事情でわたしが第一王子の婚約者になったのか気になっているようだが、妹の影響で距離を置いていたこともあり声を掛けにくいようだ。
妹はずっと学園には来ていないらしい。
現在モントリスの屋敷は使えない状態なのだが、気を利かせたサイラス様のお父上であるエランド公爵様が、妹の身柄を引き受けてくれた。いずれ息子と結婚させるのだからと今は公爵邸でお世話になっているようだが、与えられた部屋から一切出てこないらしい。
王宮での夜会で何があったのかは聞いている。多少気の毒には思うが、己の行動が招いた結果ゆえ同情の余地はないだろう。
妹についてはわたしが口を挟めることはないので、無責任かもしれないが全て公爵様にお任せすることにした。
パスタに手を付けようとしたところで、わたしを見ている視線の群れからひとりの青年が声を掛けてくる。
「こちらの席、失礼しますね」
サラサラの銀髪を耳にかけながら涼やかな声で言い、その人は向かい側の席に腰かけた。
「こんにちは、クリス」
「こんにちは。相変わらず居心地が悪そうですね」
ちらりと周囲に視線を向けて苦笑を漏らし、クリスはそのまま言葉を続ける。
「それにしても今朝は驚きました」
「見られていましたか」
「ええ。あれほど仲睦まじい姿を見せられては、僕に勝ち目はありませんね」
ふだん他人には穏やかな表情しか見せないクリスだが、いまは珍しく不機嫌さを顔に滲ませていた。
実は二日ほど前にクリスは商人として登城し、わたしとラウに会っている。延期となっていた第一王子の生活用品を揃えるための商談の席に、捨てられてしまった普段着の購入目的で同席させてもらったのだ。ラウがプレゼントさせてほしいと言ってきたので、素直に甘えることにした。
正直なところ、服に関しては本当に困っていたのだ。ラウも嬉しそうにしながら一緒に選んでくれたので、甘えてよかったと思っている。
そしてその際に、クリスにはわたしの身に起きた出来事を全て話した。もちろんラウに許可はもらっている。彼も親友である護衛の騎士には話してしまったと言っていたし、これでおあいこだろう。
「……まあ、僕ではあなたの地位をそのままに守ってあげることはできませんでした。先代の伯爵の殺人についても、ノアンの立場が悪くならないように王家の方で圧力をかけているようですし、そこまで完璧にされてはいっそ清々しいほどです」
それについては初耳だ。
叔父と母の所業のせいで、モントリス家の評判が落ちることは覚悟していた。しかしクリスの発言からすると、どうやら王家の方で手を回しているらしい。
ラウからは一言も聞いていなかったので、わたしはフォークを咥えたまま動きを止めてしまう。すぐに我に返り急いでパスタを飲み込んだ。
「――っそれは初めて聞きました」
「でしょうね。ライベル殿下に初めてお会いした際は随分と軽い――……いえ、人当たりの良い方だと感じましたが、実際は相当な切れ者だと思いますよ」
たしかに幽霊であることを利用して叔父と母を追い詰め、自身の身体に戻ってから数日でふたりを捕らえるまでに至っている。
私の前では明るい青年の姿しか見せないが、彼が今まで抱えてきたものを考えると、それが全てではないことは容易に想像がついた。
クリスに言われて気づくなんて……
ここ数日いろいろとありすぎて、思考がうまく回っていなかったようだ。
呆然とした表情でフォークを置いたわたしを見ながら、クリスはさらにいじわるな顔つきで言う。
「それに、殿下は随分と嫉妬深いようだ」
「嫉妬……ですか?」
「ええ。今朝わざわざ見送りに来たのも、他の男子生徒に対する牽制でしょう」
今朝の出来事を思い出す。馬車から先に降りたラウはわたしをエスコートし、別れの際は右手の甲に口づけを落としていった。人前であんなことをされたのは初めてだったので、ついされるがままに一連の流れを見届けてしまった。
あれを牽制と言われれば否定はできない。
「一見穏やかそうに見えますが、拗らせると厄介なタイプですよ。僕と同じで」
「クリスと……?」
首を傾げながら問いかけると、美しい銀髪を揺らしながら、女性に見間違えそうなきれいな顔でにこりと笑った。
「はい。僕はあなたを諦めますが、悔しいので少しくらいのいじわるは許してくださいね」
そう言って、わたしが楽しみに残しておいたデザートの中から大きないちごをひとつ手に取り、ぱくりと頬張った。
「あっ……!」
「ふふ。ノアンは隙が多すぎる」
くすくすと笑いながら、クリスは自分の皿の上にあるさくらんぼを、先ほどまでいちごが置かれていた場所にちょこんと載せた。
それから何事もなかったように食事を再開する。
「わたしのいちご……」
「さくらんぼも美味しいですよ?」
「いちごは特別なのです」
「知っていますよ。先代の伯爵が、甘いものが苦手な娘がいちごだけはよく食べるんだと仰って、うちに買い付けに来ていましたから」
父は極度の甘党で、珈琲には角砂糖を5個以上放り込み、パンケーキにはこれでもかというほどたっぷり蜂蜜をかけていた。それを横で見ていた影響なのか、わたしは逆に甘いものが苦手になってしまったのだ。
しかしフルーツの甘みはまた別物だ。特にいちごのように酸味のあるものは好きだった。さくらんぼも嫌いではないが、やはりいちごには勝てない。
肩を落としてから、あからさまに悲しげな表情で前を見る。そんなわたしの視線を正面から受け止めてしまったクリスは、驚いたように目を見開いて慌てて言った。
「――っすみません! ノアンがそこまでいちごが好きだったとは……お詫びにバローナ商会自慢の高級いちごをお贈りしますので、先ほどのことは水に流してもらえませんか?」
「……分かりました。約束ですよ?」
控えめにほほ笑むと、クリスは安心したように小さく息を吐いた。
今の悲しげな顔は演技だったのだが、思っていた以上の効果を発揮してしまった。奪われたいちごのことを考えればお互い様ではあるが。
……ちょっとばかり、わたしの方が得をしている気もするけれど。
久しぶりに友人とのゆっくりとした食事の時間を楽しみ、わたしたちは午後の授業へと向かった。