黄泉比良坂
「…ふぁ~、頭いて…」
渡辺一郎はしこたま酔っていた。
「どこだ、ここ…?」
煌々と明るい電車の中に人影はない。薄暗いホームにも。
『終点ヨモツヒラサカです。こちらの電車は回送電車となり、どなた様も御乗車いただけません。お忘れもののないようご注意ください。』
「終点かよ。やっちまった~。」
渡辺一郎は都内の債権回収会社勤務。大雑把に言えば、合法的な不良債権の取立屋だ。焦げ付きかかった債権の回収となれば、色々際どい対応もしなければいけない。勤務時間はあってないがごとく、有給なんて都市伝説レベルの存在である。
今日も23時まで仕事をして、会社の近所の公園で第3のビールとチューハイを飲み続け、終電に乗り込んだらしい。記憶はないが。
「黄泉比良坂…聞いたことない駅名だな。どこまで来ちゃったんだ?」
回送電車だというので、とりあえず蛍光灯がまばらについただけの人気のないホームに降りる。
「今何時だ…げっ、2時!?」
電車に乗ったのはおそらく24時過ぎだろう。そこから2時間経ったとなると一体どこまで来てしまったのか。
「明日も仕事か…行きたくねぇな…」
会社は9時始業だが、新人の一郎は8時には会社に着いて、フロアの掃除やコピー用紙の補充等の雑用をこなさなければならない。ということは、4時間後にはこの駅を出発しなければいけない。
「もう上り電車があるわけないし。駅前にビジネスホテルなんてあるかな…なければ野宿か…」
10月の夜、少し冷えるが凍死するほどではなさそうだ。
その時。
『1番線に回送電車が入ります。』
ヘッドライトが目に入り、一瞬視界が真っ白になる。
今ここで1歩踏み出したら、もう会社行かなくていいんだよな。
一郎はホームから1歩、踏み出した。